史記 / 匈奴列伝
單于信之,而貪馬邑財物,乃以十萬騎入武州塞。漢伏兵三十餘萬馬邑旁,御史大夫韓安國爲護軍,護四將軍以伏單于。單于既入漢塞,未至馬邑百餘里,見畜布野而無人牧者,怪之,乃攻亭。是時鴈門尉史行徼,見寇,葆此亭,知漢兵謀,單于得,欲殺之,尉史乃告單于漢兵所居。單于大驚曰:「吾固疑之。」乃引兵還。出曰:「吾得尉史,天也,天使若言。」以尉史爲「天王」。漢兵約單于入馬邑而縱,單于不至,以故漢兵無所得。漢將軍王恢部出代擊胡輜重,聞單于還,兵多,不敢出。漢以恢本造兵謀而不進,斬恢。自是之後,匈奴絕和親,攻當路塞,往往入盜於漢邊,不可勝數。然匈奴貪,尚樂關市,嗜漢財物,漢亦尚關市不絕以中之。自馬邑軍後五年之秋,漢使四將軍各萬騎擊胡關市下。將軍衛青出上谷,至蘢城,得胡首虜七百人。公孫賀出雲中,無所得。公孫敖出代郡,爲胡所敗七千餘人。李廣出鴈門,爲胡所敗,而匈奴生得廣,廣後得亡歸。漢囚敖、廣,敖、廣贖爲庶人。其冬,匈奴數入盜邊,漁陽尤甚。漢使將軍韓安國屯漁陽備胡。其明年秋,匈奴二萬騎入漢,殺遼西太守,略二千餘人。
新字:単于信之,而貪馬邑財物,乃以十万騎入武州塞。漢伏兵三十余万馬邑旁,御史大夫韓安国為護軍,護四将軍以伏単于。単于既入漢塞,未至馬邑百余里,見畜布野而無人牧者,怪之,乃攻亭。是時鴈門尉史行徼,見寇,葆此亭,知漢兵謀,単于得,欲殺之,尉史乃告単于漢兵所居。単于大驚曰:「吾固疑之。」乃引兵還。出曰:「吾得尉史,天也,天使若言。」以尉史為「天王」。漢兵約単于入馬邑而縦,単于不至,以故漢兵無所得。漢将軍王恢部出代撃胡輜重,聞単于還,兵多,不敢出。漢以恢本造兵謀而不進,斬恢。自是之後,匈奴絶和親,攻当路塞,往往入盗於漢辺,不可勝数。然匈奴貪,尚楽関市,嗜漢財物,漢亦尚関市不絶以中之。自馬邑軍後五年之秋,漢使四将軍各万騎撃胡関市下。将軍衛青出上谷,至蘢城,得胡首虜七百人。公孫賀出雲中,無所得。公孫敖出代郡,為胡所敗七千余人。李広出鴈門,為胡所敗,而匈奴生得広,広後得亡帰。漢囚敖、広,敖、広贖為庶人。其冬,匈奴数入盗辺,漁陽尤甚。漢使将軍韓安国屯漁陽備胡。其明年秋,匈奴二万騎入漢,殺遼西太守,略二千余人。
書き下し
単于之を信じ、而して馬邑の財物を貪り、乃ち十万騎を以て武州の塞に入る。漢兵三十余万を馬邑の旁に伏せ、御史大夫韓安国護軍と為り、四将軍を護りて以て単于を伏す。単于既に漢の塞に入り、未だ馬邑に至らざること百余里、畜の野に布けども人の牧する者無きを見て、之を怪しみ、乃ち亭を攻む。是の時鴈門の尉史徼を行り、寇を見て、此の亭に葆り、漢の兵の謀を知る。単于得て、之を殺さんと欲す。尉史乃ち単于に漢の兵の居る所を告ぐ。単于大いに驚きて曰く、「吾固より之を疑へり」と。乃ち兵を引きて還る。出でて曰く、「吾尉史を得たるは、天なり。天若をして言はしむ」と。尉史を以て「天王」と為す。漢の兵約すらく単于馬邑に入らば縦たんと。単于至らず。故を以て漢の兵得る所無し。漢の将軍王恢の部代より出でて胡の輜重を撃たんとするも、単于の還り、兵多きを聞き、敢へて出でず。漢恢の本兵謀を造りて進まざるを以て、恢を斬る。是より後、匈奴和親を絶ち、当路の塞を攻め、往往にして入りて漢の辺を盗むこと、勝げて数ふべからず。然れども匈奴は貪り、尚ほ関市を楽しみ、漢の財物を嗜む。