李衛公問対 / 卷中
此蓋先料人情本非為惡,豈不豫慮哉?臣頃討突厥,總蕃漢之眾,出塞千里,未嘗戮一揚干,斬一莊賈,亦推赤誠、存至公而已矣。陛下過聽,擢臣以不次之位。若於文武,則何敢當?」太宗曰:「昔唐儉使突厥,卿因擊而敗之。人言卿以儉為死間,朕至今疑焉。如何?」靖再拜曰:「臣與儉比肩事主,料儉說必不能柔服,故臣因縱兵擊之,所以去大惡,不顧小義也。人謂以儉為死間,非臣之心。案《孫子》〈用間〉,最為下策。臣嘗著論其末云:
新字:此蓋先料人情本非為悪,豈不予慮哉?臣頃討突厥,総蕃漢之衆,出塞千里,未嘗戮一揚干,斬一荘賈,亦推赤誠、存至公而已矣。陛下過聴,擢臣以不次之位。若於文武,則何敢当?」太宗曰:「昔唐倹使突厥,卿因撃而敗之。人言卿以倹為死間,朕至今疑焉。如何?」靖再拝曰:「臣与倹比肩事主,料倹説必不能柔服,故臣因縦兵撃之,所以去大悪,不顧小義也。人謂以倹為死間,非臣之心。案《孫子》〈用間〉,最為下策。臣嘗著論其末云:
書き下し
此れ蓋し先づ人情の本(もと)悪を為すに非ざるを料る、豈に予(あらかじ)め慮らざらんや。臣頃(このごろ)突厥を討ち、蕃漢の衆を総べ、塞を出づること千里、未だ嘗て一揚干を戮し、一荘賈を斬らず、亦た赤誠を推し、至公を存するのみ。陛下過聴し、臣を擢(ぬき)んずるに不次の位を以てす。若し文武に於いては、則ち何ぞ敢へて当たらん。」太宗曰く、「昔唐倹突厥に使ひし、卿因りて撃ちて之を敗る。人言ふ、卿倹を以て死間と為すと。朕今に至るまで疑ふ。如何。」靖再拝して曰く、「臣と倹とは肩を比(なら)べて主に事(つか)ふ。倹の説必ず柔服すること能はざるを料る。故に臣因りて兵を縦(はな)ちて之を撃つ。大悪を去りて、小義を顧みざる所以なり。人倹を以て死間と為すと謂ふは、臣の心に非ず。『孫子』の〈用間〉を案ずるに、最も下策と為す。臣嘗て論を著して其の末に云ふ、
現代語訳
(李靖が続けた。)これは思うに、光武帝がまず、人の情はもともと悪をなすものではないと見抜いていたからであって、どうして前もって考えていなかったことがあろうか。臣は先ごろ突厥(北方の遊牧国家)を討ったとき、蕃兵(異民族の兵)と漢兵の軍勢を統べて、長城を出ること千里に及んだが、一度として揚干(晋の悼公の弟。その御者が軍法で処刑された)のような者を処刑したり、荘賈(斉の監軍。司馬穰苴に遅参で斬られた)のような者を斬ったりしたことはない。ただ真心を推し広げ、公正を保っただけである。陛下は過分に臣の言をお聞き入れになり、順序を越えた地位に臣を抜擢された。文武の才ということであれば、どうして臣にふさわしいであろうか。」太宗は言った。「昔、唐倹(唐の重臣)が突厥に使いしたとき、卿はそれに乗じて攻撃して突厥を破った。人は、卿が唐倹を死間(敵に偽りを伝えて殺される間者)として使ったと言う。朕は今に至るまでそれを疑っている。どうなのか。」李靖は再拝して言った。「臣と唐倹とは肩を並べて主君に仕えている。臣は、唐倹の説得では必ずしも突厥を柔順に服させることはできないと見て取った。だから臣はそれに乗じて兵を放って撃ったのである。大きな悪を除くために、小さな義を顧みなかったのである。人が唐倹を死間としたと言うのは、臣の本心ではない。『孫子』の用間篇を調べると、間者を用いることを最も下策としている。臣はかつて論を著して、その末尾にこう書いた。
解説
関連する章句
