折たく柴の記 / 『折たく柴の記』西城に召され御側衆支配となる
廿七日の申時ばかりに、詮房朝臣奉りて、西城へ參るべき由を仰せ下さる。やがて參りしに、仰せをうけて、むかへみちびくべき人々出でてむかへ、參るべきところにみちびく。大門の外に、小人衆をつけおかれて、中口に案内す。かしこには、山本傳阿待ち居て、某參りし由を申しければ、潛邸の侍醫にてありし、山本玄長出でむかへて、斗鷄の間にみちびきぬ。玄長は某が相識なるをしろしめされしゆゑなり。戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方等の人々出で迎へたり。(此の三人は某等が事を支配すべき由、仰せかうぶれる所なり)かくて、村田等の人々も參りし後に、(此の時芝崎と、服部淸助とは見え來らず、めされずやありけむ、詳なることをならず)詮房朝臣、小出と共に出で來て、仰せを傳へられし。事終りて人々退出す。某はしばしがほど、ここにさぶらふべき由を仰せ下さる。これは支配の人々仰せかうぶりし事、又此の後祗候すべき所等の事を仰せ下されしなり。人々罷り出でしあとにて、小出某が座に居よりてこれより後の御事共は、天下の安危にかゝらせ給ふ所也。我々が事はかねてもしり給ひし事のごとく、もとより不學無術のともがら也、たのむところは、そこのおはしますのみなり。此の事我申す迄もあらねど、心およぶ所なれば、聞え申す也と申さる。これは詮房朝臣御前に參られしあとにて、たゞひとり申されし所也。此の人いくほどもなくて、不幸にしづみて世をさりき。誠に惜むべき事なり。そののち詮房朝臣よりして、此のほどの御事ども、又年明けて講筵開かるべき事など仰せ下され、また今よりして後、參るべきやうなどの事まで仰せ下され、戌の時に至りて罷り出づ。(此の後は中の口より入りて、御臺所を經て、奧に參るべき由なり)廿九日に、元日大城拜賀の事等仰せ下さる。(此の事戸田より申し來れり。其の狀に御本丸寄合衆の次に候べしと云々)
新字:廿七日の申時ばかりに、詮房朝臣奉りて、西城へ参るべき由を仰せ下さる。やがて参りしに、仰せをうけて、むかへみちびくべき人々出でてむかへ、参るべきところにみちびく。大門の外に、小人衆をつけおかれて、中口に案内す。かしこには、山本伝阿待ち居て、某参りし由を申しければ、潜邸の侍医にてありし、山本玄長出でむかへて、斗鶏の間にみちびきぬ。玄長は某が相識なるをしろしめされしゆゑなり。戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方等の人々出で迎へたり。(此の三人は某等が事を支配すべき由、仰せかうぶれる所なり)かくて、村田等の人々も参りし後に、(此の時芝崎と、服部清助とは見え来らず、めされずやありけむ、詳なることをならず)詮房朝臣、小出と共に出で来て、仰せを伝へられし。事終りて人々退出す。某はしばしがほど、ここにさぶらふべき由を仰せ下さる。これは支配の人々仰せかうぶりし事、又此の後祗候すべき所等の事を仰せ下されしなり。人々罷り出でしあとにて、小出某が座に居よりてこれより後の御事共は、天下の安危にかゝらせ給ふ所也。我々が事はかねてもしり給ひし事のごとく、もとより不学無術のともがら也、たのむところは、そこのおはしますのみなり。此の事我申す迄もあらねど、心およぶ所なれば、聞え申す也と申さる。これは詮房朝臣御前に参られしあとにて、たゞひとり申されし所也。此の人いくほどもなくて、不幸にしづみて世をさりき。誠に惜むべき事なり。そののち詮房朝臣よりして、此のほどの御事ども、又年明けて講筵開かるべき事など仰せ下され、また今よりして後、参るべきやうなどの事まで仰せ下され、戌の時に至りて罷り出づ。(此の後は中の口より入りて、御台所を経て、奥に参るべき由なり)廿九日に、元日大城拝賀の事等仰せ下さる。(此の事戸田より申し来れり。其の状に御本丸寄合衆の次に候べしと云々)
書き下し
