楽訓 / 巻之下・後論
老の身は、殊に殘生のいくほどなくて、死期の近きにあらんこと、忘るべからず。もし我が身に禍あらば、古今はなはだしき禍にあへる人多し。それに我が不幸をくらべて見ば、我が禍はさほどなくて、恨なかるべし。是つたなき計のやうに聞ゆめれど、古の賢者のをしへなり。これを試むるにしるしを得る事多し。此計すてがたし。
新字:老の身は、殊に残生のいくほどなくて、死期の近きにあらんこと、忘るべからず。もし我が身に禍あらば、古今はなはだしき禍にあへる人多し。それに我が不幸をくらべて見ば、我が禍はさほどなくて、恨なかるべし。是つたなき計のやうに聞ゆめれど、古の賢者のをしへなり。これを試むるにしるしを得る事多し。此計すてがたし。
書き下し
老の身は、殊に残生のいくほどなくて、死期の近きにあらんこと、忘るべからず。もし我が身に禍あらば、古今はなはだしき禍にあへる人多し。それに我が不幸をくらべて見ば、我が禍はさほどなくて、恨なかるべし。是つたなき計のやうに聞ゆめれど、古の賢者のをしへなり。これを試むるにしるしを得る事多し。此計すてがたし。
現代語訳
老いた身は、とりわけ残りの命がいくばくもなく、死期が近いことを忘れてはなりません。もし自分の身に災いがあったなら、古今にははなはだしい災いにあった人が多い。それと自分の不幸を比べてみれば、自分の災いはそれほどでもなく、恨むこともないでしょう。これは拙い計りごとのように聞こえますが、昔の賢者の教えです。これを試してみると効き目を得ることが多い。この計りごとは捨てがたいものです。
解説
不幸にあったときは、古今のもっと大きな不幸にあった人と比べてみよ、そうすれば自分の災いは小さく思え恨みが消える、と益軒は勧めます。自ら「拙い方法に聞こえる」と認めつつ、試すと効き目が多いと実感をこめて述べているのが印象的です。心理学でいう下方比較にあたる考え方でしょう。ただし他人の不幸を喜ぶのではなく、自分の苦しみを相対化して立ち直るための工夫です。つらい出来事に打ちのめされたとき、視野を広げる手がかりになります。
この章句が説くこと
不幸比較恨み老い心
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