折たく柴の記 / 『折たく柴の記』宅地と黄金二百両を賜り新宅へ
此の年八月四日、某等が事奉るべき人をあらため命ぜらる。(此の日井上よりの狀に、某并に服部父子、土肥四人の事、若年寄衆の支配たるべき由を仰せ下さると云々)明けの年丁亥五月十九日、宅地并に屋材、家作るべき料として黃金二百兩を下し賜ふ。永井伊賀守尙平、大久保長門守敬重二人、雉子橋の外において、宅地三百五十坪を賜ふ由の仰せを傅へらる。事訖りなば、奥に參るべき由仰せ下されしかば、參りて宅地賜る事を謝し申ししに、潛邸にありし人々の家こぼたれし時に、蜂屋源八郎の家を殘し置かれしは、そこに賜ふべき事を思し召されしが故なり。今彼の家を以て下し賜ふ也。されど其家を賜ふ所の地に引移さむ事、私の力に及ぶまじければ、家引移すべき料の爲、黃金百兩を下し賜ふ由、詮房朝臣して仰せ下され、同月三十日に至りて、家造るべき用度たらずと聞しめし及ばれしによりて、また黃金百兩を下し賜はりたりき。七月廿六日、新宅に移れりと聞し召され、八月朔日に至りて、出仕すべき所の御門の事仰せ下さる。(これ出仕の道の程、遠からむ事をおぼしめされて、紅葉山下、并に裏御門より出入すべき由なり)此の月晦日。大城において散樂あり。これ家千代君御誕生御賀のためなり。若君の御外叔父太田内記と某と二人參るべき由を仰せ蒙る。これよりさき、七月十日の晩誕生の事あり。此の月の事は、永井大久保連署して仰せを傅へらる。又兼ねてより大久保仰せを奉りて、その一族大久保左京して二人を誘引せしむ。これ二人共に是等の事につきては、初參の儀なるが故也。こののちは、毎事につきての廻文に、太田と某と二人を以て充所とせらる。
新字:此の年八月四日、某等が事奉るべき人をあらため命ぜらる。(此の日井上よりの状に、某并に服部父子、土肥四人の事、若年寄衆の支配たるべき由を仰せ下さると云々)明けの年丁亥五月十九日、宅地并に屋材、家作るべき料として黄金二百両を下し賜ふ。永井伊賀守尚平、大久保長門守敬重二人、雉子橋の外において、宅地三百五十坪を賜ふ由の仰せを傅へらる。事訖りなば、奥に参るべき由仰せ下されしかば、参りて宅地賜る事を謝し申ししに、潜邸にありし人々の家こぼたれし時に、蜂屋源八郎の家を残し置かれしは、そこに賜ふべき事を思し召されしが故なり。今彼の家を以て下し賜ふ也。されど其家を賜ふ所の地に引移さむ事、私の力に及ぶまじければ、家引移すべき料の為、黄金百両を下し賜ふ由、詮房朝臣して仰せ下され、同月三十日に至りて、家造るべき用度たらずと聞しめし及ばれしによりて、また黄金百両を下し賜はりたりき。七月廿六日、新宅に移れりと聞し召され、八月朔日に至りて、出仕すべき所の御門の事仰せ下さる。(これ出仕の道の程、遠からむ事をおぼしめされて、紅葉山下、并に裏御門より出入すべき由なり)此の月晦日。大城において散楽あり。これ家千代君御誕生御賀のためなり。若君の御外叔父太田内記と某と二人参るべき由を仰せ蒙る。これよりさき、七月十日の晩誕生の事あり。此の月の事は、永井大久保連署して仰せを傅へらる。又兼ねてより大久保仰せを奉りて、その一族大久保左京して二人を誘引せしむ。これ二人共に是等の事につきては、初参の儀なるが故也。こののちは、毎事につきての廻文に、太田と某と二人を以て充所とせらる。
書き下し