廿七日の申時ばかりに、詮房朝臣奉りて、西城へ參るべき由を仰せ下さる。やがて參りしに、仰せをうけて、むかへみちびくべき人々出でてむかへ、參るべきところにみちびく。大門の外に、小人衆をつけおかれて、中口に案内す。かしこには、山本傳阿待ち居て、某參りし由を申しければ、潛邸の侍醫にてありし、山本玄長出でむかへて、斗鷄の間にみちびきぬ。玄長は某が相識なるをしろしめされしゆゑなり。戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方等の人々出で迎へたり。(此の三人は某等が事を支配すべき由、仰せかうぶれる所なり)かくて、村田等の人々も參りし後に、(此の時芝崎と、服部淸助とは見え來らず、めされずやありけむ、詳なることをならず)詮房朝臣、小出と共に出で來て、仰せを傳へられし。事終りて人々退出す。某はしばしがほど、ここにさぶらふべき由を仰せ下さる。これは支配の人々仰せかうぶりし事、又此の後祗候すべき所等の事を仰せ下されしなり。人々罷り出でしあとにて、小出某が座に居よりてこれより後の御事共は、天下の安危にかゝらせ給ふ所也。我々が事はかねてもしり給ひし事のごとく、もとより不學無術のともがら也、たのむところは、そこのおはしますのみなり。此の事我申す迄もあらねど、心およぶ所なれば、聞え申す也と申さる。これは詮房朝臣御前に參られしあとにて、たゞひとり申されし所也。此の人いくほどもなくて、不幸にしづみて世をさりき。誠に惜むべき事なり。そののち詮房朝臣よりして、此のほどの御事ども、又年明けて講筵開かるべき事など仰せ下され、また今よりして後、參るべきやうなどの事まで仰せ下され、戌の時に至りて罷り出づ。(此の後は中の口より入りて、御臺所を經て、奧に參るべき由なり)廿九日に、元日大城拜賀の事等仰せ下さる。(此の事戸田より申し來れり。其の狀に御本丸寄合衆の次に候べしと云々)
現代語訳
二十七日の申の刻(午後四時ごろ)に、詮房朝臣が(公の命を)承って、西城へ参上するようにと仰せ下された。すぐに参ったところ、仰せを受けて迎え案内する人々が出て迎え、参るべき所へ案内する。大門の外に小人衆をつけておかれ、中口に案内する。そこには山本伝阿が待っていて、私が参った旨を申し上げると、潜邸(藩邸)の侍医であった山本玄長が出迎えて、闘鶏の間に案内した。玄長は私の知り合いであることを、(公が)ご存じであったゆえである。戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方らが出迎えた。(この三人は私どものことを支配するようにと、仰せを受けた人々である。)こうして、村田らの人々も参ったあと、(この時芝崎と服部清助は姿を見せなかった。お召しにならなかったのだろうか、詳しいことは分からない。)詮房朝臣が、小出とともに出て来て、仰せを伝えられた。事が終わって人々は退出した。私はしばらくの間ここに控えているようにと仰せ下された。これは、支配の人々が仰せを受けたこと、またこの後伺候すべき所などのことを仰せ下されたのである。人々が退出したあとで、小出某が私の座に寄ってきて、「これから後のことは、天下の安危にかかわることです。我々のことは、かねてからご存じのとおり、もとより不学無術の者どもで、頼みとするところは、あなたがおいでになることだけです。このことは私が申すまでもないことですが、心に思うところですので、申し上げるのです」と言われた。これは詮房朝臣が御前に参られたあとで、ただひとりで言われたことである。この人はいくらもたたないうちに、不幸に沈んで世を去った。誠に惜しむべきことである。その後、詮房朝臣から、このたびのことども、また年が明けて講筵を開かれるはずのことなど仰せ下され、またこれから後、参るべき様子などのことまで仰せ下され、戌の刻(午後八時ごろ)になって退出した。(この後は中の口から入り、御台所を経て、奥に参るようにとのことである。)二十九日に、元日に大城(江戸城本丸)で拝賀することなどを仰せ下された。(このことは戸田から言ってきた。その書状には、御本丸の寄合衆の次に控えるようにとあった、云々。)
