練兵説略抄録 / 練兵大意・流儀にも流行にも偏らず実質を問う
或は固陋にして、流法に自縛せられ、時勢に應ぜざる古格を甘んずる者あり。或は西洋の戰風を慕ひ、異樣を用て、人目を眩惑し、我長を捨て、兵機を鈍するを知らざる者あり。各其實意に違ふ。是予が歎息する所以也。」夫操練は富國强兵の基源にして、和漢の明君賢將此事を重ず。上代專ら勅して兵を練しめられ、源右府大業の後大狩し、神事に流鏑馬、競馬、遊興に笠懸、犬追物等をなす、皆是兵を練の一端となしたる也。今列國往々神事に兵を練の意を存するものあり。唯恨らくは、其形のみを存し、其實を失へることを。夫戰國に操練なく、治世に必ず操練を要す。戰國に操練なきは、士卒常に水火の中に入、白刃を蹈、矢玉を冒し、萬死に入て、一生を得れば、將の指揮に從ふと、左右の手の如くなれば、實地に練熟すれば也。然ども稀には操練なすもあれど、書に記し、敎を殘すに及ず。蒲生氏鄕奧州大崎にて合戰の時、佐久間備前と云者先陣して下知しけるが、氏鄕の心に應せず、重ての先陣は神田修理、外池信濃、岡野左內、蒲生源左衞門たるべし、佐久間は見物せよと命ず。
新字:或は固陋にして、流法に自縛せられ、時勢に応ぜざる古格を甘んずる者あり。或は西洋の戦風を慕ひ、異様を用て、人目を眩惑し、我長を捨て、兵機を鈍するを知らざる者あり。各其実意に違ふ。是予が嘆息する所以也。」夫操練は富国強兵の基源にして、和漢の明君賢将此事を重ず。上代専ら勅して兵を練しめられ、源右府大業の後大狩し、神事に流鏑馬、競馬、遊興に笠懸、犬追物等をなす、皆是兵を練の一端となしたる也。今列国往々神事に兵を練の意を存するものあり。唯恨らくは、其形のみを存し、其実を失へることを。夫戦国に操練なく、治世に必ず操練を要す。戦国に操練なきは、士卒常に水火の中に入、白刃を蹈、矢玉を冒し、万死に入て、一生を得れば、将の指揮に従ふと、左右の手の如くなれば、実地に練熟すれば也。然ども稀には操練なすもあれど、書に記し、教を残すに及ず。蒲生氏郷奥州大崎にて合戦の時、佐久間備前と云者先陣して下知しけるが、氏郷の心に応せず、重ての先陣は神田修理、外池信濃、岡野左内、蒲生源左衛門たるべし、佐久間は見物せよと命ず。
書き下し
或は固陋にして、流法に自縛せられ、時勢に應ぜざる古格を甘んずる者あり。或は西洋の戰風を慕ひ、異樣を用て、人目を眩惑し、我長を捨て、兵機を鈍するを知らざる者あり。各其實意に違ふ。是予が歎息する所以也。」夫操練は富國强兵の基源にして、和漢の明君賢將此事を重ず。上代專ら勅して兵を練しめられ、源右府大業の後大狩し、神事に流鏑馬、競馬、遊興に笠懸、犬追物等をなす、皆是兵を練の一端となしたる也。今列國往々神事に兵を練の意を存するものあり。唯恨らくは、其形のみを存し、其實を失へることを。夫戰國に操練なく、治世に必ず操練を要す。戰國に操練なきは、士卒常に水火の中に入、白刃を蹈、矢玉を冒し、萬死に入て、一生を得れば、將の指揮に從ふと、左右の手の如くなれば、實地に練熟すれば也。然ども稀には操練なすもあれど、書に記し、敎を殘すに及ず。蒲生氏鄕奧州大崎にて合戰の時、佐久間備前と云者先陣して下知しけるが、氏鄕の心に應せず、重ての先陣は神田修理、外池信濃、岡野左內、蒲生源左衞門たるべし、佐久間は見物せよと命ず。
現代語訳
あるいは頑固で、流派の法に自縛され、時勢に合わない古い格式に甘んじる者もいます。あるいは西洋の戦い方を慕い、異様なものを用いて人目を惑わし、我が長所を捨てて兵の機を鈍らせることに気づかない者もいます。いずれも真意に背いています。これが私の嘆く理由です。」そもそも操練は富国強兵の基であり、日本・中国の明君賢将はこの事を重んじました。上代には専ら勅命で兵を練らせ、源右府は大業の後に大狩を行い、神事には流鏑馬・競馬、遊興には笠懸・犬追物などをしましたが、これらはみな兵を練る一端でした。今も諸藩に往々、神事で兵を練る意を残すものがあります。ただ残念なのは、その形だけを残してその実を失っていることです。戦国に操練がなく、治世に必ず操練を要します。戦国に操練がなかったのは、士卒が常に水火の中に入り、白刃を踏み、矢玉を冒し、万死の中から一生を得るので、将の指揮に従うことが左右の手のようになり、実地で習熟していたからです。しかし稀には操練をした例もありますが、書に記して教えを残すまでには至りませんでした。蒲生氏郷が奥州大崎で合戦したとき、佐久間備前という者が先陣として指図しましたが、氏郷の意に叶わず、次の先陣は神田修理・外池信濃・岡野左内・蒲生源左衛門とせよ、佐久間は見物せよと命じました。