漢も亦尚ほ関市絶たずして以て之に中つ。馬邑の軍より後五年の秋、漢四将軍をして各々万騎もて胡を関市の下に撃たしむ。将軍衛青上谷より出で、蘢城に至り、胡の首虜七百人を得。公孫賀雲中より出で、得る所無し。公孫敖代郡より出で、胡の敗る所と為ること七千余人。李広鴈門より出で、胡の敗る所と為り、而して匈奴広を生け得たり。広後に亡げ帰るを得たり。漢敖・広を囚ふ。敖・広贖ひて庶人と為る。其の冬、匈奴数々入りて辺を盗み、漁陽尤も甚だし。漢将軍韓安国をして漁陽に屯して胡に備へしむ。其の明年秋、匈奴二万騎漢に入り、遼西の太守を殺し、二千余人を略す。
現代語訳
単于は聶翁壹を信用し、しかも馬邑の財物を欲しがって、十万騎で武州の塞に侵入した。漢は兵三十万人余りを馬邑のそばに伏せ、御史大夫の韓安国が護軍将軍となって四人の将軍を統率し、単于を待ち伏せた。単于は漢の長城内に入ったが、馬邑まで百里余りの所で、家畜が野にあふれているのに放牧している人がいないのを見て怪しみ、見張り小屋を攻めた。この時、鴈門の尉史(警備の下級官)が巡回中に敵を見て、この小屋に立てこもっており、漢軍の計略を知っていた。単于は尉史を捕らえて殺そうとした。尉史はそこで単于に漢の兵のいる所を告げた。単于は大いに驚いて「わたしはもともとこれを怪しんでいたのだ」と言い、兵を引いて帰った。長城を出ると、「わたしが尉史を捕らえたのは天の助けだ。天がおまえに言わせたのだ」と言い、尉史を「天王」とした。漢の兵は単于が馬邑に入ったら一斉に攻撃する約束であったが、単于が来なかったので、何も得られなかった。漢の将軍王恢の部隊は代から出て匈奴の輜重を攻撃するはずであったが、単于が引き返し、その兵が多いと聞いて、あえて出撃しなかった。漢は、王恢がもともとこの作戦を立てながら進撃しなかったとして、王恢を斬った。これ以後、匈奴は和親を絶ち、通り道にある要塞を攻め、しばしば漢の辺境に侵入して略奪することは数えきれないほどであった。しかし匈奴は欲が深く、なお国境の市場での取引を好み、漢の財物を欲しがった。漢もまた国境の市場を閉じずに、それで匈奴の欲に応じた。馬邑の戦いから五年後の秋、漢は四人の将軍にそれぞれ一万騎を率いさせ、国境の市場のあたりで匈奴を攻撃させた。将軍衛青は上谷から出撃して蘢城に至り、匈奴の首や捕虜七百人を得た。公孫賀は雲中から出撃したが、何も得られなかった。公孫敖は代郡から出撃し、匈奴に七千人余りを討たれた。李広は鴈門から出撃して匈奴に破られ、匈奴は李広を生け捕りにしたが、李広は後に逃げ帰ることができた。漢は公孫敖と李広を獄に入れたが、二人は金で罪を贖って庶民となった。その冬、匈奴はたびたび侵入して辺境を略奪し、漁陽が最もひどかった。漢は将軍韓安国を漁陽に駐屯させて匈奴に備えさせた。その翌年の秋、匈奴は二万騎で漢に侵入し、遼西太守を殺し、二千人余りを連れ去った。
解説
関連する章句
