李衛公問対 / 卷中
反是,則力有弗逮。非治之之術,安能臨兵哉?」太宗曰:「今人習《孫子》者,但誦空文,鮮克推廣其義。治力之法,宜偏告諸將。」太宗曰:「舊將老卒,凋零殆盡,諸軍新置,不經陳敵。今教以何道為要?」靖曰:「臣常教士,分為三等:必先結伍法,伍法既成,授之軍校,此一等也。軍校之法,以一為十,以十為百,此一等也。授之裨將,裨將乃總諸校之隊,聚為陳圖,此一等也。大將軍察此三等之教,於是大閱,稽考制度,分別奇正,誓眾行罰。陛下臨高觀之,無施不可。」太宗曰:「伍法有數家,孰者為要?」靖曰:「臣案《春秋》左氏傳云:『先偏後伍。』,又《司馬法》曰:『五人為伍。』,《尉繚子》有〈束武令〉,漢制有尺籍伍符;後世符籍,以紙為之,於是失其制矣。臣酌其法,自五人而變為二十五人,自二十五人而變為七十五人,此則步卒七十二人,甲士三人之制也。舍車用騎,則二十五人當八馬,此則五兵五當之制也。是則諸家兵法,唯伍法為要。小列之五人,大列之二十五人,參列之七十五人,又五參其數,得三百七十五人。三百人為正,六十人為奇,此則百五十人分為二正,而三十人分為二奇,蓋左右等也。穰苴所謂『五人為伍,十伍為隊』,至今因之,此其要也。」
新字:反是,則力有弗逮。非治之之術,安能臨兵哉?」太宗曰:「今人習《孫子》者,但誦空文,鮮克推広其義。治力之法,宜偏告諸将。」太宗曰:「旧将老卒,凋零殆尽,諸軍新置,不経陳敵。今教以何道為要?」靖曰:「臣常教士,分為三等:必先結伍法,伍法既成,授之軍校,此一等也。軍校之法,以一為十,以十為百,此一等也。授之裨将,裨将乃総諸校之隊,聚為陳図,此一等也。大将軍察此三等之教,於是大閲,稽考制度,分別奇正,誓衆行罰。陛下臨高観之,無施不可。」太宗曰:「伍法有数家,孰者為要?」靖曰:「臣案《春秋》左氏伝云:『先偏後伍。』,又《司馬法》曰:『五人為伍。』,《尉繚子》有〈束武令〉,漢制有尺籍伍符;後世符籍,以紙為之,於是失其制矣。臣酌其法,自五人而変為二十五人,自二十五人而変為七十五人,此則歩卒七十二人,甲士三人之制也。舎車用騎,則二十五人当八馬,此則五兵五当之制也。是則諸家兵法,唯伍法為要。小列之五人,大列之二十五人,参列之七十五人,又五参其数,得三百七十五人。三百人為正,六十人為奇,此則百五十人分為二正,而三十人分為二奇,蓋左右等也。穰苴所謂『五人為伍,十伍為隊』,至今因之,此其要也。」
書き下し
是に反すれば、則ち力逮(およ)ばざる有り。之を治むるの術に非ずんば、安んぞ能く兵に臨まんや。」太宗曰く、「今人の『孫子』を習ふ者は、但だ空文を誦するのみにして、克く其の義を推広すること鮮し。力を治むるの法は、宜しく偏く諸将に告ぐべし。」太宗曰く、「旧将老卒、凋零して殆ど尽き、諸軍新たに置かれ、陣敵を経ず。今教ふるに何の道を以てか要と為す。」靖曰く、「臣常に士を教ふるに、分かちて三等と為す。必ず先づ伍法を結び、伍法既に成れば、之を軍校に授く。此れ一等なり。軍校の法は、一を以て十と為し、十を以て百と為す。此れ一等なり。之を裨将に授け、裨将乃ち諸校の隊を総べ、聚めて陣図と為す。此れ一等なり。大将軍此の三等の教へを察し、是に於いて大いに閲し、制度を稽考し、奇正を分別し、衆に誓ひて罰を行ふ。陛下高きに臨みて之を観れば、施して可ならざる無し。」太宗曰く、「伍法に数家有り、孰れか要と為す。」靖曰く、「臣案ずるに、『春秋』左氏伝に云ふ、『偏を先にし伍を後にす』と。又『司馬法』に曰く、『五人を伍と為す』と。『尉繚子』に「束武令」有り、漢の制に尺籍伍符有り。後世の符籍は、紙を以て之を為る。是に於いて其の制を失へり。臣其の法を酌み、五人より変じて二十五人と為し、二十五人より変じて七十五人と為す。此れ則ち歩卒七十二人、甲士三人の制なり。車を舎てて騎を用ゐれば、則ち二十五人は八馬に当たる。此れ則ち五兵五当の制なり。是れ則ち諸家の兵法、唯だ伍法を要と為す。小列の五人、大列の二十五人、参列の七十五人、又五たび其の数を参(まじ)へて、三百七十五人を得。三百人を正と為し、六十人を奇と為す。此れ則ち百五十人分かれて二正と為り、三十人分かれて二奇と為る。蓋し左右等しきなり。穰苴の所謂『五人を伍と為し、十伍を隊と為す』、今に至るまで之に因る。此れ其の要なり。」
