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礼記 / 祭義

君子生則敬養,死則敬享,思終身弗辱也。君子有終身之喪,忌日之謂也。忌日不用,非不祥也。言夫日,志有所至,而不敢盡其私也。 唯聖人為能饗帝,孝子為能饗親。饗者,鄉也。鄉之,然後能饗焉。是故,孝子臨尸而不怍。君牽牲,夫人奠盎。君獻尸,夫人薦豆。卿大夫相君,命婦相夫人。齊齊乎其敬也,愉愉乎其忠也,勿勿諸其欲其饗之也。

新字:君子生則敬養,死則敬享,思終身弗辱也。君子有終身之喪,忌日之謂也。忌日不用,非不祥也。言夫日,志有所至,而不敢尽其私也。 唯聖人為能饗帝,孝子為能饗親。饗者,郷也。郷之,然後能饗焉。是故,孝子臨尸而不怍。君牽牲,夫人奠盎。君献尸,夫人薦豆。卿大夫相君,命婦相夫人。斉斉乎其敬也,愉愉乎其忠也,勿勿諸其欲其饗之也。

書き下し

君子は生けるには則ち敬して養い、死すれば則ち敬して享(まつ)り、終身辱めざらんことを思うなり。君子に終身の喪有り、忌日の謂いなり。忌日に用いざるは、不祥なるに非ざるなり。夫(か)の日を言うは、志至る所有りて、敢えてその私を尽くさざるなり。 唯だ聖人のみ能く帝を饗(きょう)すと為し、孝子のみ能く親を饗すと為す。饗は、郷(むか)うなり。これに郷い、然る後に能く饗す。是の故に、孝子は尸に臨みて怍(は)じず。君は牲を牽き、夫人は盎(おう)を奠す。君は尸に献じ、夫人は豆を薦む。卿大夫は君を相(たす)け、命婦は夫人を相く。斉斉乎としてそれ敬するなり、愉愉乎としてそれ忠なるなり、勿勿諸(ぶつぶつしょ)としてそれこれが饗けんことを欲するなり。

現代語訳

君子は、親が生きているうちは敬ってこれを養い、亡くなれば敬って祭り、生涯にわたって親の名を辱めないようにと心がける。君子には一生続く喪がある。それは親の命日(忌日)のことである。命日に他の事をしないのは、その日が縁起の悪い日だからではない。その日に心が親への思いにすっかり向かっていて、自分の私事に力を尽くす気になれないということである。 ただ聖人だけが天帝を祭ってその祭りを受けてもらうことができ、ただ孝子だけが親を祭ってその祭りを受けてもらうことができる。饗(受けてもらう)とは、郷(心が向かう)ということである。心を向け尽くしてはじめて、祭りを受けてもらうことができる。それゆえ、孝子は尸(祭りで祖先の身代わりとなる人)を前にしても恥じるところがない。君は犠牲の牛を牽き、夫人は盎斉(おうせい、白く濁った酒)を供える。君は尸に酒を献じ、夫人は豆(高坏)に盛った供物を進める。卿大夫は君を補佐し、命婦は夫人を補佐する。その様子は、きびきびとして敬い慎み、和やかにして真心がこもり、ひたむきに祖先に受けてもらおうと願っている。

解説

生前の養いと死後の祭りを一続きのものとし、命日の意味と祭りの心を説いた段である。「君子に終身の喪有り、忌日の謂いなり」は、三年の喪が明けても、命日だけは生涯喪に服するという意味で、後世まで忌日の心得として引かれた句である。命日に他の事をしないのは縁起を担ぐためではなく、心が親に向かって私事に手がつかないからだ、という説明がこの段の要である。後半では「饗は郷なり」と、祭りを受けてもらうことを心が向かうことと言い換える。聖人だけが天帝を、孝子だけが親を饗することができるというのは、形を整えるだけでは祭りは届かず、心を向け尽くした者の祭りだけが届くということである。論語為政篇で孔子が孝を問われ、「生けるにはこれに事うるに礼を以てし、死すればこれを葬るに礼を以てし、これを祭るに礼を以てす」と答えたことと、一続きの考えである。命日を形だけの行事にせず、その日一日を亡き人に向ける時間とすることは、今でもできる孝のかたちである。

この章句が説くこと

礼記祭義忌日孝饗

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