礼記 / 檀弓下
吳侵陳,斬祀殺厲,師還出竟,陳大宰嚭使於師。夫差謂行人儀曰:「是夫也多言,盍嘗問焉;師必有名,人之稱斯師也者,則謂之何?」大宰嚭曰:「古之侵伐者,不斬祀、不殺厲、不獲二毛;今斯師也,殺厲與?其不謂之殺厲之師與?」曰:「反爾地,歸爾子,則謂之何?」曰:「君王討敝邑之罪,又矜而赦之,師與,有無名乎?」
新字:呉侵陳,斬祀殺厲,師還出竟,陳大宰嚭使於師。夫差謂行人儀曰:「是夫也多言,盍嘗問焉;師必有名,人之称斯師也者,則謂之何?」大宰嚭曰:「古之侵伐者,不斬祀、不殺厲、不獲二毛;今斯師也,殺厲与?其不謂之殺厲之師与?」曰:「反爾地,帰爾子,則謂之何?」曰:「君王討敝邑之罪,又矜而赦之,師与,有無名乎?」
書き下し
呉陳を侵し、祀(し)を斬り厲(れい)を殺す。師還りて竟(さかい)を出づ、陳の大宰嚭(ひ)師に使いす。夫差行人儀に謂いて曰く、「是の夫や言多し、盍(なん)ぞ嘗みに問わざる。師には必ず名有り、人の斯の師を称するや、則ちこれを何と謂う」と。大宰嚭曰く、「古の侵伐する者は、祀を斬らず、厲を殺さず、二毛を獲えず。今斯の師や、厲を殺せるか。其れこれを殺厲の師と謂わざらんや」と。曰く、「爾(なんじ)の地を反し、爾の子を帰さば、則ちこれを何と謂わん」と。曰く、「君王敝邑の罪を討じ、又矜(あわれ)みてこれを赦す。師与(か)、名無きこと有らんや」と。
現代語訳
呉が陳に攻め入り、神を祀る社の木を切り倒し、疫病にかかった者まで殺した。呉の軍が引き揚げて国境を出るとき、陳の大宰(たいさい、宰相格の官)である嚭(ひ)が使者として軍中に来た。呉王夫差(ふさ)は行人(こうじん、外交の官)の儀に言った。「この男は口が達者だ。ひとつ試しに聞いてみてはどうか。戦には必ず名目がある。人々はこのたびのわが軍を何と呼んでいるのか、と」。 大宰嚭は答えた。「昔の侵攻する軍は、社の木を切らず、病人を殺さず、白髪まじりの老人を捕虜にしませんでした。いまこの軍は病人を殺したではありませんか。これを病人殺しの軍と呼ばずにいられましょうか」。行人儀が「では、そなたの国の土地を返し、捕らえたそなたの国の民を帰したなら、何と呼ばれるだろうか」と言うと、嚭は答えた。「君王がわが国の罪を討ち、さらに哀れんでお許しくださるのであれば、そのような軍に、どうして立派な名目がないことがありましょうか」。
解説
この章句が説くこと
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『論語と算盤』理想と迷信・斯の如き矛盾を根絶すべし強い者の申し分はいつも善くなるということは、一つの諺として仏国に伝わっているけれども、漸々文明が進めば、人々道理を重んずる心も、平和を愛する情も増して来る。相争う所の惨虐を嫌う念も、文明が進めば進むほど強くなる。換言すれば、戦争の価値は世が進むほど不廉となる。いずれの国でも自らそこに顧みる所があって、極端なる争乱は自然に減ずるであろう。また必ず減ずべきものと思う。明治三十七八年頃、ロシアのグルームとかいう人が、「戦争と経済」という書を著作して、戦争は世の進むほど惨虐が強くなる、費用が多くなるから、ついには無くなるであろう、という説を公にしたことがある。かつてロシア皇帝が平和会議を主張されたのも、これらの人の説によったものであると、誰やらの説に見たことがある。
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『武士道』第一章 武士道の倫理系・国家は戦争に生まれる而して日本武士道の淵源は、単に二三にして止まらず。ラスキンは狼藉を嫌ひ和を好む人なり。然るに又た奮闘的生涯の崇拝者として、熱火の精神を以て、戦争を是認せり。其書『橄欖の冠』中に曰へることあり。『予が戦争を以て、凡百の芸術の基礎なりと云ふものは、又た「戦争が、人間界凡ての道徳、及び技芸の根本なり」との意をも含めり。予にして此理を発見するに至りたるは、自からまた怪訝し、畏怖すと雖、いかんせん、予は之を以て否定すべからざる事実なりと認知するを……要するに予は、凡ての強大なる国家が、戦争によりて、言語の真理、思想の勢力を覚知せる事、又た国家は戦争によりて培はれ、平和によりて荒され、戦争によりて教へられ、平和によりて欺かれ、戦争によりて鍛はれ、平和によりて毀たるる事、一言以て之を蔽へば、「国家は戦争に生まれ、平和に死するものなるを知れり」』と。
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史記 匈奴列伝単于之を信じ、而して馬邑の財物を貪り、乃ち十万騎を以て武州の塞に入る。漢兵三十余万を馬邑の旁に伏せ、御史大夫韓安国護軍と為り、四将軍を護りて以て単于を伏す。単于既に漢の塞に入り、未だ馬邑に至らざること百余里、畜の野に布けども人の牧する者無きを見て、之を怪しみ、乃ち亭を攻む。是の時鴈門の尉史徼を行り、寇を見て、此の亭に葆り、漢の兵の謀を知る。単于得て、之を殺さんと欲す。尉史乃ち単于に漢の兵の居る所を告ぐ。単于大いに驚きて曰く、「吾固より之を疑へり」と。乃ち兵を引きて還る。出でて曰く、「吾尉史を得たるは、天なり。天若をして言はしむ」と。尉史を以て「天王」と為す。漢の兵約すらく単于馬邑に入らば縦たんと。単于至らず。故を以て漢の兵得る所無し。漢の将軍王恢の部代より出でて胡の輜重を撃たんとするも、単于の還り、兵多きを聞き、敢へて出でず。漢恢の本兵謀を造りて進まざるを以て、恢を斬る。是より後、匈奴和親を絶ち、当路の塞を攻め、往往にして入りて漢の辺を盗むこと、勝げて数ふべからず。然れども匈奴は貪り、尚ほ関市を楽しみ、漢の財物を嗜む。漢も亦尚ほ関市絶たずして以て之に中つ。馬邑の軍より後五年の秋、漢四将軍をして各々万騎もて胡を関市の下に撃たしむ。将軍衛青上谷より出で、蘢城に至り、胡の首虜七百人を得。公孫賀雲中より出で、得る所無し。公孫敖代郡より出で、胡の敗る所と為ること七千余人。李広鴈門より出で、胡の敗る所と為り、而して匈奴広を生け得たり。広後に亡げ帰るを得たり。漢敖・広を囚ふ。敖・広贖ひて庶人と為る。其の冬、匈奴数々入りて辺を盗み、漁陽尤も甚だし。漢将軍韓安国をして漁陽に屯して胡に備へしむ。其の明年秋、匈奴二万騎漢に入り、遼西の太守を殺し、二千余人を略す。
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『酔古堂剣掃』集靈・無定河邊破鏡の愁ひ賀蘭山外虛兮として怨み、無定河邊破鏡に愁ふ。
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孫子・作戦篇師に近き者は貴く売る。貴く売れば則ち百姓財竭き、財竭くれば則ち丘役に急なり。
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