此の年八月四日、某等が事奉るべき人をあらため命ぜらる。(此の日井上よりの狀に、某并に服部父子、土肥四人の事、若年寄衆の支配たるべき由を仰せ下さると云々)明けの年丁亥五月十九日、宅地并に屋材、家作るべき料として黃金二百兩を下し賜ふ。永井伊賀守尙平、大久保長門守敬重二人、雉子橋の外において、宅地三百五十坪を賜ふ由の仰せを傅へらる。事訖りなば、奥に參るべき由仰せ下されしかば、參りて宅地賜る事を謝し申ししに、潛邸にありし人々の家こぼたれし時に、蜂屋源八郎の家を殘し置かれしは、そこに賜ふべき事を思し召されしが故なり。今彼の家を以て下し賜ふ也。されど其家を賜ふ所の地に引移さむ事、私の力に及ぶまじければ、家引移すべき料の爲、黃金百兩を下し賜ふ由、詮房朝臣して仰せ下され、同月三十日に至りて、家造るべき用度たらずと聞しめし及ばれしによりて、また黃金百兩を下し賜はりたりき。七月廿六日、新宅に移れりと聞し召され、八月朔日に至りて、出仕すべき所の御門の事仰せ下さる。(これ出仕の道の程、遠からむ事をおぼしめされて、紅葉山下、并に裏御門より出入すべき由なり)此の月晦日。大城において散樂あり。これ家千代君御誕生御賀のためなり。若君の御外叔父太田内記と某と二人參るべき由を仰せ蒙る。これよりさき、七月十日の晩誕生の事あり。此の月の事は、永井大久保連署して仰せを傅へらる。又兼ねてより大久保仰せを奉りて、その一族大久保左京して二人を誘引せしむ。これ二人共に是等の事につきては、初參の儀なるが故也。こののちは、毎事につきての廻文に、太田と某と二人を以て充所とせらる。
現代語訳
この年八月四日、私どものことを取り扱うべき人を改めて命じられた。(この日井上からの書状に、私と服部父子、土肥の四人のことは、若年寄衆の支配とすると仰せ下されたとあった、云々。)明けて丁亥(宝永4年)五月十九日、宅地と屋材、家を作るための費用として黄金二百両を下し賜った。永井伊賀守尚平、大久保長門守敬重の二人が、雉子橋の外に宅地三百五十坪を賜る旨の仰せを伝えられた。事が終わったら奥に参るようにと仰せ下されたので、参って宅地を賜ったことを謝し申したところ、潜邸にいた人々の家を取り壊した時に、蜂屋源八郎の家を残しておかれたのは、そこ(私)に賜ろうと思し召されたゆえである、今その家を下し賜うのだ。しかしその家を賜る所の地へ引き移すことは、私の力では及ぶまいから、家を引き移す費用のために、黄金百両を下し賜うと、詮房朝臣を通して仰せ下され、同月三十日になって、家を造る費用が足りないと聞し召し及ばれたので、また黄金百両を下し賜ったのだった。七月二十六日、新宅に移ったと聞し召され、八月一日になって、出仕すべき所の御門のことを仰せ下された。(これは出仕の道のりが遠かろうことを思し召されて、紅葉山下、および裏御門から出入りするようにとのことである。)この月の晦日。大城で猿楽があった。これは家千代君ご誕生のお祝いのためである。若君の母方の叔父太田内記と私と二人が参るようにと仰せを蒙った。これより前、七月十日の晩に誕生のことがあった。この月のことは、永井・大久保が連署して仰せを伝えられた。また以前から大久保が仰せを承って、その一族の大久保左京に二人を誘引させた。これは二人ともこれらのことについては初めて参る儀であるゆえである。この後は、毎事の回状に、太田と私と二人を宛所とされた。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
折たく柴の記・『折たく柴の記』元日の拝賀と村田・吉田の出仕明くれば乙酉の正月元日。大城に拜賀。同じき十一日に、西城にて講筵を開かれ、そののち日講に侍りし事も、潛邸におはしまし時にかはらず。此の年四月十一日に、村田十郎右衞門吉田藤八郎二人をば小納戸衆に召し加へらる。村田はもと柳生が家臣なり。いとけなくおはしましし比、太刀打の事學ばせ給ふ時に、主の柳生が召供して參りしを、我めされし後におよび、柳生が弟子まゐらすべしと仰せられしに、此の人を參らせたる也。