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李衛公問対・卷中或いは間を用ひて以て功を成し、或いは間に憑りて以て傾敗す。若し束髪して君に事へ、朝に当たりて色を正し、忠以て節を尽くし、信以て誠を竭(つ)くさば、善間有りと雖も、安んぞ用ふべけんや。唐倹の小義、陛下何ぞ疑はん。」太宗曰く、「誠なるかな。『仁義に非ざれば間を使ふこと能はず』、此れ豈に繊人の為す所ならんや。周公は大義もて親を滅す、況んや一使人をや。灼として疑ひ無し。」太宗曰く、
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李衛公問対・卷中之を存すれば、則ち余の詭復た増さず。之を廃すれば、則ち貪を使ひ愚を使ふの術、何に従りてか施さんや。」太宗良(やや)久しくして曰く、「卿宜しく之を秘し、外に泄らす無かるべし。」太宗曰く、「厳刑峻法、人をして我を畏れて敵を畏れざらしむ、朕甚だ之に惑ふ。昔光武孤軍を以て王莽の百万の衆に当たる、刑法の之に臨む有るに非ず。此れ何に由るや。」靖曰く、「兵家の勝敗は、情状万殊にして、一事を以て推すべからざるなり。陳勝・呉広の秦師を敗るが如き、豈に勝・広の刑法能く秦に加はらんや。光武の起こるや、蓋し人心の莽を怨むに順ふなり。況んや又王尋・王邑は兵法を暁らず、徒らに兵衆を誇る、自ら敗るる所以なり。臣『孫子』を案ずるに曰く、
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李衛公問対・卷下故に営を安んじ地に拠るは、人事に便なるのみ。澗・井・陥・隙の地、及び牢羅の如き処の若きは、人事便ならざる者なり。故に兵家引きて之を避け、敵の我に乗ずるを防ぐ。丘墓・故城は、絶険の処に非ず、我之を得れば利と為す、豈に宜しく反つて之を去るべけんや。太公の説く所は、兵の至要なり。」太宗曰く、「朕思ふに凶器兵より甚だしきは無し。兵を行ひて苟も人事に便なれば、豈に避忌を以て疑ひと為さんや。今後、諸将陰陽拘忌を以て、事宜に失する者有らば、卿当に丁寧に之を誡むべし。」靖再拝して謝して曰く、「臣『尉繚子』を按ずるに云ふ、『黄帝徳を以て之を守り、刑を以て之を伐つ、是れを刑徳と謂ふ。天官・時日の謂に非ざるなり』と。然れども詭道は之に由らしむべく、之を知らしむべからず。後世の庸将は、術数に泥(なづ)む、是を以て多く敗る、誡めざるべからざるなり。陛下の聖訓、臣即ち諸将に宣告せん。」太宗曰く、「兵に分有り聚有り、各(おのおの)宜しきに適ふを貴ぶ。前代の事迹、孰(たれ)か此を善くする者と為す。」靖曰く、「苻堅百万の衆を総べて、淝水に敗る。此れ兵能く合して分かつこと能はざるの致す所なり。呉漢公孫述を討つに、副将劉尚と分屯し、相去ること二十里。述来たりて漢を攻む。尚出でて合撃し、大いに之を破る。此れ兵分かれて能く合するの致す所なり。太公云ふ、
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李衛公問対・卷上臣の区区として古制をば、皆纂(あつ)めて以て図にする所以の者は、有制の兵と成らんことを庶(こひねが)へばなり。」太宗曰く、「卿我が為に古の陣法を択び、悉く図にして以て上(たてまつ)れ。」太宗曰く、「蕃兵は唯だ勁馬奔衝す、此れ奇兵か。漢兵は唯だ強弩犄角す、此れ正兵か。」靖曰く、「『孫子』を案ずるに云ふ、『善く兵を用ゐる者は、之を勢に求めて、人に貴ばず。故に能く人を択びて勢に任ず』と。夫れ所謂人を択ぶとは、各々蕃漢の長ずる所に随ひて戦ふなり。蕃は馬に長じ、馬は速闘に利あり。漢は弩に長じ、弩は緩戦に利あり。此れ自然に各々其の勢に任ずるなり。然れども奇正の分かつ所に非ず。