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史記 韓長孺列伝其の明年、則ち元光元年、鴈門の馬邑の豪聶翁壹、大行王恢に因りて上に言ひて曰く、「匈奴初めて和親し、辺を親信す。誘ふに利を以てすべし」と。陰かに聶翁壹をして間を為さしめ、亡げて匈奴に入り、単于に謂ひて曰く、「吾能く馬邑の令丞吏を斬り、城を以て降らん。財物尽く得べし」と。単于愛して之を信じ、以て然りと為し、聶翁壹に許す。聶翁壹乃ち還り、詐りて死罪の囚を斬り、其の頭を馬邑の城に県け、単于の使者に示して信と為す。曰く、「馬邑の長吏已に死せり。急に来るべし」と。是に於て単于塞を穿ちて十余万騎を将ゐ、武州の塞に入る。是の時に当たり、漢は車騎材官二十余万を伏せ、馬邑の旁の谷中に匿す。衛尉李広驍騎将軍と為り、太僕公孫賀軽車将軍と為り、大行王恢将屯将軍と為り、太中大夫李息材官将軍と為る。御史大夫韓安国護軍将軍と為り、諸将皆護軍に属す。約すらく、単于馬邑に入らば漢の兵縦発せんと。王恢・李息・李広は別に代より主として其の輜重を撃たんとす。是に於て単于漢の長城武州の塞に入る。未だ馬邑に至らざること百余里、行きて掠鹵するに、徒だ畜の野に牧せらるるを見て、一人を見ず。単于之を怪しみ、烽燧を攻めて、武州の尉史を得たり。尉史を刺問せんと欲す。尉史曰く、「漢の兵数十万馬邑の下に伏す」と。単于顧みて左右に謂ひて曰く、「幾ど漢の売る所と為らんとす」と。乃ち兵を引きて還る。塞を出でて、曰く、「吾尉史を得たるは、乃ち天なり」と。尉史に命じて「天王」と為す。塞下に伝へ言ふ、単于已に引き去ると。漢の兵追ひて塞に至り、及ばざるを度りて、即ち罷む。王恢等の兵三万、単于の漢と合はざるを聞き、往きて輜重を撃たば、必ず単于の精兵と戦はん、漢の兵勢必ず敗れんと度り、則ち便宜を以て兵を罷む。皆功無し。天子王恢の出でて単于の輜重を撃たずして、擅に兵を引きて罷むるを怒る。
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史記 匈奴列伝其の秋、匈奴万騎入りて代郡の都尉朱英を殺し、千余人を略す。其の明年春、漢復た大将軍衛青を遣はし、六将軍、兵十余万騎を将ゐて、乃ち再び定襄より出づること数百里、匈奴を撃つ。首虜を得ること前後凡そ万九千余級。而して漢も亦両将軍を亡ひ、軍三千余騎。右将軍建は身を以て脱するを得たり。而して前将軍翕侯趙信は兵利あらず、匈奴に降る。趙信は、故の胡の小王にして、漢に降る。漢封じて翕侯と為す。前将軍を以て右将軍と軍を并せて分かれ行き、独り単于の兵に遇ふ。故に尽く没す。単于既に翕侯を得、以て自次王と為し、其の姊を用て之に妻はせ、与に漢を謀る。信単于に教へて益々北のかた幕を絶り、以て漢の兵を誘ひ罷れしめ、極に徼へて之を取らしめ、塞に近づく無からしむ。単于其の計に従ふ。其の明年、胡騎万人上谷に入り、数百人を殺す。其の明年春、漢驃騎将軍去病をして万騎を将ゐて隴西より出で、焉支山を過ぐること千余里、匈奴を撃たしめ、胡の首虜万八千余級を得、休屠王の天を祭るの金人を破り得たり。其の夏、驃騎将軍復た合騎侯と数万騎もて隴西・北地より出づること二千里、匈奴を撃つ。居延を過ぎ、祁連山を攻め、胡の首虜三万余人、裨小王以下七十余人を得たり。是の時匈奴も亦来りて代郡・鴈門に入り、数百人を殺略す。漢博望侯及び李将軍広をして右北平より出でしめ、匈奴の左賢王を撃つ。左賢王李将軍を囲む。卒四千人可り、且に尽きんとす。殺虜も亦当に過ぐ。会々博望侯の軍救ひ至り、李将軍脱するを得たり。漢の失亡数千人。合騎侯は驃騎将軍に期に後れ、及び博望侯と皆死に当たり、贖ひて庶人と為る。