吉田を召し出されし事は、前にしるしゝごとくに、戸田がすゝめて、また大學頭が弟子となししなり。大學頭は、當代の御師範などいふ事にて、其の門人多くは近習にめしくはへられしによりて、戸田また吉田をすゝめむがために、村田をは推擧せし也。今の代こそはあれ。彼の人々の仰せかうぶりし事は、古の官寺の職掌にして、士君子の屑とせざる事なれど、わかき人々は、我がもとのまゝなる事の、某を禮待せさせ給ふ御心なるをばしらで、今までしたしかりしも、うとくなりしもすくなからず。わづかに十日をへだてゝ、その月の廿二日、進講訖りし後に、此所の庭の氣色興あり、市正正直に案内せさせて眺望あるべしと仰せ下されて、こかして見はてゝ歸り參りしかば、妻子共に與へよとて色々の帛五卷を賜ふ。これ妻子共に物賜ふ事の始なりき。此の時にこそ、此のほどうとかりし人々も、また來り賀しけれ。
-
折たく柴の記・『折たく柴の記』西城に召され御側衆支配となる廿七日の申時ばかりに、詮房朝臣奉りて、西城へ參るべき由を仰せ下さる。やがて參りしに、仰せをうけて、むかへみちびくべき人々出でてむかへ、參るべきところにみちびく。大門の外に、小人衆をつけおかれて、中口に案内す。かしこには、山本傳阿待ち居て、某參りし由を申しければ、潛邸の侍醫にてありし、山本玄長出でむかへて、斗鷄の間にみちびきぬ。玄長は某が相識なるをしろしめされしゆゑなり。戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方等の人々出で迎へたり。(此の三人は某等が事を支配すべき由、仰せかうぶれる所なり)かくて、村田等の人々も參りし後に、(此の時芝崎と、服部淸助とは見え來らず、めされずやありけむ、詳なることをならず)詮房朝臣、小出と共に出で來て、仰せを傳へられし。事終りて人々退出す。某はしばしがほど、ここにさぶらふべき由を仰せ下さる。これは支配の人々仰せかうぶりし事、又此の後祗候すべき所等の事を仰せ下されしなり。人々罷り出でしあとにて、小出某が座に居よりてこれより後の御事共は、天下の安危にかゝらせ給ふ所也。我々が事はかねてもしり給ひし事のごとく、もとより不學無術のともがら也、たのむところは、そこのおはしますのみなり。此の事我申す迄もあらねど、心およぶ所なれば、聞え申す也と申さる。これは詮房朝臣御前に參られしあとにて、たゞひとり申されし所也。此の人いくほどもなくて、不幸にしづみて世をさりき。誠に惜むべき事なり。そののち詮房朝臣よりして、此のほどの御事ども、又年明けて講筵開かるべき事など仰せ下され、また今よりして後、參るべきやうなどの事まで仰せ下され、戌の時に至りて罷り出づ。(此の後は中の口より入りて、御臺所を經て、奧に參るべき由なり)廿九日に、元日大城拜賀の事等仰せ下さる。(此の事戸田より申し來れり。其の狀に御本丸寄合衆の次に候べしと云々)
-
折たく柴の記・『折たく柴の記』家宣の世子立てに馳せ参じた一言甲申の年十二月五日に、儲副に立せ給ふと聞きて、馳せ賀し申さむため龍口のほとりに及びし時、程なく西城に入らせ給ふべしとて、道ゆく人をとゞむ。(御歩行の衆なり)某が名を稱して、參るべき事あるがためなりといひしかば、參りたまへとてゆるしぬ。藩邸に至るに、御迎の人々參りつどへり。(美濃守吉保朝臣を始めて、御供に候べき人々參れり)詮房朝臣を尋ねしに、物くひておはすと聞きて、其所に入りて賀し申す。やがてくひはてゝ、坐をたゞれしを引とゞめて、凡天下の御事においては、某此の年頃申しし所なれば、今はた申すに及ばず。只その申しし事どもを、忘れさせ給ふ事なからむには、天下の幸甚にこそ候ふべけれと此の一ことを申すべきために、馳せ參りて候ふ也。此の由を以てもらし申させ給へといひて、たちわかれぬ。