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礼記 / 問喪

其往送也,望望然汲汲然如有追而弗及也;其反哭也,皇皇然若有求而弗得也。故其往送也如慕,其反也如疑。 求而無所得之也,入門而弗見也,上堂又弗見也,入室又弗見也。亡矣!喪矣!不可復見已矣!故哭泣辟踴,盡哀而止矣。心悵焉、愴焉、惚焉、愾焉,心絕志悲而已矣。祭之宗廟,以鬼饗之,徼幸復反也。

新字:其往送也,望望然汲汲然如有追而弗及也;其反哭也,皇皇然若有求而弗得也。故其往送也如慕,其反也如疑。 求而無所得之也,入門而弗見也,上堂又弗見也,入室又弗見也。亡矣!喪矣!不可復見已矣!故哭泣辟踴,尽哀而止矣。心悵焉、愴焉、惚焉、愾焉,心絶志悲而已矣。祭之宗廟,以鬼饗之,徼幸復反也。

書き下し

その往きて送るや、望望然として汲汲(きゅうきゅう)然として、追うこと有りて及ばざるが如し。その反哭するや、皇皇(こうこう)然として求むること有りて得ざるが若(ごと)し。故にその往きて送るや慕うが如く、その反るや疑うが如し。 求めてこれを得る所無きなり。門に入りて見ず、堂に上りて又見ず、室に入りて又見ず。亡びぬ、喪(うしな)いぬ、復た見るべからざるのみ。故に哭泣辟踊し、哀しみを尽くして止む。心悵焉(ちょうえん)たり、愴焉(そうえん)たり、惚焉(こつえん)たり、愾焉(がいえん)たり、心絶え志悲しむのみ。これを宗廟に祭り、鬼を以てこれを饗するは、復た反らんことを徼幸(ぎょうこう)するなり。

現代語訳

柩を送って墓へ行くときは、ひたすら前を見つめ、せかせかと気がせいて、追いかけても追いつけない人のようである。葬り終えて家に戻り哭くときは、おろおろとさまよい、探し求めても見つからない人のようである。だから送って行くときは慕い追うようであり、帰るときは疑い迷うようである。 探し求めても、見つけることができないのである。門を入っても姿は見えず、堂に上がってもやはり見えず、部屋に入ってもやはり見えない。亡くなってしまった、失ってしまった、もう二度と会うことはできないのだ。だから哭き泣き、胸を打ち踊り、哀しみを尽くしてようやくやめる。心はうら悲しく、いたましく、ぼうぜんとし、ため息に満ち、心は絶え入り思いは悲しむばかりである。そうして宗廟(そうびょう、祖先の廟)で祭り、鬼(き、死者の霊)として供物を饗(う)けさせるのは、もしや再び帰って来てはくれまいかと、万一の望みをかけるからである。

解説

葬送の往きと帰りの心を描いた、問喪篇の中でもとりわけ胸を打つ段である。柩を送って行くときは、先に行ってしまう人を追いかけても追いつけないようにせき立てられ、葬った後で家に帰るときは、何かを探しながら見つけられない人のようにさまよう。檀弓上篇でも孔子は、ある人の葬送を見て「その往くや慕うが如く、その反るや疑うが如し」と称えている。家に帰って門を入り、堂に上り、部屋に入っても、どこにも親の姿はない。「亡びぬ、喪いぬ、復た見るべからざるのみ」という短い句の重なりは、喪失を少しずつ思い知らされていく過程をそのまま写している。そして宗廟で死者を祀るのは、もしかしたら帰って来てくれるかもしれないという、かなわぬ望みのためだという。祭りの起こりを、論理ではなく残された者の未練に置いているのである。大切な人を亡くした後、家の中で何度もその人の姿を探してしまう経験は、今も多くの人が知っている。二千年以上前の文章が、その心の動きをこれほど正確に言い当てていることに驚かされる。

この章句が説くこと

礼記問喪葬送喪失祭祀

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