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史記 匈奴列伝其の秋、単于渾邪王・休屠王の西方に居りて漢の殺虜する所と為ること数万人なるを怒り、召して之を誅せんと欲す。渾邪王と休屠王と恐れ、漢に降らんことを謀る。漢驃騎将軍をして往きて之を迎へしむ。渾邪王休屠王を殺し、并せて其の衆を将ゐて漢に降る。凡そ四万余人、号して十万。是に於て漢已に渾邪王を得、則ち隴西・北地・河西益々胡寇少なし。関東の貧民を徙して奪ふ所の匈奴の河南・新秦中に処らしめて以て之を実たし、而して北地以西の戍卒の半ばを減ず。其の明年、匈奴右北平・定襄に入ること各々数万騎、千余人を殺略して去る。其の明年春、漢謀りて曰く「翕侯信単于の為に計り、幕北に居り、以為へらく漢の兵至る能はずと」と。乃ち馬に粟して十万騎を発し、私負従の馬凡そ十四万匹、糧重は与からず。大将軍青・驃騎将軍去病をして軍を中分せしめ、大将軍は定襄より出で、驃騎将軍は代より出で、咸約して幕を絶りて匈奴を撃たしむ。単于之を聞き、其の輜重を遠ざけ、精兵を以て幕北に待つ。漢の大将軍と接戦すること一日、会々暮れ、大風起こる。漢の兵左右の翼を縦ちて単于を囲む。単于自ら度るに戦ふこと漢の兵に如く能はず。単于遂に独り身壮騎数百と漢の囲みを潰して西北に遁走す。漢の兵夜追ひて得ず。行くゆく匈奴の首虜を斬捕すること万九千級、北のかた闐顔山の趙信城に至りて還る。単于の遁走するや、其の兵往往にして漢の兵と相乱れて単于に随ふ。単于久しく其の大衆と相得ず。其の右谷蠡王以為へらく単于死せりと。乃ち自ら立ちて単于と為る。真の単于復た其の衆を得たり。而して右谷蠡王乃ち其の単于の号を去り、復た右谷蠡王と為る。
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史記 衛将軍驃騎列伝乃ち悉く其の輜重を遠く北にし、皆精兵を以て幕北に待つ。而して適々大将軍の軍塞を出づること千余里にして、単于の兵陳して待つを見るに値ふ。是に於て大将軍武剛車をして自ら環りて営と為さしめ、而して五千騎を縦ちて往きて匈奴に当たらしむ。匈奴も亦縦つこと万騎可り。会々日且に入らんとし、大風起こり、沙礫面を撃ち、両軍相見ず。漢益々左右の翼を縦ちて単于を繞る。単于漢の兵の多くして、士馬尚ほ彊きを視、戦ひて匈奴利あらず。薄莫、単于遂に六驘に乗り、壮騎数百可りと、直ちに漢の囲みを冒して西北に馳せ去る。時に已に昏く、漢と匈奴と相紛挐し、殺傷大いに当たる。漢の軍の左校虜を捕へて言ふ、単于未だ昏れざるに去れりと。漢の軍因りて軽騎を発して夜之を追ひ、大将軍の軍因りて其の後に随ふ。匈奴の兵も亦散走す。遅明、行くこと二百余里、単于を得ず。頗る首虜を捕斬すること万余級、遂に窴顔山の趙信城に至り、匈奴の積粟を得て軍に食はす。軍留まること一日にして還り、悉く其の城の余粟を焼きて以て帰る。大将軍の単于と会するや、前将軍広・右将軍食其の軍別に東道より従ひ、或いは道を失ひ、単于を撃つに後る。大将軍引き還りて幕南を過ぎ、乃ち前将軍・右将軍を得たり。大将軍使をして帰りて報ぜしめんと欲し、長史をして前将軍広を簿責せしむ。広自殺す。右将軍至り、吏に下され、贖ひて庶人と為る。大将軍の軍塞に入る。凡そ首虜を斬捕すること万九千級。是の時匈奴の衆単于を失ふこと十余日。右谷蠡王之を聞き、自ら立ちて単于と為る。単于後に其の衆を得、右王乃ち単于の号を去る。驃騎将軍も亦五万騎を将ゐ、車重大将軍の軍と等し。而して裨将無し。
