礼記 / 王制
天子將出,類乎上帝,宜乎社,造乎禰,諸侯將出,宜乎社,造乎禰。 天子無事與諸侯相見曰朝,考禮、正刑、一德,以尊于天子。天子賜諸侯樂,則以柷將之;賜伯子男樂,則以鼗將之。
新字:天子将出,類乎上帝,宜乎社,造乎祢,諸侯将出,宜乎社,造乎祢。 天子無事与諸侯相見曰朝,考礼、正刑、一徳,以尊于天子。天子賜諸侯楽,則以柷将之;賜伯子男楽,則以鼗将之。
書き下し
天子将に出でんとするや、上帝に類(るい)し、社に宜(ぎ)し、禰(でい)に造(ぞう)す。諸侯将に出でんとするや、社に宜し、禰に造す。 天子事無くして諸侯と相見るを朝と曰う。礼を考え、刑を正し、徳を一にして、以て天子を尊ぶ。天子、諸侯に楽を賜うときは、則ち柷(しゅく)を以てこれを将(おく)る。伯・子・男に楽を賜うときは、則ち鼗(とう)を以てこれを将る。
現代語訳
天子が都を出るときには、上帝に類の祭りを、社(しゃ、土地の神)に宜の祭りを、禰(でい、父の廟)に造の祭りを行って、出行を告げる。諸侯が国を出るときには、社に宜の祭りを、禰に造の祭りを行う。 征伐などの事がないときに、天子が諸侯と会見することを朝という。そこで礼を考え合わせ、刑を正し、徳を一つにそろえて、天子を尊ぶのである。天子が公・侯の諸侯に楽を賜るときは、柷(しゅく、楽の始めを告げる木の打楽器)を使者に持たせて命を伝える。伯・子・男に楽を賜るときは、鼗(とう、柄のついた振り鼓)を持たせて命を伝える。
解説
天子や諸侯が出行するときの告げの祭りと、平時の朝見、楽を賜る礼を定めた段である。鄭玄は、上帝とは南郊で祭る五徳の帝のことで、類・宜・造はいずれも祭りの名だが、その儀礼の詳細はすでに失われていると注する。出かける前に、天と土地の神と父祖とに順に告げるのは、自分の行いが天地と祖先に見守られているという意識の表れである。朝の場で礼を考え刑を正し徳を一にするとは、天下の基準をそろえ直す機会として会見を位置づけることを意味する。鄭玄は、事とは征伐のことだと注する。楽を賜るとき、公・侯には柷を、伯・子・男には鼗を持たせるのは、爵位に応じて賜り物の格を分けたものである。鄭玄は、柷も鼗も楽の節を取る楽器で、使者がそれを手にして命を伝えるのだと説く。大事な場へ出向く前に関わる人々へ報告を欠かさず、会う機会を基準合わせの場として使う。その心がけは、今の仕事の段取りにもそのまま生きる。
この章句が説くこと
礼記王制祭祀朝見楽
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