折たく柴の記 / 『折たく柴の記』家宣の世子立てに馳せ参じた一言
甲申の年十二月五日に、儲副に立せ給ふと聞きて、馳せ賀し申さむため龍口のほとりに及びし時、程なく西城に入らせ給ふべしとて、道ゆく人をとゞむ。(御歩行の衆なり)某が名を稱して、參るべき事あるがためなりといひしかば、參りたまへとてゆるしぬ。藩邸に至るに、御迎の人々參りつどへり。(美濃守吉保朝臣を始めて、御供に候べき人々參れり)詮房朝臣を尋ねしに、物くひておはすと聞きて、其所に入りて賀し申す。やがてくひはてゝ、坐をたゞれしを引とゞめて、凡天下の御事においては、某此の年頃申しし所なれば、今はた申すに及ばず。只その申しし事どもを、忘れさせ給ふ事なからむには、天下の幸甚にこそ候ふべけれと此の一ことを申すべきために、馳せ參りて候ふ也。此の由を以てもらし申させ給へといひて、たちわかれぬ。後にある人の申しし事をきゝしに、いづれの比なることにかおはしましけむ、詮房朝臣にむかはせ給ひ、我はじめ西城に入らむとせし時に君美が馳せ參りていひし所をば、わすれもやする。我は日としてわするゝ事はなきものをと仰せられしとぞ。我は此の後家にのみこもり居ぬ。廿日ばかりをすぎて、ある人の參りてむかしつかへ參らせし人々、そのほど〳〵につけつゝ、おの〳〵めし出されぬ。我等が事のみ、いまだ仰せ下さるゝ旨のあらざれば、此の事を以て歎き申す人ありと聞ゆ。我も其の由を以て歎き申さむと思へば、しらせ申すなりといふ。かく告げしらせし人は、芝崎十郎右衞門なり。これは村田十郎右衞門の、詮房朝臣の舍弟につきて此の事を申し、またむかし藩邸におはしましし時に、其所より事を執り申されし人々の許にもゆきて、此の事を申す旨ありしと聞えしが故なればなり。年比つかへまゐらせし所の、かくおはしますを見奉る事、これにすぎし身の幸やあるべき。此のほかまた何事をかもとむべき。我また身不肖也といへども、さすがに今は藩邸の舊學也。禮を以て進退せむ事、これみづから重んずるがためにもあらず。いかんぞ人々のごとく、此等の事をもて申す事のあるべきと思ひしかば、御芳志のほど謝するに詞なし。されど某が事においては、存ずる所あれば、それらの事を以て、申す事あるべからずと答へぬ。わづかに一日をへだてゝ、それ月の廿六日の夜、某等が事執り申すべき由を仰せかうぶりし人々ありと告げ來れり。此の事藩邸に申しし時の目付衆、坂部といひし人より告げ來り、其の狀に見えし所、新井勘解由、村田七郎右衞門、芝崎十郎右衞門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部淸助、土肥源四郎、此等七人をば、西丸御側衆支配あるべしといふ。
新字:甲申の年十二月五日に、儲副に立せ給ふと聞きて、馳せ賀し申さむため竜口のほとりに及びし時、程なく西城に入らせ給ふべしとて、道ゆく人をとゞむ。(御歩行の衆なり)某が名を称して、参るべき事あるがためなりといひしかば、参りたまへとてゆるしぬ。藩邸に至るに、御迎の人々参りつどへり。(美濃守吉保朝臣を始めて、御供に候べき人々参れり)詮房朝臣を尋ねしに、物くひておはすと聞きて、其所に入りて賀し申す。やがてくひはてゝ、坐をたゞれしを引とゞめて、凡天下の御事においては、某此の年頃申しし所なれば、今はた申すに及ばず。只その申しし事どもを、忘れさせ給ふ事なからむには、天下の幸甚にこそ候ふべけれと此の一ことを申すべきために、馳せ参りて候ふ也。此の由を以てもらし申させ給へといひて、たちわかれぬ。後にある人の申しし事をきゝしに、いづれの比なることにかおはしましけむ、詮房朝臣にむかはせ給ひ、我はじめ西城に入らむとせし時に君美が馳せ参りていひし所をば、わすれもやする。我は日としてわするゝ事はなきものをと仰せられしとぞ。我は此の後家にのみこもり居ぬ。