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史記 韓長孺列伝安国病みて免ぜらるること数月、蹇愈ゆ。上復た安国を以て中尉と為す。歳余にして、徙りて衛尉と為る。車騎将軍衛青匈奴を撃ち、上谷より出で、胡を蘢城に破る。将軍李広匈奴の得る所と為り、復た之を失ふ。公孫敖大いに卒を亡ふ。皆斬に当たり、贖ひて庶人と為る。明年、匈奴大いに辺に入り、遼西の太守を殺し、及び鴈門に入り、殺略する所数千人。車騎将軍衛青之を撃ち、鴈門より出づ。衛尉安国材官将軍と為り、漁陽に屯す。安国生虜を捕へ、匈奴遠く去ると言ふ。即ち上書して言ふ、方に田作の時なり、請ふ且く軍屯を罷めんと。軍屯を罷むること月余、匈奴大いに上谷・漁陽に入る。安国の壁乃ち七百余人有り。出でて与に戦ふも、勝たず、復た壁に入る。匈奴千余人及び畜産を虜略して去る。天子之を聞きて、怒り、使をして安国を責譲せしむ。安国を徙して益々東にし、右北平に屯せしむ。是の時匈奴の虜言ふ、当に東方に入るべしと。
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史記 匈奴列伝漢の驃騎将軍の代より出づること二千余里、左賢王と接戦す。漢の兵胡の首虜を得ること凡そ七万余級。左賢王の将皆遁走す。驃騎狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、翰海に臨みて還る。是の後匈奴遠く遁れ、而して幕南に王庭無し。漢河を度り朔方より以西令居に至るまで、往往にして渠を通じ田を置き、官吏卒五六万人、稍く蚕食し、地は匈奴以北に接す。初め、漢の両将軍大いに出でて単于を囲み、殺虜する所八九万。而して漢の士卒の物故するも亦数万、漢の馬の死する者十余万。匈奴病むと雖も、遠く去る。而して漢も亦馬少なく、以て復た往く無し。匈奴趙信の計を用ひ、使を漢に遣はし、好辞もて和親を請ふ。天子其の議を下す。或いは和親を言ひ、或いは遂に之を臣とせよと言ふ。丞相長史任敞曰く、「匈奴新たに破れ、困しむ。宜しく外臣と為して、辺に朝請せしむべし」と。漢任敞を単于に使はす。単于敞の計を聞き、大いに怒り、之を留めて遣らず。是より先、漢も亦降る所の匈奴の使者有り。単于も亦輒ち漢の使を留めて相当たらしむ。漢方に復た士馬を収む。会々驃騎将軍去病死す。是に於て漢久しく北のかた胡を撃たず。数歳にして、伊稚斜単于立ちて十三年にして死す。子烏維立ちて単于と為る。是の歳は、漢の元鼎三年なり。烏維単于立ち、而して漢の天子始めて出でて郡県を巡る。其の後漢方に南のかた両越を誅し、匈奴を撃たず。匈奴も亦辺に侵入せず。烏維単于立ちて三年、漢已に南越を滅ぼし、故の太僕賀をして万五千騎を将ゐて九原より出づること二千余里、浮苴井に至りて還らしむ。匈奴の一人をも見ず。漢又故の従驃侯趙破奴をして万余騎もて令居より出づること数千里、匈河水に至りて還らしむ。亦匈奴の一人をも見ず。
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