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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折たく柴の記・『折たく柴の記』家宣の世子立てに馳せ参じた一言甲申の年十二月五日に、儲副に立せ給ふと聞きて、馳せ賀し申さむため龍口のほとりに及びし時、程なく西城に入らせ給ふべしとて、道ゆく人をとゞむ。(御歩行の衆なり)某が名を稱して、參るべき事あるがためなりといひしかば、參りたまへとてゆるしぬ。藩邸に至るに、御迎の人々參りつどへり。(美濃守吉保朝臣を始めて、御供に候べき人々參れり)詮房朝臣を尋ねしに、物くひておはすと聞きて、其所に入りて賀し申す。やがてくひはてゝ、坐をたゞれしを引とゞめて、凡天下の御事においては、某此の年頃申しし所なれば、今はた申すに及ばず。只その申しし事どもを、忘れさせ給ふ事なからむには、天下の幸甚にこそ候ふべけれと此の一ことを申すべきために、馳せ參りて候ふ也。此の由を以てもらし申させ給へといひて、たちわかれぬ。後にある人の申しし事をきゝしに、いづれの比なることにかおはしましけむ、詮房朝臣にむかはせ給ひ、我はじめ西城に入らむとせし時に君美が馳せ參りていひし所をば、わすれもやする。我は日としてわするゝ事はなきものをと仰せられしとぞ。我は此の後家にのみこもり居ぬ。廿日ばかりをすぎて、ある人の參りてむかしつかへ參らせし人々、そのほど〳〵につけつゝ、おの〳〵めし出されぬ。我等が事のみ、いまだ仰せ下さるゝ旨のあらざれば、此の事を以て歎き申す人ありと聞ゆ。我も其の由を以て歎き申さむと思へば、しらせ申すなりといふ。かく告げしらせし人は、芝崎十郎右衞門なり。これは村田十郎右衞門の、詮房朝臣の舍弟につきて此の事を申し、またむかし藩邸におはしましし時に、其所より事を執り申されし人々の許にもゆきて、此の事を申す旨ありしと聞えしが故なればなり。年比つかへまゐらせし所の、かくおはしますを見奉る事、これにすぎし身の幸やあるべき。此のほかまた何事をかもとむべき。我また身不肖也といへども、さすがに今は藩邸の舊學也。禮を以て進退せむ事、これみづから重んずるがためにもあらず。いかんぞ人々のごとく、此等の事をもて申す事のあるべきと思ひしかば、御芳志のほど謝するに詞なし。されど某が事においては、存ずる所あれば、それらの事を以て、申す事あるべからずと答へぬ。わづかに一日をへだてゝ、それ月の廿六日の夜、某等が事執り申すべき由を仰せかうぶりし人々ありと告げ來れり。此の事藩邸に申しし時の目付衆、坂部といひし人より告げ來り、其の狀に見えし所、新井勘解由、村田七郎右衞門、芝崎十郎右衞門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部淸助、土肥源四郎、此等七人をば、西丸御側衆支配あるべしといふ。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』元日の拝賀と村田・吉田の出仕明くれば乙酉の正月元日。大城に拜賀。同じき十一日に、西城にて講筵を開かれ、そののち日講に侍りし事も、潛邸におはしまし時にかはらず。此の年四月十一日に、村田十郎右衞門吉田藤八郎二人をば小納戸衆に召し加へらる。村田はもと柳生が家臣なり。いとけなくおはしましし比、太刀打の事學ばせ給ふ時に、主の柳生が召供して參りしを、我めされし後におよび、柳生が弟子まゐらすべしと仰せられしに、此の人を參らせたる也。吉田を召し出されし事は、前にしるしゝごとくに、戸田がすゝめて、また大學頭が弟子となししなり。大學頭は、當代の御師範などいふ事にて、其の門人多くは近習にめしくはへられしによりて、戸田また吉田をすゝめむがために、村田をは推擧せし也。今の代こそはあれ。彼の人々の仰せかうぶりし事は、古の官寺の職掌にして、士君子の屑とせざる事なれど、わかき人々は、我がもとのまゝなる事の、某を禮待せさせ給ふ御心なるをばしらで、今までしたしかりしも、うとくなりしもすくなからず。わづかに十日をへだてゝ、その月の廿二日、進講訖りし後に、此所の庭の氣色興あり、市正正直に案内せさせて眺望あるべしと仰せ下されて、こかして見はてゝ歸り參りしかば、妻子共に與へよとて色々の帛五卷を賜ふ。これ妻子共に物賜ふ事の始なりき。