折たく柴の記 / 『折たく柴の記』元日の拝賀と村田・吉田の出仕
明くれば乙酉の正月元日。大城に拜賀。同じき十一日に、西城にて講筵を開かれ、そののち日講に侍りし事も、潛邸におはしまし時にかはらず。此の年四月十一日に、村田十郎右衞門吉田藤八郎二人をば小納戸衆に召し加へらる。村田はもと柳生が家臣なり。いとけなくおはしましし比、太刀打の事學ばせ給ふ時に、主の柳生が召供して參りしを、我めされし後におよび、柳生が弟子まゐらすべしと仰せられしに、此の人を參らせたる也。吉田を召し出されし事は、前にしるしゝごとくに、戸田がすゝめて、また大學頭が弟子となししなり。大學頭は、當代の御師範などいふ事にて、其の門人多くは近習にめしくはへられしによりて、戸田また吉田をすゝめむがために、村田をは推擧せし也。今の代こそはあれ。彼の人々の仰せかうぶりし事は、古の官寺の職掌にして、士君子の屑とせざる事なれど、わかき人々は、我がもとのまゝなる事の、某を禮待せさせ給ふ御心なるをばしらで、今までしたしかりしも、うとくなりしもすくなからず。わづかに十日をへだてゝ、その月の廿二日、進講訖りし後に、此所の庭の氣色興あり、市正正直に案内せさせて眺望あるべしと仰せ下されて、こかして見はてゝ歸り參りしかば、妻子共に與へよとて色々の帛五卷を賜ふ。これ妻子共に物賜ふ事の始なりき。此の時にこそ、此のほどうとかりし人々も、また來り賀しけれ。
新字:明くれば乙酉の正月元日。大城に拝賀。同じき十一日に、西城にて講筵を開かれ、そののち日講に侍りし事も、潜邸におはしまし時にかはらず。此の年四月十一日に、村田十郎右衛門吉田藤八郎二人をば小納戸衆に召し加へらる。村田はもと柳生が家臣なり。いとけなくおはしましし比、太刀打の事学ばせ給ふ時に、主の柳生が召供して参りしを、我めされし後におよび、柳生が弟子まゐらすべしと仰せられしに、此の人を参らせたる也。吉田を召し出されし事は、前にしるしゝごとくに、戸田がすゝめて、また大学頭が弟子となししなり。大学頭は、当代の御師範などいふ事にて、其の門人多くは近習にめしくはへられしによりて、戸田また吉田をすゝめむがために、村田をは推挙せし也。今の代こそはあれ。彼の人々の仰せかうぶりし事は、古の官寺の職掌にして、士君子の屑とせざる事なれど、わかき人々は、我がもとのまゝなる事の、某を礼待せさせ給ふ御心なるをばしらで、今までしたしかりしも、うとくなりしもすくなからず。わづかに十日をへだてゝ、その月の廿二日、進講訖りし後に、此所の庭の気色興あり、市正正直に案内せさせて眺望あるべしと仰せ下されて、こかして見はてゝ帰り参りしかば、妻子共に与へよとて色々の帛五巻を賜ふ。これ妻子共に物賜ふ事の始なりき。此の時にこそ、此のほどうとかりし人々も、また来り賀しけれ。
書き下し
明くれば乙酉の正月元日。大城に拜賀。同じき十一日に、西城にて講筵を開かれ、そののち日講に侍りし事も、潛邸におはしまし時にかはらず。此の年四月十一日に、村田十郎右衞門吉田藤八郎二人をば小納戸衆に召し加へらる。村田はもと柳生が家臣なり。いとけなくおはしましし比、太刀打の事學ばせ給ふ時に、主の柳生が召供して參りしを、我めされし後におよび、柳生が弟子まゐらすべしと仰せられしに、此の人を參らせたる也。吉田を召し出されし事は、前にしるしゝごとくに、戸田がすゝめて、また大學頭が弟子となししなり。大學頭は、當代の御師範などいふ事にて、其の門人多くは近習にめしくはへられしによりて、戸田また吉田をすゝめむがために、村田をは推擧せし也。今の代こそはあれ。彼の人々の仰せかうぶりし事は、古の官寺の職掌にして、士君子の屑とせざる事なれど、わかき人々は、我がもとのまゝなる事の、某を禮待せさせ給ふ御心なるをばしらで、今までしたしかりしも、うとくなりしもすくなからず。わづかに十日をへだてゝ、その月の廿二日、進講訖りし後に、此所の庭の氣色興あり、市正正直に案内せさせて眺望あるべしと仰せ下されて、こかして見はてゝ歸り參りしかば、妻子共に與へよとて色々の帛五卷を賜ふ。これ妻子共に物賜ふ事の始なりき。此の時にこそ、此のほどうとかりし人々も、また來り賀しけれ。