解説

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『講孟余話』告子下 第九章此の章「土地を辟き、府庫を充たし、与国を約し、戦へば必ず克つ」を憎むに非ず。「君道に郷はず、仁に志さずして、之を富まさんことを求め、而して之が為に強戦せんことを求む」を憎むなり。此等の章大体上より見下さざれば明らかならず。故に結語に云く、「今の道に由り、今の俗を変ずること無くんば、之に天下を与ふと雖も、一朝も居ること能はざるなり」と。今の道に由らず、今の俗を変ぜんとならば如何。前章五覇三王の事、及び「其の君を引きて、以て道に当て仁に志さしむ」の説より工夫を下す時は大本立つなり。大本已に立つ時は枝葉是に従ふ。已に三王の道を立て、五覇の術を採り、道に当り仁に志す上は、土地を辟き府庫を充たすの臣、与国を約し戦へば必ず克つの臣も亦皆有用なり。離婁上篇第十四章に、「善く戦ふ者は上刑に服し、諸侯を連ぬる者は之に次ぎ、草萊を辟き土地を任ずる者は之に次ぐ」とあり。尽心下篇に「我善く陳を為す、我善く戦を為すと、大罪なり」と。而して前章三王の事を説きては云く、「土地辟け、田野治まる」と。五覇の事を説きては云く、「既に盟ふの後、言に好に帰す」と。公孫丑下篇首章、「君子戦はざること有り、戦へば必ず勝つ」と云ふ。又梁恵王下篇第三章、文武の勇を称し、其の他燕を伐つを論ずる諸章梁恵王下第十章第十一章、公孫丑下第八章等を以て見れば、孟子をして志を得せしめば、亦必ず富国強兵の策を採用し、善戦善陳の士を駆使すること必せり。
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六韜・農器武王 太公に問ひて曰く、「天下 安定し、国家 事なし。戦攻の具、修むること無かるべきか。守禦の備へ、設くること無かるべきか」と。太公曰く、「戦攻守禦の具は、尽く人事に在り。耒耜は、其の行馬・蒺藜なり。馬牛・車輿は、其の営塁・蔽櫓なり。鋤耰の具は、其の矛戟なり。蓑薛・簦笠は、其の甲冑・干楯なり。钁鍤・斧鋸・杵臼は、其の攻城の器なり。牛馬は、糧用を転輸する所以なり。鶏犬は、其の伺候なり。婦人の織紝は、其の旌旗なり。丈夫の壌を平らぐるは、其の攻城なり。春に草棘を鏺るは、其の戦車騎なり。夏に田疇を耨るは、其の戦歩兵なり。秋に禾薪を刈るは、其の糧食の儲備なり。冬に倉廩を実たすは、其の堅守なり。田里 相 伍たるは、其の約束符信なり。里に吏あり、官に長あるは、其の将帥なり。里に周垣ありて相過ぐるを得ざるは、其の隊分なり。粟を輸し芻を収むるは、其の廩庫なり。春秋に城郭を治め、溝渠を修むるは、其の塹塁なり。故に用兵の具は、尽く人事に在るなり。善く国を為むる者は、人事に取る。故に必ず其の六畜を遂げしめ、其の田野を闢き、其の処所を安んぜしむ。丈夫の田を治むるに畝数あり、婦人の織紝に尺度あり、是れ富国強兵の道なり」と。武王曰く、「善き哉」と。
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『講孟余話』告子下 第九章故に孟子の憎む所は、道に郷はず仁に志さざるを憎むのみ。譬へば五穀と烏頭・大黄の如し。人を養ふは五穀に過ぎたるはなし。病を駆るは烏頭・大黄に踰えたるはなし。故に五穀を以て人を養ふと云へども、又疾病来り加はる時は、烏頭・大黄を以て是を駆除せざることを得ざるが如し。妄医あり、烏頭・大黄を以て人に勧めて常膳となさしむ。人安んぞ之に堪へんや。是に至りて妄医の妄、大罪を遁るべからず。良医あり、其の烏頭・大黄を薬籠中に蔵し、他日病を視、機を察して之を投じ奇効を奏す。是に至りて又良医の良大功となさざることを得ず。仁と道とは五穀なり。富国強兵・善戦善陳は烏頭・大黄なり。王者は良医なり。故に五穀を以て人を養ひて、烏頭・大黄を以て病を駆除す。世主は妄医なり。故に五穀を辟絶して烏頭・大黄を以て人を残ふ。是を以て孟子の論を観ば思ひ半ばに過ぎん。此の事頗る腐論に似たれども、余今世を視るに、強兵富国を策する者は滔々乎として功利の流れに陥り、夢にも王道の大体を知らず。其の極み兵も亦日々に衰弱し、国も亦日々に貧耗し、遂に危亡と相随ふに至る。又王道を説く者は腐儒陋学の淵藪となり、古に拘り今に通ぜず、仁義の大道を明らかにして、人心を正しくすることは望む所に非ず。人倫日用俗吏武人の容易に弁ずる所だも弁ずる能はず、碌々として一世の笑侮を受くるに至る。慨嘆に堪へざるの余りに此の腐論を発するなり。読者幸ひに細思せよ。