此の時にこそ、此のほどうとかりし人々も、また來り賀しけれ。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』宅地と黄金二百両を賜り新宅へ此の年八月四日、某等が事奉るべき人をあらため命ぜらる。(此の日井上よりの狀に、某并に服部父子、土肥四人の事、若年寄衆の支配たるべき由を仰せ下さると云々)明けの年丁亥五月十九日、宅地并に屋材、家作るべき料として黃金二百兩を下し賜ふ。永井伊賀守尙平、大久保長門守敬重二人、雉子橋の外において、宅地三百五十坪を賜ふ由の仰せを傅へらる。事訖りなば、奥に參るべき由仰せ下されしかば、參りて宅地賜る事を謝し申ししに、潛邸にありし人々の家こぼたれし時に、蜂屋源八郎の家を殘し置かれしは、そこに賜ふべき事を思し召されしが故なり。今彼の家を以て下し賜ふ也。されど其家を賜ふ所の地に引移さむ事、私の力に及ぶまじければ、家引移すべき料の爲、黃金百兩を下し賜ふ由、詮房朝臣して仰せ下され、同月三十日に至りて、家造るべき用度たらずと聞しめし及ばれしによりて、また黃金百兩を下し賜はりたりき。七月廿六日、新宅に移れりと聞し召され、八月朔日に至りて、出仕すべき所の御門の事仰せ下さる。(これ出仕の道の程、遠からむ事をおぼしめされて、紅葉山下、并に裏御門より出入すべき由なり)此の月晦日。大城において散樂あり。これ家千代君御誕生御賀のためなり。若君の御外叔父太田内記と某と二人參るべき由を仰せ蒙る。これよりさき、七月十日の晩誕生の事あり。此の月の事は、永井大久保連署して仰せを傅へらる。又兼ねてより大久保仰せを奉りて、その一族大久保左京して二人を誘引せしむ。これ二人共に是等の事につきては、初參の儀なるが故也。こののちは、毎事につきての廻文に、太田と某と二人を以て充所とせらる。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』藩邸の庭に畳を敷き、将軍のもとへかくて披門より入りて見るに、家々皆たふれかたぶきたれば、出でたちてある人に、路ふさがりてゆくべからず。そてをすぎて、常に參る所に至りたれば、其所もたふれて入るべからず。藤枝またそのほとりに、たゞずみ居りしをともなひて、御納戸の口といふ所より入りたり。こゝかしこの天井落ちかゝりし所をすぎて。我は常に祗候する所に參りしに。今の越前守詮房朝臣の、こなたの方に來るにゆきあひて、御つゝがもあらせ給はぬ事を聞き、かゝる時に候へば、推參し候ふといひすてゝ。常の御座所に參るに、その庇の內に、東の屋のたふれかゝりしあり。近習の人々は、南の庭上にたち居たり。上にはあなたの庭におはしますなりといふ。戸田、小出、井上などのおとなたちも、こゝに入り來る時は、庭上にたちぬれば、五十嵐といひし人に、いひ語らひて、(今の一十郎のわかき時の事なり、御小納戸衆にてありき)御庇に敷かれしたゞみ十帖ばかり、庭上におろして、皆々を其の上に座せしむ。地震ふ事しきりなれば、座せしうしろの池の岸くづれ〳〵て、平かなる池も狹くなれり。かゝりし程に、酒井左衛門尉忠眞仰せをかうふれりとて、入り來りて火を防ぐ。火熾りならむには、御座を移さるべしなど聞ゆるに、御袴ばかりに、御道服めされて、常の御所の南面に出でたゞせ給ひ。某がさぶらふを御覽じて召す。御縁に參りしかば、地震の事つぶさに問はせ給ひて、後に奧に入らせ給ひぬ。夜も明けぬべき比に至りて、おほやけに參り給はむと聞ゆ。某長門守の耳につきて、地震ふ事なほしきりなり。參らせ給はむ事、いかにやといひしに、我もさこそはおもへど、とゞめ申すべき事にあらず、といふほどに、出でたゞせ給ひたり。かくてかの火出でしところにゆきて見るに、たふれし家に壓され死せしものどもを引出したるが、こゝかしこにありし。井泉ことごとく竭きて水なければ、火消すべきやうもあらず。此の時御庭の池水を汲まむといひしを、今の曲淵下野守の此の水用ふべき時ありといひてゆるさゞりし。いかに思ひしにかおぼつかなし。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』戸田と小出の盛衰と家宣の評此の比の事なり、小出と井上とあらそひいふ事あり。