廿日ばかりをすぎて、ある人の参りてむかしつかへ参らせし人々、そのほど〳〵につけつゝ、おの〳〵めし出されぬ。我等が事のみ、いまだ仰せ下さるゝ旨のあらざれば、此の事を以て嘆き申す人ありと聞ゆ。我も其の由を以て嘆き申さむと思へば、しらせ申すなりといふ。かく告げしらせし人は、芝崎十郎右衛門なり。これは村田十郎右衛門の、詮房朝臣の舎弟につきて此の事を申し、またむかし藩邸におはしましし時に、其所より事を執り申されし人々の許にもゆきて、此の事を申す旨ありしと聞えしが故なればなり。年比つかへまゐらせし所の、かくおはしますを見奉る事、これにすぎし身の幸やあるべき。此のほかまた何事をかもとむべき。我また身不肖也といへども、さすがに今は藩邸の旧学也。礼を以て進退せむ事、これみづから重んずるがためにもあらず。いかんぞ人々のごとく、此等の事をもて申す事のあるべきと思ひしかば、御芳志のほど謝するに詞なし。されど某が事においては、存ずる所あれば、それらの事を以て、申す事あるべからずと答へぬ。わづかに一日をへだてゝ、それ月の廿六日の夜、某等が事執り申すべき由を仰せかうぶりし人々ありと告げ来れり。此の事藩邸に申しし時の目付衆、坂部といひし人より告げ来り、其の状に見えし所、新井勘解由、村田七郎右衛門、芝崎十郎右衛門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部清助、土肥源四郎、此等七人をば、西丸御側衆支配あるべしといふ。
書き下し
甲申の年十二月五日に、儲副に立せ給ふと聞きて、馳せ賀し申さむため龍口のほとりに及びし時、程なく西城に入らせ給ふべしとて、道ゆく人をとゞむ。(御歩行の衆なり)某が名を稱して、參るべき事あるがためなりといひしかば、參りたまへとてゆるしぬ。藩邸に至るに、御迎の人々參りつどへり。(美濃守吉保朝臣を始めて、御供に候べき人々參れり)詮房朝臣を尋ねしに、物くひておはすと聞きて、其所に入りて賀し申す。やがてくひはてゝ、坐をたゞれしを引とゞめて、凡天下の御事においては、某此の年頃申しし所なれば、今はた申すに及ばず。只その申しし事どもを、忘れさせ給ふ事なからむには、天下の幸甚にこそ候ふべけれと此の一ことを申すべきために、馳せ參りて候ふ也。此の由を以てもらし申させ給へといひて、たちわかれぬ。後にある人の申しし事をきゝしに、いづれの比なることにかおはしましけむ、詮房朝臣にむかはせ給ひ、我はじめ西城に入らむとせし時に君美が馳せ參りていひし所をば、わすれもやする。我は日としてわするゝ事はなきものをと仰せられしとぞ。我は此の後家にのみこもり居ぬ。廿日ばかりをすぎて、ある人の參りてむかしつかへ參らせし人々、そのほど〳〵につけつゝ、おの〳〵めし出されぬ。我等が事のみ、いまだ仰せ下さるゝ旨のあらざれば、此の事を以て歎き申す人ありと聞ゆ。我も其の由を以て歎き申さむと思へば、しらせ申すなりといふ。かく告げしらせし人は、芝崎十郎右衞門なり。これは村田十郎右衞門の、詮房朝臣の舍弟につきて此の事を申し、またむかし藩邸におはしましし時に、其所より事を執り申されし人々の許にもゆきて、此の事を申す旨ありしと聞えしが故なればなり。年比つかへまゐらせし所の、かくおはしますを見奉る事、これにすぎし身の幸やあるべき。此のほかまた何事をかもとむべき。我また身不肖也といへども、さすがに今は藩邸の舊學也。禮を以て進退せむ事、これみづから重んずるがためにもあらず。いかんぞ人々のごとく、此等の事をもて申す事のあるべきと思ひしかば、御芳志のほど謝するに詞なし。されど某が事においては、存ずる所あれば、それらの事を以て、申す事あるべからずと答へぬ。わづかに一日をへだてゝ、それ月の廿六日の夜、某等が事執り申すべき由を仰せかうぶりし人々ありと告げ來れり。此の事藩邸に申しし時の目付衆、坂部といひし人より告げ來り、其の狀に見えし所、新井勘解由、村田七郎右衞門、芝崎十郎右衞門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部淸助、土肥源四郎、此等七人をば、西丸御側衆支配あるべしといふ。