臣前に曾て蕃漢を部するに必ず号を変じ服を易ふるは、奇正相生ずるの法なり。馬にも亦た正有り、弩にも亦た奇有り、何の常か之れ有らんや。」太宗曰く、「卿更に細かに其の術を言へ。」靖曰く、「先づ之を形(あら)はし、敵をして之に従はしむ、是れ其の術なり。」太宗曰く、「朕之を悟れり。『孫子』に曰く、『兵を形はすの極は、無形に至る』と。又曰く、『形に因りて勝ちを衆に措くも、衆知ること能はず』と。其れ此の謂か。」靖再拝して曰く、「深きかな、陛下の聖慮、已に思ひ半ばに過ぎたり。」太宗曰く、「近ごろ契丹・奚皆内属す。松漠・饒楽の二都督を置き、安北都護に統べしむ。朕薛万徹を用ゐんとす、如何。」靖曰く、「万徹は阿史那社尒及び執失思力・契苾何力に如かず。此れ皆蕃臣の兵を知る者なり。常に之と松漠・饒楽の山川道路、蕃情の逆順を言ふに因り、遠くは西域の部落十数種に至るまで、歴歴として信ずべし。臣之に教ふるに陣法を以てすれば、点頭して義に服せざるは無し。望むらくは陛下之に任じて疑ふ勿れ。万徹の若きは、則ち勇にして謀無く、以て独り任じ難し。」太宗笑ひて曰く、「蕃人皆卿の役使する所と為る。古人云ふ、『蛮夷を以て蛮夷を攻むるは、中国の勢なり』と。卿之を得たり。」
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貞観政要・任賢李靖は、京兆三原の人なり。大業の末、馬邑郡丞と為る。曾(かつ)て高祖太原留守と為るや、靖は高祖を観察し、四方の志有るを知る。因りて自ら鎖して変を上(たてまつ)らんとし、江都に詣(いた)る。長安に至るも、道塞がりて通ぜずして止む。高祖京城を克し、靖を執えて、将に之を斬らんとす。靖大呼して曰く、「公は義兵を起こして暴乱を除く。大事に就くを欲せずして、私怨を以て壮士を斬らんとするか」と。太宗も亦た靖を救うを加う。高祖遂に之を舎(ゆる)す。武徳中、蕭銑(しょうせん)・輔公祏(ほこうせき)を平らぐる功を以て、歴遷して揚州大都督府長史と為る。太宗位を嗣ぎ、召して刑部尚書に拝す。貞観二年、本官を以て中書令を検校す。三年、兵部尚書に転じ、代州行軍総管と為り、進みて突厥の定襄城を撃ち、之を破る。突厥の諸部落は倶に磧北(せきほく)に走る。北のかた隋の斉王暕(かん)の子楊道政、及び煬帝の蕭后を擒(とら)え、長安に送る。突利可汗来降し、頡利(けつり)可汗は僅かに身を以て遁(のが)る。太宗謂いて曰く、「昔、李陵は歩卒五千を提(ひっさ)げ、身を匈奴に降すを免れず。尚お名を竹帛に書するを得たり。卿は三千の軽騎を以て、深く虜庭に入り、克く定襄を復し、威は北狄に振(ふる)う。実に古今未だ有らず。往年渭水の役に報ゆるに足る」と。功を以て進みて代国公に封ぜらる。此の後、頡利可汗は大いに懼れ、四年、退きて鉄山を保つ。使いを遣わして入朝謝罪し、国を挙げて内附せんことを請う。又た靖を以て定襄道行軍総管と為し、往きて頡利を迎えしむ。頡利は外は降を請うと雖も、心は疑弐を懐く。詔して鴻臚卿唐倹、摂戸部尚書将軍安修仁を遣わして之を慰諭す。靖は副将張公謹に謂いて曰く、「詔使彼に到れば、虜は必ず自ら寛(ゆる)まん。乃ち精騎を選び二十日の糧を賫(もた)らし、兵を引きて白道より之を襲わん」と。公謹曰く、「既に其の降を許し、詔使彼に在り。未だ討撃するに宜しからず」と。靖曰く、「此れ兵機なり。時は失うべからず」と。遂に軍を督して疾く進む。行きて陰山に至り、其の斥候千余帳に遇う。皆な俘(とりこ)にして以て軍に随わしむ。頡利は使者を見て甚だ悦び、官兵の至るを虞(おもんばか)らず。