やがて小出は職奪はれ、すぎし比加へ賜りし所の地削られたりけり。これも戸田が正武朝臣とあひはからひ申しし事あるが故なり。初め潛邸におはしましし時、戸田は小出と同時につけられしかど、年比小出が事をよしとも思はず。井上は、其兄の河内守正岑朝臣は、當時の老なり。また右京大夫輝貞朝臣の外從兄弟なれば、少將吉保朝臣にむすぼほれたる中なり。されば讒説も行れやすき事もとより也とある人は申したりき。其の事のまことといつはりはしらねど、前にしるししごとくに、忠利朝臣は、我が出身の初めの事申執せし人なれば、其の事を忘るべきにもあらず。小出はさせるゆかりもなけれど、此の人すくよかなる所ありて、おもふ所をばのこさでいひしと聞えしが、さもありしにや、儲副にたゝせ給ひし初、我にいひしことばども思ひ出さるれ。戸田はいかにも世の事を精練して、甚機深かる人とみえしが、潛邸の御時に、朝よりとく參りつゝ、たゞひとりにて、詮房朝臣につきて、物申す事あり。又此の人につきて望み請ふ所を申すをきゝて、我は承り諾りぬ。同僚の人によく申し給へといふほどに、事なりぬるは、此の人の力によれりと思ひ、事ならざるをば、同僚の人さまたげ申しし也と、人々は思ひたりき。これらの事は、我がまさしく見聞きし所也。此の人ほどなく祿萬石に至り、位四品になられしかど、一年ばかり過ぎて、丙戌十月十五日に、職とゞめられたりけり。いかなる事にか、其の故をばしらず。御代をしろしめされし後に、前代に戸田は職とゞめられしかど、祿といひ、位といひ、其の幸すくなからず。小出が事、今に至りては、潛邸の勞に報いられむほどの御事こそあらまほしけれと申ししに、此の輩は前代の御恩淺からず、然るにむかし潛邸にありて、二人共に常に前代の御政事を、さみし申す事をのみ事とせり、共に禍にかゝれるは、其の不幸にはあらず、此の一事をもて其の人をしるべしと仰せ下されたり。これらの事、しるすべき事共にはあらねど、我が後たらむ人々、世の中のありさま、よろしくわきまへしらむ事を思ひぬれば、其の一二をこゝに註しぬ。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』夜が明け、主君に家へ帰されるかゝりし程に、いまの隱岐守藤詮衡の、我をいざなひて、兄の詮房朝臣の、家の庭に入りて、膳を薦む。よべ侍醫の坂本といひし人の(養慶といひき)庭上に來りて、我を引のけて、袖より物出してあたふ。湯にひたしたる飯を、茶碗に盛りしなりき。それを食ひしのち、程へしかば、飯うちくひ、酒打のみて出で、今の市正藤正直の家の前をすぐるに、よび入れて茶をあたへたり。かくせしほどに、歸らせ給ふと聞きて、入らせ給ふべき所にゆきむかひて、むかへまゐらす。それより、おとなたちと我と、四人うちつれて、いづこにかありけむ、ほそきわた殿のある所を經て、常の御座の方にゆくに、作りあはせの所に至る。人々は草履を袖にしたれど、戸田はその用意なしとみゆ。我はかゝる事もこそあれと思ひて。はじめ庭上に在りし時、そこらの草履を左右の袖にしたれば、取出でてあたふ。かゝりしほどに、ふたゝびさきの所に出でさせ給ひ、其をめして、我いとけなき時に、上野の花見しものどもの、むれゐしを見しに、似つるかなと、仰せられてわらはせ給ひぬ。とかくせしほどに火も消えぬ。日すでに午の半にもなりぬべき比。又出でさせ給ひて某をめす。參りしかば、妻子どもの事、そのゝちの事、聞えしにやと仰せあり。よべ參りし後に、こゝにのみさぶらひて、それらの事も承らずと申す。我谷中の別業にゆく時に、人のをしへたりしをおもふに、居所は高き岸の下にありしとこそ覺ゆれと仰せらる。さん候ふと申す。いよ〳〵覺束なき事也、かくては、地ふるふ事數日をも經め。ふるひし初の事のごとくならむには、あひかまひて來るべからす。とく〳〵家に歸るべしと仰せ下されしかば、罷り出で召供のものにたづねあひて、よべのまゝにさぶらひしにやととふに、けさとく家にのこりしものども、來り代りぬれば、家に歸りて、物くひてまた參れりといふ。これによりて、妻子どもの事つゝがなかりし事をしりぬ。心しづかに家に歸りぬれば、未の初にはすぎぬ。