現代語訳
甲申の年(宝永元年)十二月五日に、(綱豊公が)将軍の世継ぎに立てられたと聞いて、馳せ参じて祝いを申し上げようと龍口のあたりに来たところ、まもなく西城にお入りになるはずだというので、道行く人を止めていた。(御歩行の衆である。)私が名を告げて、参上すべき用事があると言ったところ、お参りなさいと言って通してくれた。藩邸に着くと、お迎えの人々が参り集まっていた。(美濃守吉保朝臣をはじめ、お供に加わるはずの人々が参っていた。)詮房朝臣を尋ねると、食事をしておられると聞いて、その場に入って祝いを申し上げた。やがて食べ終わって席を立たれたのを引き止めて、「およそ天下のことについては、私がこの数年申し上げてきたことであるから、今さら申すまでもない。ただその申し上げたことどもを、お忘れになることがなければ、天下の大きな幸いでございましょう。この一言を申し上げるために、馳せ参じたのです。この旨をお伝え申し上げてください」と言って、別れた。後にある人が話すのを聞いたところ、いつのことだったか、(公が)詮房朝臣に向かわれ、「私が初めて西城に入ろうとした時に、君美が馳せ参じて言ったことを、忘れることがあろうか。私は一日として忘れることはないのだが」と仰せになったとのことである。私はこの後、家にばかり籠もっていた。二十日ほど過ぎて、ある人が参って、「昔お仕え申していた人々は、それぞれの身分に応じて、めいめい召し出された。我々のことだけは、まだ仰せ下される旨がないので、このことで嘆き申す人がいると聞こえる。私もその旨で嘆き申そうと思うので、お知らせするのである」と言う。こう告げ知らせてくれた人は、芝崎十郎右衛門である。これは村田十郎右衛門が、詮房朝臣の弟につてを求めてこのことを申し、また昔藩邸におられた時に、そこから事を取り次ぎ申していた人々のもとにも行って、このことを訴える旨があったと聞こえたからである。長年お仕えしてきた方が、このようにおなりになるのを拝見することは、これ以上の身の幸いがあろうか。このほか、また何を求めることがあろう。私は不肖の身であるとはいえ、さすがに今は藩邸の旧学者である。礼をもって進退しようとするのは、自ら重んじるためだけではない。どうして人々のように、このようなことで申し出ることがあろうかと思ったので、「御芳志のほどは感謝の言葉もありません。しかし私のことについては、考えるところがあるので、そのようなことで申し上げることはなさらないでください」と答えた。わずか一日を隔てて、その月の二十六日の夜、私どものことを取り計らうようにと仰せを受けた人々があると知らせてきた。このことは藩邸に申した時の目付衆の、坂部という人から知らせてきて、その書状に見えたところでは、新井勘解由、村田七郎右衛門、芝崎十郎右衛門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部清助、土肥源四郎、この七人を、西丸の御側衆の支配とするという。