後にある人の申しし事をきゝしに、いづれの比なることにかおはしましけむ、詮房朝臣にむかはせ給ひ、我はじめ西城に入らむとせし時に君美が馳せ參りていひし所をば、わすれもやする。我は日としてわするゝ事はなきものをと仰せられしとぞ。我は此の後家にのみこもり居ぬ。廿日ばかりをすぎて、ある人の參りてむかしつかへ參らせし人々、そのほど〳〵につけつゝ、おの〳〵めし出されぬ。我等が事のみ、いまだ仰せ下さるゝ旨のあらざれば、此の事を以て歎き申す人ありと聞ゆ。我も其の由を以て歎き申さむと思へば、しらせ申すなりといふ。かく告げしらせし人は、芝崎十郎右衞門なり。これは村田十郎右衞門の、詮房朝臣の舍弟につきて此の事を申し、またむかし藩邸におはしましし時に、其所より事を執り申されし人々の許にもゆきて、此の事を申す旨ありしと聞えしが故なればなり。年比つかへまゐらせし所の、かくおはしますを見奉る事、これにすぎし身の幸やあるべき。此のほかまた何事をかもとむべき。我また身不肖也といへども、さすがに今は藩邸の舊學也。禮を以て進退せむ事、これみづから重んずるがためにもあらず。いかんぞ人々のごとく、此等の事をもて申す事のあるべきと思ひしかば、御芳志のほど謝するに詞なし。されど某が事においては、存ずる所あれば、それらの事を以て、申す事あるべからずと答へぬ。わづかに一日をへだてゝ、それ月の廿六日の夜、某等が事執り申すべき由を仰せかうぶりし人々ありと告げ來れり。此の事藩邸に申しし時の目付衆、坂部といひし人より告げ來り、其の狀に見えし所、新井勘解由、村田七郎右衞門、芝崎十郎右衞門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部淸助、土肥源四郎、此等七人をば、西丸御側衆支配あるべしといふ。
-
折たく柴の記・『折たく柴の記』書目の下問と汲古閣六経の下賜乙亥の年、秋の末に、常に御側にさし置かれて御覽じつべき倭漢の書の目、しるしまゐらすべき由仰せ下されたり。我が師にて候ふ者と、あひはからひてこそ、申すべけれと對へまゐらせて、師たる人に問ひてのちに、書目をまゐらせしかば、それらの書ども、購ひ求めてまゐらすべしとあり。こゝかしこもとめ出して、倭漢の書百數十部を奉れり。十二月廿一日に、侍講の者二人をめされて、倭漢の書、二百部ばかりの書目しるし出されて、おの〳〵賜らむとおもふ書目に、點してまゐらすべしと仰せ下さる。これは今まで御側に閣かれし所のものどもなり。二人たがひに相讓りて後、ひとりの點せし所、三つが二つばかりに及べり某その殘る所を見て、此等の書、某が家藏にあるものも侍り。また近習の人々にわかち賜はらむに、皆然るべきものどもなりと申して、我が點せし所わづかに十一部に過ぎず。おの〳〵其の望む所に任せらる、よし仰せ下され、某はしばらくさぶらふべしと仰せ下されて、年比御自愛の物なり。汝の子息に相傳ふべしと仰せ下され六經の書を下し賜る。此の時仰せの事どもを傳へられしは、今の越前守藤詮房朝臣、いまだ宮内と申しし時の事なり。賜はりし所の六經は、汲古閣の善本にて、裝潢并に書匣鎖鑰等善盡し美盡しし所、猶今も家にある者これなり。今ひとりの賜はりし所は、いくほどなくして、災火のためにこと〳〵く焼けうせしといふ。惜むべき事にてあるなり。
-
