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礼記 / 祭統

故曰:禘嘗之義大矣。治國之本也,不可不知也。明其義者,君也;能其事者,臣也。不明其義,君人不全;不能其事,為臣不全。夫義者,所以濟志也,諸德之發也。是故,其德盛者,其志厚;其志厚者,其義章;其義章者,其祭也敬。祭敬,則竟內之子孫莫敢不敬矣。是故,君子之祭也,必身親蒞之,有故則使人可也。雖使人也,君不失其義者,君明其義故也。其德薄者,其志輕,疑於其義;而求祭,使之必敬也,弗可得已。祭而不敬,何以為民父母矣?

新字:故曰:禘嘗之義大矣。治国之本也,不可不知也。明其義者,君也;能其事者,臣也。不明其義,君人不全;不能其事,為臣不全。夫義者,所以済志也,諸徳之発也。是故,其徳盛者,其志厚;其志厚者,其義章;其義章者,其祭也敬。祭敬,則竟内之子孫莫敢不敬矣。是故,君子之祭也,必身親莅之,有故則使人可也。雖使人也,君不失其義者,君明其義故也。其徳薄者,其志軽,疑於其義;而求祭,使之必敬也,弗可得已。祭而不敬,何以為民父母矣?

書き下し

故に曰く、禘嘗の義大なり。国を治むるの本なり。知らざるべからざるなり。その義を明らかにする者は、君なり。その事を能くする者は、臣なり。その義を明らかにせざれば、君人全からず。その事を能くせざれば、臣為ること全からず。夫れ義は、志を済(な)す所以なり。諸徳の発なり。是の故に、その徳盛んなる者は、その志厚し。その志厚き者は、その義章(あきら)かなり。その義章かなる者は、その祭るや敬す。祭敬なれば、則ち竟内の子孫敢えて敬せざる莫し。是の故に、君子の祭るや、必ず身親らこれに蒞(のぞ)む。故有れば人をしてせしむるも可なり。人をしてせしむと雖も、君その義を失わざるは、君その義を明らかにするが故なり。その徳薄き者は、その志軽く、その義に疑う。而して祭を求めて、これをして必ず敬せしめんとするや、得べからざるのみ。祭りて敬せずんば、何を以てか民の父母と為らんや。

現代語訳

だから禘と嘗の意義は大きいのである。国を治める根本であり、知らないではすまされない。その意義を明らかにするのは君主であり、その事を行えるのは臣下である。意義を明らかにしなければ、人の君として欠けたところがあり、事を行えなければ、臣として欠けたところがある。そもそも義とは、志を成し遂げさせるものであり、あらゆる徳の現れである。それゆえ徳が盛んな者は志が厚く、志が厚い者は義が明らかであり、義が明らかな者はその祭りが敬虔である。祭りが敬虔であれば、国内の子孫で敬わない者はいなくなる。それゆえ君子が祭るときは、必ず自ら臨む。差し支えがあれば人に代わらせてもよい。人に代わらせても君主がその意義を失わないのは、君主がその意義を明らかにしているからである。徳の薄い者は志が軽く、その意義に確信がない。それでいて祭りを行い、それを必ず敬虔にしようとしても、できるものではない。祭って敬わないのであれば、どうして民の父母となることができようか。

解説

前段を受けて禘と嘗の意義を治国の根本とし、君と臣の役割を分けて論じる段である。君は祭りの「義」を明らかにする者、臣は祭りの「事」を執り行う者とされる。意味を理解する者と実務を担う者の両方がそろわなければ、君も臣も全うされない。義は志を遂げさせるもので諸徳の現れだから、徳が盛んなら志が厚く、志が厚ければ義が明らかになり、義が明らかならば祭りは自然に敬虔になる。形の敬虔さは、徳という根から順に生じるものだという筋道である。論語八佾篇で孔子は「吾祭に与らざれば、祭らざるが如し」と、自ら臨むことを重んじた。本段も自ら臨むことを原則とするが、差し支えがあれば代理を認め、そのときも君が義を失わないのは意味をわかっているからだとする点に特色がある。仕事を人に任せるときでも、その仕事の意味を自分がつかんでいれば、任せたことで責任を手放したことにはならない、という指摘として読める。

この章句が説くこと

礼記祭統義君臣敬

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