現代語訳
明けて乙酉(宝永2年)の正月元日。江戸城に拝賀した。同じ十一日に、西城で講筵を開かれ、その後日講に侍ったことも、潜邸におられた時と変わらなかった。この年四月十一日に、村田十郎右衛門と吉田藤八郎の二人を小納戸衆に召し加えられた。村田はもと柳生の家臣である。(公が)幼くおられた頃、太刀打ちのことを学ばれた時に、主君の柳生が召し連れて参上したのを、私が召されたのちになって、柳生が弟子を参らせよと仰せられたので、この人を参らせたのである。吉田を召し出されたことは、前に記したように、戸田がすすめて、また大学頭の弟子とさせたのである。大学頭は、当代のご師範ということで、その門人は多く近習に召し加えられたので、戸田はまた吉田をすすめるために、村田を推挙したのである。今の世はともかく、あの人々が仰せを受けた職は、古の官寺の職掌であって、士君子の取るに足らないものとするところだが、若い人々は、私が元のままであることが、私を礼をもって遇されようとの御心だとは知らず、今まで親しかった人にも、疎遠になった者が少なくない。わずか十日を隔てて、その月の二十二日、進講が終わったのち、この所の庭の景色が趣深い、市正正直に案内させて眺めるがよいと仰せ下されて、ゆっくり見終わって帰り参ったところ、妻子たちに与えよと言って色々の帛五巻を賜った。これは妻子らに物を賜った初めであった。この時にこそ、このごろ疎遠だった人々も、また来て祝いを述べた。
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』西城に召され御側衆支配となる廿七日の申時ばかりに、詮房朝臣奉りて、西城へ參るべき由を仰せ下さる。やがて參りしに、仰せをうけて、むかへみちびくべき人々出でてむかへ、參るべきところにみちびく。大門の外に、小人衆をつけおかれて、中口に案内す。かしこには、山本傳阿待ち居て、某參りし由を申しければ、潛邸の侍醫にてありし、山本玄長出でむかへて、斗鷄の間にみちびきぬ。玄長は某が相識なるをしろしめされしゆゑなり。戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方等の人々出で迎へたり。(此の三人は某等が事を支配すべき由、仰せかうぶれる所なり)かくて、村田等の人々も參りし後に、(此の時芝崎と、服部淸助とは見え來らず、めされずやありけむ、詳なることをならず)詮房朝臣、小出と共に出で來て、仰せを傳へられし。事終りて人々退出す。某はしばしがほど、ここにさぶらふべき由を仰せ下さる。これは支配の人々仰せかうぶりし事、又此の後祗候すべき所等の事を仰せ下されしなり。人々罷り出でしあとにて、小出某が座に居よりてこれより後の御事共は、天下の安危にかゝらせ給ふ所也。我々が事はかねてもしり給ひし事のごとく、もとより不學無術のともがら也、たのむところは、そこのおはしますのみなり。此の事我申す迄もあらねど、心およぶ所なれば、聞え申す也と申さる。これは詮房朝臣御前に參られしあとにて、たゞひとり申されし所也。此の人いくほどもなくて、不幸にしづみて世をさりき。誠に惜むべき事なり。そののち詮房朝臣よりして、此のほどの御事ども、又年明けて講筵開かるべき事など仰せ下され、また今よりして後、參るべきやうなどの事まで仰せ下され、戌の時に至りて罷り出づ。(此の後は中の口より入りて、御臺所を經て、奧に參るべき由なり)廿九日に、元日大城拜賀の事等仰せ下さる。(此の事戸田より申し來れり。其の狀に御本丸寄合衆の次に候べしと云々)