折たく柴の記・『折たく柴の記』夜が明け、主君に家へ帰されるかゝりし程に、いまの隱岐守藤詮衡の、我をいざなひて、兄の詮房朝臣の、家の庭に入りて、膳を薦む。よべ侍醫の坂本といひし人の(養慶といひき)庭上に來りて、我を引のけて、袖より物出してあたふ。湯にひたしたる飯を、茶碗に盛りしなりき。それを食ひしのち、程へしかば、飯うちくひ、酒打のみて出で、今の市正藤正直の家の前をすぐるに、よび入れて茶をあたへたり。かくせしほどに、歸らせ給ふと聞きて、入らせ給ふべき所にゆきむかひて、むかへまゐらす。それより、おとなたちと我と、四人うちつれて、いづこにかありけむ、ほそきわた殿のある所を經て、常の御座の方にゆくに、作りあはせの所に至る。人々は草履を袖にしたれど、戸田はその用意なしとみゆ。我はかゝる事もこそあれと思ひて。はじめ庭上に在りし時、そこらの草履を左右の袖にしたれば、取出でてあたふ。かゝりしほどに、ふたゝびさきの所に出でさせ給ひ、其をめして、我いとけなき時に、上野の花見しものどもの、むれゐしを見しに、似つるかなと、仰せられてわらはせ給ひぬ。とかくせしほどに火も消えぬ。日すでに午の半にもなりぬべき比。又出でさせ給ひて某をめす。參りしかば、妻子どもの事、そのゝちの事、聞えしにやと仰せあり。よべ參りし後に、こゝにのみさぶらひて、それらの事も承らずと申す。我谷中の別業にゆく時に、人のをしへたりしをおもふに、居所は高き岸の下にありしとこそ覺ゆれと仰せらる。さん候ふと申す。いよ〳〵覺束なき事也、かくては、地ふるふ事數日をも經め。ふるひし初の事のごとくならむには、あひかまひて來るべからす。とく〳〵家に歸るべしと仰せ下されしかば、罷り出で召供のものにたづねあひて、よべのまゝにさぶらひしにやととふに、けさとく家にのこりしものども、來り代りぬれば、家に歸りて、物くひてまた參れりといふ。これによりて、妻子どもの事つゝがなかりし事をしりぬ。心しづかに家に歸りぬれば、未の初にはすぎぬ。
-
折たく柴の記・『折たく柴の記』藩邸の庭に畳を敷き、将軍のもとへかくて披門より入りて見るに、家々皆たふれかたぶきたれば、出でたちてある人に、路ふさがりてゆくべからず。そてをすぎて、常に參る所に至りたれば、其所もたふれて入るべからず。藤枝またそのほとりに、たゞずみ居りしをともなひて、御納戸の口といふ所より入りたり。こゝかしこの天井落ちかゝりし所をすぎて。我は常に祗候する所に參りしに。今の越前守詮房朝臣の、こなたの方に來るにゆきあひて、御つゝがもあらせ給はぬ事を聞き、かゝる時に候へば、推參し候ふといひすてゝ。常の御座所に參るに、その庇の內に、東の屋のたふれかゝりしあり。近習の人々は、南の庭上にたち居たり。上にはあなたの庭におはしますなりといふ。戸田、小出、井上などのおとなたちも、こゝに入り來る時は、庭上にたちぬれば、五十嵐といひし人に、いひ語らひて、(今の一十郎のわかき時の事なり、御小納戸衆にてありき)御庇に敷かれしたゞみ十帖ばかり、庭上におろして、皆々を其の上に座せしむ。地震ふ事しきりなれば、座せしうしろの池の岸くづれ〳〵て、平かなる池も狹くなれり。かゝりし程に、酒井左衛門尉忠眞仰せをかうふれりとて、入り來りて火を防ぐ。火熾りならむには、御座を移さるべしなど聞ゆるに、御袴ばかりに、御道服めされて、常の御所の南面に出でたゞせ給ひ。某がさぶらふを御覽じて召す。御縁に參りしかば、地震の事つぶさに問はせ給ひて、後に奧に入らせ給ひぬ。夜も明けぬべき比に至りて、おほやけに參り給はむと聞ゆ。某長門守の耳につきて、地震ふ事なほしきりなり。參らせ給はむ事、いかにやといひしに、我もさこそはおもへど、とゞめ申すべき事にあらず、といふほどに、出でたゞせ給ひたり。かくてかの火出でしところにゆきて見るに、たふれし家に壓され死せしものどもを引出したるが、こゝかしこにありし。井泉ことごとく竭きて水なければ、火消すべきやうもあらず。此の時御庭の池水を汲まむといひしを、今の曲淵下野守の此の水用ふべき時ありといひてゆるさゞりし。いかに思ひしにかおぼつかなし。