靖の前鋒は霧に乗じて行き、其の牙帳を去ること七里。頡利始めて覚る。兵を列ぬるも未だ陣を成すに及ばず、単馬にて軽く走る。虜衆因りて潰散す。斬ること万余級、其の妻隋の義成公主を殺し、男女十余万を俘とす。土界を斥(ひろ)むること陰山より大漠に至る。遂に其の国を滅ぼす。尋いで頡利可汗を別の部落に獲、余衆悉く降る。太宗大いに悦び、顧みて侍臣に謂いて曰く、「朕聞く、主憂うれば臣辱められ、主辱められれば臣死す、と。往者、国家草創し、突厥強梁なり。太上皇は百姓の故を以て、臣と頡利に称す。朕未だ嘗て心を痛め首を疾(や)ましめ、匈奴を滅ぼさんことを志し、坐しては席に安んぜず、食らいては味を甘しとせずんばあらず。今者、暫く偏師を動かし、往くとして捷(か)たざる無し。単于(ぜんう)は顙(ひたい)を稽(ぬか)ず。恥は其れ雪がれたり」と。群臣皆な万歳を称す。尋いで靖を光禄大夫・尚書右僕射に拝し、実封五百戸を賜う。又た西海道行軍大総管と為し、吐谷渾(とよくこん)を征し、大いに其の国を破る。改めて衛国公に封ぜらる。靖の身亡ぶるに及び、詔有りて墳塋の制度は漢の衛・霍の故事に依るを許し、闕を築きて突厥内の燕然山、吐谷渾内の積石の二山に象(かたど)り、以て殊績を旌(あら)わす。
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李衛公問対・卷下所謂朝の気鋭しとは、時刻を限りて言ふに非ざるなり。一日の始末を挙げて喩へと為すなり。凡そ三たび鼓して、敵衰へず竭(つ)きざれば、則ち安んぞ能く必ず之をして惰帰せしめんや。蓋し学者徒らに空文を謂ひて、敵の誘ふ所と為る。苟も之を奪ふの理を悟らば、則ち兵任ずべし。」太宗曰く、「卿嘗て言ふ、李勣兵法を能くすと。久しく用ふべきや否や。然れども朕の控御に非ざれば、則ち用ふべからざるなり。他日太子治、若何(いかん)ぞ之を御せん。」靖曰く、「陛下の為に計るに、勣を黜(しりぞ)け、太子をして復た之を用ひしむるに若くは莫し。則ち必ず恩に感じて報いんことを図らん。理に於いて何ぞ損せんや。」太宗曰く、「善し。朕疑ひ無し。」太宗曰く、「李勣若し長孫無忌と共に国政を掌らば、他日如何。」靖曰く、「勣は忠義なり、臣保任すべきなり。無忌は佐命の大功あり、陛下肺腑の親を以て、之に輔相を委ぬ。然れども外貌は士に下り、内実は賢を嫉む。故に尉遅敬徳、面(まのあ)たり其の短を折(くじ)き、遂に引退す。侯君集は其の旧を忘るるを恨み、因りて以て逆を犯す。皆無忌其の然るを致すなり。陛下詢(と)ひて臣に及ぶ、臣敢へて其の説を避けず。」太宗曰く、「泄らす勿かれ、朕徐ろに其の処置を思はん。」太宗曰く、「漢の高祖能く将に将たり、其の後韓・彭誅せられ、蕭何獄に下る、何の故に此くの如きや。」靖曰く、「臣劉・項を観るに、皆将に将たるの君に非ず。秦の亡ぶるに当たりてや、張良本韓の為に仇に報ゆ。陳平・韓信は皆楚の用ひざるを怨む、故に漢の勢を仮りて、自ら奮ふのみ。蕭・曹・樊・灌に至りては、悉く亡命に由る。高祖之に因りて以て天下を得たり。設(も)し六国の後をして復た立たしめば、人人各其の旧を懐はん。則ち能く将に将たるの才有りと雖も、豈に漢の用と為らんや。臣謂(おも)へらく漢の天下を得たるは、張良の箸を借るの謀、蕭何の漕輓の功に由るなり。此を以て之を言へば、韓・彭の誅せらるると、范増の用ひられざると、其の事同じきなり。臣故に謂ふ、劉・項は皆将に将たるの君に非ずと。」
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