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』西城に召され御側衆支配となる廿七日の申時ばかりに、詮房朝臣奉りて、西城へ參るべき由を仰せ下さる。やがて參りしに、仰せをうけて、むかへみちびくべき人々出でてむかへ、參るべきところにみちびく。大門の外に、小人衆をつけおかれて、中口に案内す。かしこには、山本傳阿待ち居て、某參りし由を申しければ、潛邸の侍醫にてありし、山本玄長出でむかへて、斗鷄の間にみちびきぬ。玄長は某が相識なるをしろしめされしゆゑなり。戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方等の人々出で迎へたり。(此の三人は某等が事を支配すべき由、仰せかうぶれる所なり)かくて、村田等の人々も參りし後に、(此の時芝崎と、服部淸助とは見え來らず、めされずやありけむ、詳なることをならず)詮房朝臣、小出と共に出で來て、仰せを傳へられし。事終りて人々退出す。某はしばしがほど、ここにさぶらふべき由を仰せ下さる。これは支配の人々仰せかうぶりし事、又此の後祗候すべき所等の事を仰せ下されしなり。人々罷り出でしあとにて、小出某が座に居よりてこれより後の御事共は、天下の安危にかゝらせ給ふ所也。我々が事はかねてもしり給ひし事のごとく、もとより不學無術のともがら也、たのむところは、そこのおはしますのみなり。此の事我申す迄もあらねど、心およぶ所なれば、聞え申す也と申さる。これは詮房朝臣御前に參られしあとにて、たゞひとり申されし所也。此の人いくほどもなくて、不幸にしづみて世をさりき。誠に惜むべき事なり。そののち詮房朝臣よりして、此のほどの御事ども、又年明けて講筵開かるべき事など仰せ下され、また今よりして後、參るべきやうなどの事まで仰せ下され、戌の時に至りて罷り出づ。(此の後は中の口より入りて、御臺所を經て、奧に參るべき由なり)廿九日に、元日大城拜賀の事等仰せ下さる。(此の事戸田より申し來れり。其の狀に御本丸寄合衆の次に候べしと云々)
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折たく柴の記・『折たく柴の記』禄の交渉と、甲府藩への初見参六日にまた豫州いはれし事どもありしに、其の夜我また申す旨ありしによりて、七日の朝に至りて、豫州の許に交して答へ申されき。初め我が師の心にみち給はざりし事は、祿米三十人を扶持すべき料を給はるべしとの事なりしかば、學の優劣は祿の厚薄によらざる事勿論なり。されど、世の人は祿厚ければ學優なりと思ひ、祿薄ければ、學も劣れりとおもふ事、よのつねなり。我が門にさぶらふものゝ中、かれにしかざるも、なほさほどの微祿のものはあらず。かれまたもとより、儒をもて業とせしものにもあらず。今までつかへにしたがひし祿米のほどもあるものを、のたまふ所の如くにて參らせむ事、えこそかなふまじけれとのたまふ。そののち、又、豫州來りて、のたまふ所いはれなきにあらず。さらば祿米四十人を扶持すべきほどの事は、我いかにも申しかなふべし。まづかのたまふ所にまかせて參らせられむには、その後の事は、いかにも望にまかせらるべき事にやとありしをその夜我をめして、またかくまで豫州のいひしかど、我なほおもふ所あれば、此の事いかにもかなふべからずとのたまふ。當時彼の藩邸の事、他家の事に準ずべからず。もし祿の多少を論じて、そのまねきに應せざらむには、これより後、他家の人々のまねかるゝ事ありとも、祿厚きにあらずはそれに應ずべからず。たゞしるべからざる所の事は我が命の厚薄いかにか候ふべき。同じくは、豫州の計らひにまかせらるべくや候ふと申す。答へ申さむ事遲からず。よくおもひはかるべしとありしを、我なほ申す事ありしかば、此の上はとて、つひに豫州の許に文つかはし給ひき。後にきゝしに、初め藩邸より大學頭藤信篤の弟子給はるべしと仰せられしに、信篤思ふ所やありけむ。參らすべき弟子候はずと答へ申したり。かくて我が事を聞し召し及ばれしのち、長州のはからひにて、此の年の春、みつから薦めし所の人を信篤の弟子に申しなして、さて後に我をめすべきよしはいひおこせたるなり。長州のすゝめし所は、今の舟橋半右衞門なり。其の時は吉田藤八郎と申す。