現代語訳
これに反すれば、力が及ばないことになる。力を治める術によらなければ、どうして戦いに臨めようか。」太宗が言った。「今の『孫子』を学ぶ者は、ただ空しく文を暗誦するだけで、その意味を推し広げられる者はほとんどいない。力を治める法は、あまねく諸将に告げるべきだ。」太宗が言った。「古参の将や老兵はほとんど死に絶え、諸軍は新たに置かれて、陣を組んで敵と戦った経験がない。今、何を要として教えればよいか。」李靖が言った。「臣は常に兵士を教えるのに、三つの段階に分けている。必ずまず伍(五人組)の法を結び、伍の法ができたら、軍校(下級の指揮官)に授ける。これが一段階である。軍校の法は、一を十にし、十を百にする。これが一段階である。それを裨将(ひしょう、副将)に授け、裨将は諸校の隊を総べて集め、陣図とする。これが一段階である。大将軍はこの三段階の教えを見届け、そこで大閲兵を行い、制度を点検し、奇正を区別し、全軍に誓って罰を行う。陛下が高いところに臨んでこれを観れば、どんな用い方もできる。」太宗が言った。「伍の法には数家あるが、どれが要か。」李靖が言った。「臣が調べると、『春秋左氏伝』に『偏(戦車隊)を先にし伍を後にする』とあり、また『司馬法』に『五人を伍とする』とある。『尉繚子』には「束武令」(伍を束ねる令)があり、漢の制度には尺籍伍符(兵士の名簿と割符)があった。後世の割符や名簿は紙で作るようになり、そこでその制度が失われた。臣はその法を斟酌して、五人から変じて二十五人とし、二十五人から変じて七十五人とした。これがすなわち歩兵七十二人・甲士三人の制度である。戦車を捨てて騎兵を用いるなら、二十五人は馬八頭に相当する。これがすなわち五兵五当の制度である。つまり諸家の兵法では、ただ伍の法を要とするのだ。小列の五人、大列の二十五人、参列の七十五人、さらにその数を五倍して三百七十五人を得る。三百人を正とし、六十人を奇とする。これはつまり百五十人ずつ分かれて二つの正となり、三十人ずつ分かれて二つの奇となる。左右が等しいのである。穰苴のいわゆる『五人を伍とし、十伍を隊とする』は、今に至るまでこれに従っている。これがその要である。」
解説
関連する章句
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李衛公問対・卷上周の一乗は、歩卒七十二人、甲士三人なり。二十五人を以て一甲と為し、凡そ三甲、共に七十五人なり。楚は山沢の国にして、車少なく人多し。分かちて三隊と為せば、則ち周の制と同じ。」太宗曰く、「春秋に荀呉狄を伐つに、車を毀ちて行と為す。亦た正兵か、奇兵か。」靖曰く、「荀呉は車の法を用ゐたるのみ。車を舎(す)つと雖も法は其の中に在り。一は左角と為し、一は右角と為し、一は前拒と為し、分かちて三隊と為す。此れ一乗の法なり、千万乗も皆然り。臣曹公の『新書』を案ずるに云ふ、『攻車は七十五人、前拒一隊、左右角二隊。守車は一隊、炊子十人、守装五人、廐養五人、樵汲五人、共に二十五人。攻守二乗、凡そ百人。兵十万を興すに、車千乗を用ゐ、軽重二千』と。此れ大率孫・呉の旧法なり。又漢魏の間の軍制を観るに、五車を隊と為し、僕射一人。十車を師と為し、率長一人。凡そ車千乗に、将吏二人。