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礼記 / 祭義

仲尼嘗,奉薦而進,其親也愨,其行也趨趨以數。已祭,子贛問曰:「子之言祭,濟濟漆漆然;今子之祭,無濟濟漆漆。何也?」子曰:「濟濟者,容也遠也;漆漆者,容也自反也。容以遠,若容以自反也。夫何神明之及交,夫何濟濟漆漆之有乎?反饋,樂成,薦其薦俎,序其禮樂,備其百官。君子致其濟濟漆漆,夫何慌惚之有乎?夫言,豈一端而已,夫各有所當也。」

新字:仲尼嘗,奉薦而進,其親也愨,其行也趨趨以数。已祭,子贛問曰:「子之言祭,済済漆漆然;今子之祭,無済済漆漆。何也?」子曰:「済済者,容也遠也;漆漆者,容也自反也。容以遠,若容以自反也。夫何神明之及交,夫何済済漆漆之有乎?反饋,楽成,薦其薦俎,序其礼楽,備其百官。君子致其済済漆漆,夫何慌惚之有乎?夫言,豈一端而已,夫各有所当也。」

書き下し

仲尼嘗(しょう)するに、薦を奉じて進み、その親(みずか)らするや愨(かく)、その行くや趨趨(すうすう)として以て数(すみ)やかなり。已に祭りて、子贛(しこう)問いて曰く、「子の祭を言うや、済済漆漆然(せいせいしつしつぜん)たり。今子の祭るや、済済漆漆たること無し。何ぞや」と。子曰く、「済済とは、容なり、遠きなり。漆漆とは、容なり、自ら反(かえり)みるなり。容以て遠く、若(も)しくは容以て自ら反みるや、夫れ何ぞ神明の交わるに及ばん、夫れ何ぞ済済漆漆たることこれ有らんや。反饋(はんき)し、楽成り、その薦俎を薦め、その礼楽を序し、その百官を備う。君子その済済漆漆を致す。夫れ何ぞ慌惚(こうこつ)たることこれ有らんや。夫れ言は、豈に一端のみならんや。夫れ各々当たる所有るなり」と。

現代語訳

孔子(仲尼)が秋の嘗の祭りを行ったとき、供物を捧げ持って進み、自ら手ずから供えるさまは真心がこもって素朴であり、その歩みは小刻みに速かった。祭りが終わると、子貢(子贛)が尋ねた。「先生は祭りについて、威儀正しく整然とし(済済)、慎み深く端正である(漆漆)べきだとおっしゃっていました。ところが今、先生が祭られた様子には、その済済漆漆の趣がありませんでした。なぜでしょうか」。孔子は答えた。「済済とは、容儀が整って人を遠ざけるような様子である。漆漆とは、容儀を整えて自らを省みる様子である。容儀が人を遠ざけ、あるいは容儀を整えて自らを省みることに気を取られていては、どうして神霊と交わることができようか。親しく祭るべき者にとって、どうして済済漆漆などということがあろうか。天子や諸侯の祭りで、尸に食を進め直し(反饋)、音楽が奏し終わり、供物の俎を進め、礼楽の次第を整え、多くの役人をそろえる場では、助祭する君子たちはその済済漆漆の威儀を尽くす。そういう者にはどうして恍惚として神と交わるような境地があろうか(それは主祭者の役ではないのだから)。そもそも言葉というものは、一つの面だけを言うものではない。それぞれに当てはまる場面があるのだ」。

解説

孔子自身の祭りの姿と、弟子の子貢との問答を記した段である。孔子は日ごろ、祭りでは「済済漆漆」たる威儀が大切だと説いていた。ところが自ら親を祭るときは、真心こもって素朴に、小走りに供物を運ぶばかりで、整然とした威儀を見せなかった。子貢がその食い違いを問うと、孔子は、威儀を整えて人を遠ざけ、自分の姿を省みているようでは、親しく神霊と交わることはできないと答える。済済漆漆は、多くの役人が並ぶ国家の祭りで助祭する者が保つべき威儀であって、親を祭る孝子の心とは場面が違うというのである。結びの「言は豈に一端のみならんや、各々当たる所有るなり」は、教えのことばを一面的に受け取るなという戒めとして味わい深い。論語にも、同じ問いに弟子ごとに違う答えを返す孔子の姿がたびたび見える。形の正しさと心の近さは、場面によって優先が変わる。マニュアルを覚えた後に、それをいつ使うかを見極めることの大切さを、この問答は示している。

この章句が説くこと

礼記祭義孔子子貢威儀

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