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折たく柴の記・『折たく柴の記』宅地と黄金二百両を賜り新宅へ此の年八月四日、某等が事奉るべき人をあらため命ぜらる。(此の日井上よりの狀に、某并に服部父子、土肥四人の事、若年寄衆の支配たるべき由を仰せ下さると云々)明けの年丁亥五月十九日、宅地并に屋材、家作るべき料として黃金二百兩を下し賜ふ。永井伊賀守尙平、大久保長門守敬重二人、雉子橋の外において、宅地三百五十坪を賜ふ由の仰せを傅へらる。事訖りなば、奥に參るべき由仰せ下されしかば、參りて宅地賜る事を謝し申ししに、潛邸にありし人々の家こぼたれし時に、蜂屋源八郎の家を殘し置かれしは、そこに賜ふべき事を思し召されしが故なり。今彼の家を以て下し賜ふ也。されど其家を賜ふ所の地に引移さむ事、私の力に及ぶまじければ、家引移すべき料の爲、黃金百兩を下し賜ふ由、詮房朝臣して仰せ下され、同月三十日に至りて、家造るべき用度たらずと聞しめし及ばれしによりて、また黃金百兩を下し賜はりたりき。七月廿六日、新宅に移れりと聞し召され、八月朔日に至りて、出仕すべき所の御門の事仰せ下さる。(これ出仕の道の程、遠からむ事をおぼしめされて、紅葉山下、并に裏御門より出入すべき由なり)此の月晦日。大城において散樂あり。これ家千代君御誕生御賀のためなり。若君の御外叔父太田内記と某と二人參るべき由を仰せ蒙る。これよりさき、七月十日の晩誕生の事あり。此の月の事は、永井大久保連署して仰せを傅へらる。又兼ねてより大久保仰せを奉りて、その一族大久保左京して二人を誘引せしむ。これ二人共に是等の事につきては、初參の儀なるが故也。こののちは、毎事につきての廻文に、太田と某と二人を以て充所とせらる。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』家宣の世子立てに馳せ参じた一言甲申の年十二月五日に、儲副に立せ給ふと聞きて、馳せ賀し申さむため龍口のほとりに及びし時、程なく西城に入らせ給ふべしとて、道ゆく人をとゞむ。(御歩行の衆なり)某が名を稱して、參るべき事あるがためなりといひしかば、參りたまへとてゆるしぬ。藩邸に至るに、御迎の人々參りつどへり。(美濃守吉保朝臣を始めて、御供に候べき人々參れり)詮房朝臣を尋ねしに、物くひておはすと聞きて、其所に入りて賀し申す。やがてくひはてゝ、坐をたゞれしを引とゞめて、凡天下の御事においては、某此の年頃申しし所なれば、今はた申すに及ばず。只その申しし事どもを、忘れさせ給ふ事なからむには、天下の幸甚にこそ候ふべけれと此の一ことを申すべきために、馳せ參りて候ふ也。此の由を以てもらし申させ給へといひて、たちわかれぬ。後にある人の申しし事をきゝしに、いづれの比なることにかおはしましけむ、詮房朝臣にむかはせ給ひ、我はじめ西城に入らむとせし時に君美が馳せ參りていひし所をば、わすれもやする。我は日としてわするゝ事はなきものをと仰せられしとぞ。我は此の後家にのみこもり居ぬ。廿日ばかりをすぎて、ある人の參りてむかしつかへ參らせし人々、そのほど〳〵につけつゝ、おの〳〵めし出されぬ。我等が事のみ、いまだ仰せ下さるゝ旨のあらざれば、此の事を以て歎き申す人ありと聞ゆ。我も其の由を以て歎き申さむと思へば、しらせ申すなりといふ。かく告げしらせし人は、芝崎十郎右衞門なり。これは村田十郎右衞門の、詮房朝臣の舍弟につきて此の事を申し、またむかし藩邸におはしましし時に、其所より事を執り申されし人々の許にもゆきて、此の事を申す旨ありしと聞えしが故なればなり。年比つかへまゐらせし所の、かくおはしますを見奉る事、これにすぎし身の幸やあるべき。此のほかまた何事をかもとむべき。我また身不肖也といへども、さすがに今は藩邸の舊學也。禮を以て進退せむ事、これみづから重んずるがためにもあらず。いかんぞ人々のごとく、此等の事をもて申す事のあるべきと思ひしかば、御芳志のほど謝するに詞なし。されど某が事においては、存ずる所あれば、それらの事を以て、申す事あるべからずと答へぬ。わづかに一日をへだてゝ、それ月の廿六日の夜、某等が事執り申すべき由を仰せかうぶりし人々ありと告げ來れり。