多多此に倣ふ。臣今の法を以て之を参用すれば、則ち跳盪は騎兵なり。戦鋒隊は歩騎相半ばす。駐隊は車乗を兼ねて出づるなり。臣西のかた突厥を討つに、険を越ゆること数千里、此の制未だ嘗て敢へて易へず。蓋し古法の節制、信に重んずべし。」太宗霊州に幸し、迴(かへ)りて、靖を召して坐を賜ひ、曰く、「朕道宗及び阿史那社尒等に命じて薛延陁を討たしむ。而して鉄勒の諸部漢官を置かんことを乞ふ、朕皆其の請ひに従ふ。延陁西に走る、後患と為らんことを恐る、故に李勣を遣はして之を討たしむ。今荒方悉く平らぐも、然れども諸部蕃漢雑処す。何の道を以てか経久し、両つながら全く之を安んずるを得しめん。」靖曰く、「陛下勅して突厥より回紇の部落に至るまで、凡そ駅を置くこと六十六処、以て斥候を通ず。斯れ已に策を得たり。
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李衛公問対・卷下卿為に歴代の節制を善くする者を纂述し、図を具へて来たり上れ。朕当に其の精微を択び、後世に垂るべし。」靖曰く、「臣前に進むる所の黄帝・太公の二陣図、并(なら)びに『司馬法』・諸葛亮の奇正の法、此れ已に精悉なり。歴代の名将、其の一二を用ひ、功を成す者も亦衆し。但だ史官は兵を知ること鮮(すくな)く、其の実迹を紀すこと能はず。臣敢へて詔を奉ぜざらんや、当に纂述して以て聞すべし。」太宗曰く、「兵法は、孰れをか最も深しと為す。」靖曰く、「臣常に分かちて三等と為し、学ぶ者をして当に漸にして至らしむ。一に曰く道、二に曰く天地、三に曰く将法。夫れ道の説は、至微至深なり。『易』の所謂『聡明叡智、神武にして殺さず』とは是れなり。夫れ天の説は陰陽、地の説は険易なり。善く兵を用ふる者は、能く陰を以て陽を奪ひ、険を以て易を攻む。『孟子』の所謂『天の時・地の利』とは是れなり。夫れ将法の説は、人に任じ器を利するに在り。『三略』の所謂『士を得る者は昌(さか)ゆ』、『管子』の所謂『器は必ず堅利なり』とは是れなり。」太宗曰く、「然り。吾謂(おも)へらく、戦はずして人の兵を屈する者は、上なり。百戦百勝する者は、中なり。溝を深くし塁を高くして以て自ら守る者は、下なり。是を以て校量すれば、孫武の書を著すや、三等皆具はる。」靖曰く、「其の文を観、其の事を迹(たづ)ぬれば、亦差別すべし。張良・范蠡・孫武の若きは、脱然として高く引き、往く所を知らず。此れ道を知るに非ずんば、安んぞ能く爾らんや。楽毅・管仲・諸葛亮の若きは、戦へば必ず勝ち、守れば必ず固し。此れ天の時・地の利を察するに非ずんば、安んぞ能く爾らんや。其の次、王猛の秦を保ち、謝安の晋を守る、将に任じ材を択び、繕完して自ら固むるに非ずんば、安んぞ能く爾らんや。故に
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李衛公問対・卷中後人三覆の義を暁らざれば、則ち戦騎必ず陥騎・遊騎より前む、如何ぞ使用せん。臣熟(つら)つら此の法を用ふ。軍を回らし陣を転ずれば、則ち遊騎前に当たり、戦騎後に当たり、陥騎変に臨みて分かる。皆曹公の術なり。」太宗笑ひて曰く、「多少の人か曹公に惑はさる。」太宗曰く、「車・歩・騎の三者は、一法なり。其の用は人に在るか。」靖曰く、「臣『春秋』の『魚麗の陣』を案ずるに、偏を先にし伍を後にす。此れ則ち車歩にして騎無し。之を左右の拒と謂ふは、拒禦を言ふのみにして、出奇の勝を取るに非ざるなり。晋の荀呉狄を伐つに、車を舎(す)てて行と為す。此れ則ち騎多きを便と為し、唯だ奇勝を務む、拒禦のみに非ず。臣其の術を均しくし、凡そ一馬を三人に当て、車歩之に称(かな)はしめ、混じて一法と為し、之を用ふるは人に在り。