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楽訓 / 巻之上・総論

一旅行して他鄕にあそび、名勝の地、山水のうるはしき佳境にのぞめば、良心を感じおこし、鄙吝をあらひすゝぐ助となれり。是も亦我が德をすゝめ、知を廣むるよすがなるべし。又いひしらぬ異境に行きて、見なれぬ山川のありさまを見て、目をあそばしめ、其里人にあひて、其所の風土をとひ、あるは奧まりたる山ふところに、岩根ふみて尋ねいり、もとより山水の癖ありて、靑山夢に入ることしきりなる人は、心をとめて、歸る事をわすれぬ。あるは海べた、山遠き、眼界ひろきながめは、萬戶侯の富にもまされり。又其里におひ出でたる名產の異なる品を見て、其味をこゝろむるも、いと珍しく、心なぐさむわざなり。すべて勝地にあそびて見きゝせし事、唯一時の耳目を悅ばしむるのみならず、いく年經ぬれど、其時見聞せしありさま、老の後までをりをりおもひ出でられて、あたかも其時見聞せし思ひをなして、樂むべし。是を以て、世にめでたき事を思出と云ふも、むべなるかな。

新字:一旅行して他郷にあそび、名勝の地、山水のうるはしき佳境にのぞめば、良心を感じおこし、鄙吝をあらひすゝぐ助となれり。是も亦我が徳をすゝめ、知を広むるよすがなるべし。又いひしらぬ異境に行きて、見なれぬ山川のありさまを見て、目をあそばしめ、其里人にあひて、其所の風土をとひ、あるは奥まりたる山ふところに、岩根ふみて尋ねいり、もとより山水の癖ありて、青山夢に入ることしきりなる人は、心をとめて、帰る事をわすれぬ。あるは海べた、山遠き、眼界ひろきながめは、万戸侯の富にもまされり。又其里におひ出でたる名産の異なる品を見て、其味をこゝろむるも、いと珍しく、心なぐさむわざなり。すべて勝地にあそびて見きゝせし事、唯一時の耳目を悦ばしむるのみならず、いく年経ぬれど、其時見聞せしありさま、老の後までをりをりおもひ出でられて、あたかも其時見聞せし思ひをなして、楽むべし。是を以て、世にめでたき事を思出と云ふも、むべなるかな。

書き下し

一旅行して他郷にあそび、名勝の地、山水のうるはしき佳境にのぞめば、良心を感じおこし、鄙吝をあらひすすぐ助となれり。是も亦我が徳をすすめ、知を広むるよすがなるべし。又いひしらぬ異境に行きて、見なれぬ山川のありさまを見て、目をあそばしめ、其里人にあひて、其所の風土をとひ、あるは奥まりたる山ふところに、岩根ふみて尋ねいり、もとより山水の癖ありて、青山夢に入ることしきりなる人は、心をとめて、帰る事をわすれぬ。あるは海べた、山遠き、眼界ひろきながめは、万戸侯の富にもまされり。又其里におひ出でたる名産の異なる品を見て、其味をこころむるも、いと珍しく、心なぐさむわざなり。すべて勝地にあそびて見ききせし事、唯一時の耳目を悦ばしむるのみならず、いく年経ぬれど、其時見聞せしありさま、老の後までをりをりおもひ出でられて、あたかも其時見聞せし思ひをなして、楽むべし。是を以て、世にめでたき事を思出と云ふも、むべなるかな。

現代語訳

旅をして他郷に遊び、名勝の地や山水の美しい景色に臨めば、良い心を感じ起こし、卑しいけちな心を洗い清める助けとなります。これもまた自分の徳を進め、知を広める手がかりとなるでしょう。また見知らぬ土地に行って、見慣れない山川のありさまを見て目を楽しませ、その里の人に会ってその土地の風土を尋ね、あるいは奥深い山ふところに岩を踏んで分け入ると、もともと山水を好む癖があって、青い山がしきりに夢に出てくるような人は、心をとどめて帰ることを忘れてしまいます。あるいは海辺で山の遠い、眼界の広い眺めは、万戸侯の富にもまさります。またその里に産する珍しい名産を見て、その味を試すのも、まことに珍しく心の慰めとなることです。すべて景勝の地に遊んで見聞きしたことは、ただ一時耳目を喜ばせるだけでなく、何年たっても、その時見聞きしたありさまが老後までも折々に思い出されて、まるでその時に見聞きしているような思いがして楽しめます。こういうわけで、世にめでたいことを「思い出」と言うのも、もっともなことです。

解説

益軒は旅を好み、京都や江戸への往来の途中や諸国を巡る中で、『木曽路記』『和州巡覧記』など多くの紀行を残しました。この条はその実感から生まれたものでしょう。景色が心を清め、土地の人に風土を尋ね、名産を味わうことが徳と知を広めると説きます。さらに旅の記憶は老後まで何度も楽しめる、とも言います。旅行の価値はその場の楽しさだけでなく、一生の思い出として心を養い続けることにあるという指摘は、今も色あせません。

この章句が説くこと

旅見聞徳知思い出

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