楽訓 / 巻之中・節序
野には又陽烟と云ふもの、霞のごとく、地より立ちのぼれり。又かげろふともいふ。莊周は之を野馬と云ふ。老杜が詩に、落花遊絲白日靜なりといへるも、是ならし。是みな常には無き物なるが、春めきていとめづらし。又かきねの草、早く萠出づるを見るにつけても、春の氣は下よりのぼるけぢめ、いと明けし。花もやうやう咲きつゞきて、梅花すでにうつろひて後新なるは、我が國ならぬ唐桃の花なるべし。桃紅なるはたなびく雲の面影のたつ心地す。李白きは、きえがての雪の、梢に殘れるかと見えていとうるはし。櫻のほころび出でたるこそ、花に心はなけれど、人の心を動して、えならぬ眺なれ。是我が日の本にて、四時の花の多き中にも、第一の見ものなれば、梅ちりて後、この比の異花は、皆けおされぬ。
新字:野には又陽烟と云ふもの、霞のごとく、地より立ちのぼれり。又かげろふともいふ。荘周は之を野馬と云ふ。老杜が詩に、落花遊糸白日静なりといへるも、是ならし。是みな常には無き物なるが、春めきていとめづらし。又かきねの草、早く萠出づるを見るにつけても、春の気は下よりのぼるけぢめ、いと明けし。花もやうやう咲きつゞきて、梅花すでにうつろひて後新なるは、我が国ならぬ唐桃の花なるべし。桃紅なるはたなびく雲の面影のたつ心地す。李白きは、きえがての雪の、梢に残れるかと見えていとうるはし。桜のほころび出でたるこそ、花に心はなけれど、人の心を動して、えならぬ眺なれ。是我が日の本にて、四時の花の多き中にも、第一の見ものなれば、梅ちりて後、この比の異花は、皆けおされぬ。
書き下し
野には又陽烟と云ふもの、霞のごとく、地より立ちのぼれり。又かげろふともいふ。荘周は之を野馬と云ふ。老杜が詩に、落花遊糸白日静なりといへるも、是ならし。是みな常には無き物なるが、春めきていとめづらし。又かきねの草、早く萠出づるを見るにつけても、春の気は下よりのぼるけぢめ、いと明けし。花もやうやう咲きつづきて、梅花すでにうつろひて後新なるは、我が国ならぬ唐桃の花なるべし。桃紅なるはたなびく雲の面影のたつ心地す。李白きは、きえがての雪の、梢に残れるかと見えていとうるはし。桜のほころび出でたるこそ、花に心はなけれど、人の心を動して、えならぬ眺なれ。是我が日の本にて、四時の花の多き中にも、第一の見ものなれば、梅ちりて後、この比の異花は、皆けおされぬ。
現代語訳
野にはまた陽炎(かげろう)というものが、霞のように地面から立ち昇ります。「かげろう」とも言います。荘子はこれを「野馬」と言いました。杜甫の詩に「落花遊糸白日静かなり」と言っているのも、これのことでしょう。これらはみな、ふだんは無いものですが、春らしくてたいそう珍しいものです。また垣根の草が早く芽を出すのを見るにつけても、春の気が下から昇ってくる区別がたいへんはっきりしています。花もしだいに咲き続いて、梅がすでに散った後に新たに咲くのは、わが国のものではない唐桃(桃)の花でしょう。桃の紅いのは、たなびく雲の面影が立つ心地がします。李(すもも)の白いのは、消えずに残る雪が梢に残っているかと見えて、たいそう美しいものです。桜がほころび出たのこそ、花に心はないけれど人の心を動かして、何とも言えない眺めです。これはわが日本で四季の花が多い中でも第一の見ものなので、梅が散った後、この頃の他の花はみな圧倒されてしまいます。
解説
この章句が説くこと
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