敵安んぞ吾が車の果たして何くより出で、騎の果たして何くより来たり、徒の果たして何くより従ふを知らんや。或いは九地に潜み、或いは九天に動く、其の知神の如きは、惟だ陛下のみ焉(これ)有り、臣何ぞ以て之を知るに足らんや。」太宗曰く、「太公の書に云ふ、『地は方六百歩或いは六十歩、十二辰を表す』と。其の術如何。」靖曰く、「地を画すること方一千二百歩、開方の形なり。毎部地を占むること二十歩の方、横は五歩を以て一人を立て、縦は四歩を以て一人を立つ。凡そ二千五百人、五方に分かち、空地四処、所謂陣間に陣を容るる者なり。武王紂を伐つに、虎賁各(おのおの)三千人を掌り、毎陣六千人、共に三万の衆、此れ太公の地を画するの法なり。」太宗曰く、「卿の六花陣は地を画すること幾何(いくばく)ぞ。」靖曰く、「大閲には、地は方千二百歩なる者、其の義は六陣、各地を占むること四百歩、分かちて東西両廂と為し、空地一千二百歩を教戦の所と為す。臣嘗て士三万を教ふるに、毎陣五千人、其の一を以て営法と為し、五を方・円・曲・直・鋭の形と為し、毎陣五変、凡そ二十五変にして止む。」
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李衛公問対・卷上臣の区区として古制をば、皆纂(あつ)めて以て図にする所以の者は、有制の兵と成らんことを庶(こひねが)へばなり。」太宗曰く、「卿我が為に古の陣法を択び、悉く図にして以て上(たてまつ)れ。」太宗曰く、「蕃兵は唯だ勁馬奔衝す、此れ奇兵か。漢兵は唯だ強弩犄角す、此れ正兵か。」靖曰く、「『孫子』を案ずるに云ふ、『善く兵を用ゐる者は、之を勢に求めて、人に貴ばず。故に能く人を択びて勢に任ず』と。夫れ所謂人を択ぶとは、各々蕃漢の長ずる所に随ひて戦ふなり。蕃は馬に長じ、馬は速闘に利あり。漢は弩に長じ、弩は緩戦に利あり。此れ自然に各々其の勢に任ずるなり。然れども奇正の分かつ所に非ず。臣前に曾て蕃漢を部するに必ず号を変じ服を易ふるは、奇正相生ずるの法なり。馬にも亦た正有り、弩にも亦た奇有り、何の常か之れ有らんや。」太宗曰く、「卿更に細かに其の術を言へ。」靖曰く、「先づ之を形(あら)はし、敵をして之に従はしむ、是れ其の術なり。」太宗曰く、「朕之を悟れり。『孫子』に曰く、『兵を形はすの極は、無形に至る』と。又曰く、『形に因りて勝ちを衆に措くも、衆知ること能はず』と。其れ此の謂か。」靖再拝して曰く、「深きかな、陛下の聖慮、已に思ひ半ばに過ぎたり。」太宗曰く、「近ごろ契丹・奚皆内属す。松漠・饒楽の二都督を置き、安北都護に統べしむ。朕薛万徹を用ゐんとす、如何。」靖曰く、「万徹は阿史那社尒及び執失思力・契苾何力に如かず。此れ皆蕃臣の兵を知る者なり。常に之と松漠・饒楽の山川道路、蕃情の逆順を言ふに因り、遠くは西域の部落十数種に至るまで、歴歴として信ずべし。臣之に教ふるに陣法を以てすれば、点頭して義に服せざるは無し。望むらくは陛下之に任じて疑ふ勿れ。万徹の若きは、則ち勇にして謀無く、以て独り任じ難し。」太宗笑ひて曰く、「蕃人皆卿の役使する所と為る。古人云ふ、『蛮夷を以て蛮夷を攻むるは、中国の勢なり』と。卿之を得たり。」
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李衛公問対・卷中曹公は驕りて勝つことを好む。当時、諸将の『新書』を奉ずる者、敢へて其の短を攻むる莫し。且つ敵に臨みて表を立つるは、乃ち晩きこと無からんや。臣窃かに陛下の製する所の破陣楽舞を観るに、前に四表を出だし、後に八旛を綴り、左右に折旋し、金鼓に趨歩し、各(おのおの)其の節有り。此れ即ち八陣図、四頭八尾の制なり。人間(じんかん)但だ楽舞の盛んなるを見るのみ、豈に軍容の斯くの如きを知る有らんや。」