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礼記 / 雑記下

鑿巾以飯,公羊賈為之也。 冒者何也?所以掩形也。自襲以至小斂,不設冒則形,是以襲而後設冒也。 或問於曾子曰:「夫既遣而包其餘,猶既食而裹其餘與?君子既食,則裹其餘乎?」曾子曰:「吾子不見大饗乎?夫大饗,既饗,卷三牲之俎歸於賓館。父母而賓客之,所以為哀也!子不見大饗乎!」非為人喪,問與?賜與?

新字:鑿巾以飯,公羊賈為之也。 冒者何也?所以掩形也。自襲以至小斂,不設冒則形,是以襲而後設冒也。 或問於曽子曰:「夫既遣而包其余,猶既食而裹其余与?君子既食,則裹其余乎?」曽子曰:「吾子不見大饗乎?夫大饗,既饗,巻三牲之俎帰於賓館。父母而賓客之,所以為哀也!子不見大饗乎!」非為人喪,問与?賜与?

書き下し

巾を鑿(うが)ちて以て飯(はん)するは、公羊賈(こうようか)これを為すなり。 冒(ぼう)なる者は何ぞや。形を掩う所以なり。襲より以て小斂に至るまで、冒を設けざれば則ち形(あらわ)る、是を以て襲して後に冒を設くるなり。 或るひと曾子に問いて曰く、「夫れ既に遣して其の余を包むは、猶お既に食して其の余を裹(つつ)むがごときか。君子既に食すれば、則ちその余を裹まんや」と。曾子曰く、「吾子大饗を見ずや。夫れ大饗は、既に饗すれば、三牲の俎を巻きて賓館に帰(おく)る。父母にしてこれを賓客にす、哀しみを為す所以なり。子、大饗を見ずや」と。人の喪の為に非ずして、問うか、賜うか。

現代語訳

死者の口に米や玉を含ませる飯含(はんがん)の際、顔を覆う巾に穴を開けてそこから含ませるやり方は、公羊賈(こうようか)が始めたものである。 冒(ぼう)とは何か。遺体の形を覆い隠すための袋である。死者に衣を着せる襲から小斂に至るまでの間、冒をかぶせなければ遺体の形があらわになる。だから襲を済ませた後に冒をかぶせるのである。 ある人が曾子に尋ねた。「出棺の際の遣奠(けんてん)が済んでから、その供え物の残りを包んで墓へ持っていくのは、食事が済んでから残りを包んで持ち帰るのと同じではありませんか。君子は食事が済んだら、その残りを包んで持ち帰るでしょうか」。曾子はいった。「あなたは大饗(たいきょう、諸侯をもてなす大宴会)を見たことがないのか。大饗では、もてなしが済むと、三牲(牛・羊・豚)の肉を載せた俎をまとめて賓客の宿舎へ贈り届ける。父母でありながら、いまは賓客として送り出す。それが悲しみのわけなのだ。あなたは大饗を見たことがないのか」。人の喪のためでないのに、物を贈るのか、賜うのか。

解説

三つの話を並べた段で、中心は曾子の問答である。遣奠の供え物の残りを包んで墓に持っていくのは、食べ残しを包んで帰るような卑しいことではないか、と問われた曾子は、大饗の礼を引いて答える。大饗では饗宴の後に肉を包んで賓客の宿舎に贈るが、それは客を厚くもてなす礼である。鄭玄は、父母は本来その家の主人であるのに、いまは賓客として送り出す、それが孝子が親の去るのを哀しむゆえんだと注している。冒頭の公羊賈の鑿巾について鄭玄は、士が礼を失った始まりを記したと注する。末尾の「人の喪の為に非ずして…」について鄭玄は、上の文が脱落していて意味がわからないと注しており、本来は別の文の一部であったらしい。親を見送る儀式の一つひとつに、家の主としての最後の礼を尽くすという気持ちは、今の葬儀にも通じる。

この章句が説くこと

礼記雑記曽子遣奠孝

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