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『韓非子』六反第四十六聖人の治や、法禁に審らかなり、法禁明著なれば則ち官治まる。賞罰に必す、賞罰阿らざれば則ち民用ゐらる。民用ゐられ官治まれば則ち国富み、国富めば則ち兵強くして、霸王の業成る。
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史記 商君列伝公叔既に死し、公孫鞅秦の孝公の令を国中に下して賢者を求め、将に繆公の業を修め、東のかた侵地を復さんとするを聞き、乃ち遂に西のかた秦に入り、孝公の寵臣景監に因りて以て孝公に見えんことを求む。孝公既に衛鞅に見え、事を語ること良久しきも、孝公時時睡りて、聴かず。罷みて孝公景監を怒りて曰く、「子の客は妄人のみ、安くんぞ用ふるに足らんや」と。景監以て衛鞅を譲む。衛鞅曰く、「吾公に説くに帝道を以てす、其の志開悟せざりき」と。後五日、復た鞅に見えんことを求む。鞅復た孝公に見ゆ、益々愈れり、然れども未だ旨に中らず。罷みて孝公復た景監を譲め、景監も亦鞅を譲む。鞅曰く、「吾公に説くに王道を以てして未だ入らざるなり。請ふ復た鞅に見えよ」と。鞅復た孝公に見ゆ、孝公之を善しとすれども未だ用ひざるなり。罷みて去る。孝公景監に謂ひて曰く、「汝の客善し、与に語るべし」と。鞅曰く、「吾公に説くに霸道を以てす、其の意之を用ひんと欲す。誠に復た我に見えば、我之を知れり」と。衛鞅復た孝公に見ゆ。公与に語り、自ら厀の席より前むを知らざるなり。語ること数日にして厭かず。景監曰く、「子何を以て吾が君に中てたる。吾が君の懽び甚だし」と。鞅曰く、「吾君に説くに帝王の道の三代に比するを以てす、而して君曰く、『久遠なり、吾待つ能はず。且つ賢君なる者は、各々其の身に及びて名を天下に顕す、安くんぞ能く邑邑として数十百年を待ちて以て帝王を成さんや』と。故に吾彊国の術を以て君に説く、君大いに之を説ぶのみ。
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尉繚子・兵令下諸そ大軍を去りて前禦の備へを為す者は、辺県列侯、各相去ること三五里。大軍の前禦の備へを為すを聞けば、戦へば則ち皆行くを禁ず、内を安んずる所以なり。内卒出でて戍れば、将吏をして旗鼓戈甲を授けしむ。発する日、将吏に後れ及び県の封界を出づる者は、後戍の法を以て坐す。兵辺を戍ること一歳、遂に亡げて代を候たざる者は、法亡軍に比す。父母妻子之を知れば、与に罪を同じくす。知らざれば、之を赦す。卒将吏に後れて大将の所に至ること一日なれば、父母妻子尽く罪を同じくす。卒逃げて家に帰ること一日、父母妻子捕執せず及び言はざれば、亦罪を同じくす。諸そ戦ひて其の将吏を亡ふ者、及び将吏卒を棄てて独り北ぐる者は、尽く之を斬る。前吏其の卒を棄てて北ぐるに、後吏能く之を斬りて其の卒を奪ふ者は、賞す。軍功無き者は、戍ること三歳。三軍大いに戦ひ、若し大将死して、従吏五百人以上敵に死する能はざれば、斬る。大将の左右近卒の陳中に在る者は、皆斬る。余の士卒軍功有る者は、一級を奪ふ。軍功無き者は、戍ること三歳。戦ひて伍人を亡ひ、及び伍人戦死して其の屍を得ざれば、同伍尽く其の功を奪ふ。其の屍を得れば、罪皆赦す。軍の利害は、国の名実に在り。今名は官に在りて、実は家に在り、官は其の実を得ず、家は其の名を得ず。卒を聚めて軍と為すも、空名有りて実無く、外は以て敵を禦ぐに足らず、内は以て国を守るに足らず、此れ軍の給せざる所以、将の威を奪はるる所以なり。臣以謂へらく、卒逃げ帰る者は、同舎の伍人及び吏罰して糧を入れて饒と為し、名づけて軍実と為す、是れ一軍の名有りて、二実の出有り、国内空虚にして、自ら民の歳を竭くす、曷ぞ以て奔北の禍を免れんや。今法を以て逃帰を止め、亡軍を禁ずるは、是れ兵の一勝なり。什伍相連なり、戦闘に及べば則ち卒吏相救ふは、是れ兵の二勝なり。