太宗曰く、「昔漢の高帝天下を定め、歌ひて云ふ、『安(いづく)んぞ猛士を得て四方を守らしめん』と。蓋し兵法は意を以て授くべく、語を以て伝ふべからず。朕破陣楽舞を為(つく)るに、唯だ卿のみ已に其の表を暁れり。後世其れ我が苟(かりそめ)にも作らざるを知らん。」太宗曰く、「方色の五旗を正と為すか。旛麾の折衝を奇と為すか。分合を変と為すに、其の隊数は曷(なに)をか宜しきを得と為す。」靖曰く、「臣古法を参用す。凡そ三隊合すれば、則ち旗相倚りて交はらず。五隊合すれば、則ち両旗交はる。十隊合すれば、則ち五旗交はる。角を吹き、五交の旗を開けば、則ち一復た散じて十と為る。二交の旗を開けば、則ち一復た散じて五と為る。相倚りて交はらざるの旗を開けば、則ち一復た散じて三と為る。兵散ずれば則ち合を以て奇と為し、合すれば則ち散を以て奇と為す。三令五申し、三たび散じ三たび合し、然して復た正に帰す。四頭八尾、乃ち教ふべし。此れ隊法の宜しき所なり。」太宗善しと称す。太宗曰く、「曹公に『戦騎・陥騎・遊騎』有り、今の馬軍は何等にか比する。」靖曰く、「臣『新書』を案ずるに云ふ、『戦騎は前に居り、陥騎は中に居り、遊騎は後に居る。此くの如くんば、則ち是れ各名号を立て、分かちて三類と為すのみ。大抵騎隊の八馬は車徒二十四人に当たり、二十四騎は車徒七十二人に当たる。此れ古制なり。車徒は常に教ふるに正を以てし、騎隊は常に教ふるに奇を以てす』と。曹公に拠れば、前後及び中、分かちて三覆と為し、両廂を言はざるは、一端を挙げて言ふなり。
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李衛公問対・卷中太宗曰く、「五行陣は如何。」靖曰く、「本(もと)五方の色に因りて此の名を立つ。方・円・曲・直・鋭は、実は地形に因りて然らしむ。凡そ軍素(もと)より此の五者を習はずんば、安んぞ以て敵に臨むべけんや。兵は詭道なり、故に強ひて五行と名づく。之を文(かざ)るに術数相生相克の義を以てするも、其の実は兵の形は水に象(かたど)り、地に因りて流れを制す、此れ其の旨なり。」太宗曰く、「李勣言ふ、『牝牡・方円は、伏兵の法なり』と。古是れ有りや否や。」靖曰く、「牝牡の法は、俗伝に出づ。其の実は陰陽の二義のみ。臣范蠡を案ずるに云ふ、『後るれば則ち陰を用ひ、先んずれば則ち陽を用ふ。敵の陽節を尽くし、吾が陰節を盈たして之を奪ふ』と。此れ兵家の陰陽の妙なり。范蠡又云ふ、『右を設けて牝と為し、左を益して牡と為し、早晏以て天道に順ふ』と。此れ則ち左右・早晏、時に臨みて同じからず、奇正の変に在る者なり。左右は、人の陰陽なり。早晏は、天の陰陽なり。奇正は、天人相変ずるの陰陽なり。若し執りて変ぜざれば、則ち陰陽倶に廃す、如何。牝牡の形を守るのみ。故に之に形(あらは)す者は、奇を以て敵に示す、吾が正に非ざるなり。之に勝つ者は、正を以て敵を撃つ、吾が奇に非ざるなり。此れを奇正相変ずと謂ふ。兵の伏する者は、山谷草木に止まらず、伏蔵する所以を伏と為すなり。其の正は山の如く、其の奇は雷の如く、敵対面すと雖も、吾が奇正の所在を測る莫し。此に至りては、夫れ何の形か之れ有らん。」太宗曰く、「四獣の陣、又商・羽・徴・角を以て之に象るは、何の道ぞや。」靖曰く、「詭道なり。」太宗曰く、「廃すべきか。」靖曰く、「之を存するは能く之を廃する所以なり。若し廃して用ひざれば、詭愈(いよいよ)甚だし。」太宗曰く、「何の謂ぞや。」靖曰く、「之を仮るに四獣の陣、及び天地風雲の号を以てし、又商金・羽水・徴火・角木の配を加ふ、此れ皆兵家自古の詭道なり。
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