此の事藩邸に申しし時の目付衆、坂部といひし人より告げ來り、其の狀に見えし所、新井勘解由、村田七郎右衞門、芝崎十郎右衞門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部淸助、土肥源四郎、此等七人をば、西丸御側衆支配あるべしといふ。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』禄の交渉と、甲府藩への初見参六日にまた豫州いはれし事どもありしに、其の夜我また申す旨ありしによりて、七日の朝に至りて、豫州の許に交して答へ申されき。初め我が師の心にみち給はざりし事は、祿米三十人を扶持すべき料を給はるべしとの事なりしかば、學の優劣は祿の厚薄によらざる事勿論なり。されど、世の人は祿厚ければ學優なりと思ひ、祿薄ければ、學も劣れりとおもふ事、よのつねなり。我が門にさぶらふものゝ中、かれにしかざるも、なほさほどの微祿のものはあらず。かれまたもとより、儒をもて業とせしものにもあらず。今までつかへにしたがひし祿米のほどもあるものを、のたまふ所の如くにて參らせむ事、えこそかなふまじけれとのたまふ。そののち、又、豫州來りて、のたまふ所いはれなきにあらず。さらば祿米四十人を扶持すべきほどの事は、我いかにも申しかなふべし。まづかのたまふ所にまかせて參らせられむには、その後の事は、いかにも望にまかせらるべき事にやとありしをその夜我をめして、またかくまで豫州のいひしかど、我なほおもふ所あれば、此の事いかにもかなふべからずとのたまふ。當時彼の藩邸の事、他家の事に準ずべからず。もし祿の多少を論じて、そのまねきに應せざらむには、これより後、他家の人々のまねかるゝ事ありとも、祿厚きにあらずはそれに應ずべからず。たゞしるべからざる所の事は我が命の厚薄いかにか候ふべき。同じくは、豫州の計らひにまかせらるべくや候ふと申す。答へ申さむ事遲からず。よくおもひはかるべしとありしを、我なほ申す事ありしかば、此の上はとて、つひに豫州の許に文つかはし給ひき。後にきゝしに、初め藩邸より大學頭藤信篤の弟子給はるべしと仰せられしに、信篤思ふ所やありけむ。參らすべき弟子候はずと答へ申したり。かくて我が事を聞し召し及ばれしのち、長州のはからひにて、此の年の春、みつから薦めし所の人を信篤の弟子に申しなして、さて後に我をめすべきよしはいひおこせたるなり。長州のすゝめし所は、今の舟橋半右衞門なり。其の時は吉田藤八郎と申す。もとは京の仁齋とかいひしものゝ、弟子なるを召し出されき。此の時に、大學頭の門人に申し行はれき。されば、儲副にたゝせ給ひし初に、此の人は近習にめしくはへられたりしなり。同じき十五日の夜、長州の許より、我が師に文贈りて、明日某を藩邸へ參らせらるべしとありしかば、十六日の巳時ばかりに藩邸に祇候す。戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪等の人々、我をめし出して、御家人たるべき由の仰せをば、小出傳へられき。同じき十八日、はじめて見參す。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』戸田と小出の盛衰と家宣の評此の比の事なり、小出と井上とあらそひいふ事あり。やがて小出は職奪はれ、すぎし比加へ賜りし所の地削られたりけり。これも戸田が正武朝臣とあひはからひ申しし事あるが故なり。初め潛邸におはしましし時、戸田は小出と同時につけられしかど、年比小出が事をよしとも思はず。井上は、其兄の河内守正岑朝臣は、當時の老なり。また右京大夫輝貞朝臣の外從兄弟なれば、少將吉保朝臣にむすぼほれたる中なり。されば讒説も行れやすき事もとより也とある人は申したりき。其の事のまことといつはりはしらねど、前にしるししごとくに、忠利朝臣は、我が出身の初めの事申執せし人なれば、其の事を忘るべきにもあらず。小出はさせるゆかりもなけれど、此の人すくよかなる所ありて、おもふ所をばのこさでいひしと聞えしが、さもありしにや、儲副にたゝせ給ひし初、我にいひしことばども思ひ出さるれ。戸田はいかにも世の事を精練して、甚機深かる人とみえしが、潛邸の御時に、朝よりとく參りつゝ、たゞひとりにて、詮房朝臣につきて、物申す事あり。又此の人につきて望み請ふ所を申すをきゝて、我は承り諾りぬ。同僚の人によく申し給へといふほどに、事なりぬるは、此の人の力によれりと思ひ、事ならざるをば、同僚の人さまたげ申しし也と、人々は思ひたりき。これらの事は、我がまさしく見聞きし所也。此の人ほどなく祿萬石に至り、位四品になられしかど、一年ばかり過ぎて、丙戌十月十五日に、職とゞめられたりけり。いかなる事にか、其の故をばしらず。御代をしろしめされし後に、前代に戸田は職とゞめられしかど、祿といひ、位といひ、其の幸すくなからず。小出が事、今に至りては、潛邸の勞に報いられむほどの御事こそあらまほしけれと申ししに、此の輩は前代の御恩淺からず、然るにむかし潛邸にありて、二人共に常に前代の御政事を、さみし申す事をのみ事とせり、共に禍にかゝれるは、其の不幸にはあらず、此の一事をもて其の人をしるべしと仰せ下されたり。これらの事、しるすべき事共にはあらねど、我が後たらむ人々、世の中のありさま、よろしくわきまへしらむ事を思ひぬれば、其の一二をこゝに註しぬ。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』講筵の作法と春秋の礼遇毎年正月の初に、講筵を開かるゝの儀あり。かねてより講章を奉らしめ給ひ、其の日講訖りぬれば、時服二領を賜はる事、つひにかはらず。此の儀は、年の初の御事なれば、大雅の中、めでたき詩を撰びて、進講すること例とはなりき。はじめ藩邸におはしましより。御代をしらせ給ふ後に至りて、歳の初に講筵を開かれしのちに、月の十五日を過ぎて、日講初まり十二月の末にいたるまで、大故おはします事の外は、朔望はいふに及はず。四時佳節の日といへども、日講をとゞめられし御事はあらず。我が身の病多くなりて、大暑大寒に堪へざる事をしろしめされしより後は、暑甚しき時には日沒りて後に參るべしと仰せ下されて、進講は夜に及ぶ。天寒き日には進講は晝の間にして、御座と某との間に、大火爐を一つ設け置かる。寒猶甚しきに至りては、特に大爐一つをめされて、某が座のうしろに置かしめらる。我が進講に當りし日に雨雪あれば、必ず御使をはせられて、出仕の事をとゞめられき。すべて講筵に臨ませ給ひし儀、春秋冬は裏打たる御上下をめされ。夏はすきたる御肩衣に、ひとへの御袴をめされて、常におはします御座をば下り給ひ、御座をさる事九尺許を隔てて、某が座を設けらる。夏熱けれども、御扇をとらせ給はず。夜ふけ蚊多けれども、逐はせられし御事もあらず。いづれの比にかありけむ。風の御心地おはしましてしきりに御はなの漏りけるにこそ、ひそかに御側にむかはせ給ひ、御ふところの紙取出し給ひて、拭はせ給ひては、こなたにむかはせ給ふ事しきりにおはしましし事のありつれ。かゝりしほどの事なれば、講に侍る事のやゝもすれば、一時には餘りぬれど、その間御前のものしづかなりし事どもおもひやるべし。また年ごとの春と秋とには、別館にわたらせ給ふ毎に御供にさぶらふべき由仰せ下され、必ず一所を點じ定められて、御使して酒菓を賜はり。あるひはまた人々に詩など作らしめ給ふ事もありき。また四時ともに、おの〳〵衣服の類賜はり。年の終りには、おの〳〵黃金白銀等を賜はりて、其の勞を慰められし事、年々にかはらず。これらの事ども、御代しろしめされし後といへども、つひにあらたまらず。それが中、儲副に立たせたまひし明のけ年の春、我には特にいろ〳〵のうつくしき絹ども賜はりて、妻子どもにあたふべしと仰せ下され、その夏に至りて、また前に同じきひとへのきぬども賜はり、またこれも妻子どもにあたふべしとて、折櫃に入りし御菓子をも、たび〳〵に給りしが。此の後はこれも年々の例となりしによりて、前代の御代をつがれし後にも、ありし御代のごとくになりたりき。此等の事は、我より外に其の例なき事どもとぞ、人々も申したりける。