もとは京の仁齋とかいひしものゝ、弟子なるを召し出されき。此の時に、大學頭の門人に申し行はれき。されば、儲副にたゝせ給ひし初に、此の人は近習にめしくはへられたりしなり。同じき十五日の夜、長州の許より、我が師に文贈りて、明日某を藩邸へ參らせらるべしとありしかば、十六日の巳時ばかりに藩邸に祇候す。戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪等の人々、我をめし出して、御家人たるべき由の仰せをば、小出傳へられき。同じき十八日、はじめて見參す。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』元日の拝賀と村田・吉田の出仕明くれば乙酉の正月元日。大城に拜賀。同じき十一日に、西城にて講筵を開かれ、そののち日講に侍りし事も、潛邸におはしまし時にかはらず。此の年四月十一日に、村田十郎右衞門吉田藤八郎二人をば小納戸衆に召し加へらる。村田はもと柳生が家臣なり。いとけなくおはしましし比、太刀打の事學ばせ給ふ時に、主の柳生が召供して參りしを、我めされし後におよび、柳生が弟子まゐらすべしと仰せられしに、此の人を參らせたる也。吉田を召し出されし事は、前にしるしゝごとくに、戸田がすゝめて、また大學頭が弟子となししなり。大學頭は、當代の御師範などいふ事にて、其の門人多くは近習にめしくはへられしによりて、戸田また吉田をすゝめむがために、村田をは推擧せし也。今の代こそはあれ。彼の人々の仰せかうぶりし事は、古の官寺の職掌にして、士君子の屑とせざる事なれど、わかき人々は、我がもとのまゝなる事の、某を禮待せさせ給ふ御心なるをばしらで、今までしたしかりしも、うとくなりしもすくなからず。わづかに十日をへだてゝ、その月の廿二日、進講訖りし後に、此所の庭の氣色興あり、市正正直に案内せさせて眺望あるべしと仰せ下されて、こかして見はてゝ歸り參りしかば、妻子共に與へよとて色々の帛五卷を賜ふ。これ妻子共に物賜ふ事の始なりき。此の時にこそ、此のほどうとかりし人々も、また來り賀しけれ。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』宅地と黄金二百両を賜り新宅へ此の年八月四日、某等が事奉るべき人をあらため命ぜらる。(此の日井上よりの狀に、某并に服部父子、土肥四人の事、若年寄衆の支配たるべき由を仰せ下さると云々)明けの年丁亥五月十九日、宅地并に屋材、家作るべき料として黃金二百兩を下し賜ふ。永井伊賀守尙平、大久保長門守敬重二人、雉子橋の外において、宅地三百五十坪を賜ふ由の仰せを傅へらる。事訖りなば、奥に參るべき由仰せ下されしかば、參りて宅地賜る事を謝し申ししに、潛邸にありし人々の家こぼたれし時に、蜂屋源八郎の家を殘し置かれしは、そこに賜ふべき事を思し召されしが故なり。今彼の家を以て下し賜ふ也。されど其家を賜ふ所の地に引移さむ事、私の力に及ぶまじければ、家引移すべき料の爲、黃金百兩を下し賜ふ由、詮房朝臣して仰せ下され、同月三十日に至りて、家造るべき用度たらずと聞しめし及ばれしによりて、また黃金百兩を下し賜はりたりき。七月廿六日、新宅に移れりと聞し召され、八月朔日に至りて、出仕すべき所の御門の事仰せ下さる。(これ出仕の道の程、遠からむ事をおぼしめされて、紅葉山下、并に裏御門より出入すべき由なり)此の月晦日。大城において散樂あり。これ家千代君御誕生御賀のためなり。若君の御外叔父太田内記と某と二人參るべき由を仰せ蒙る。これよりさき、七月十日の晩誕生の事あり。此の月の事は、永井大久保連署して仰せを傅へらる。又兼ねてより大久保仰せを奉りて、その一族大久保左京して二人を誘引せしむ。これ二人共に是等の事につきては、初參の儀なるが故也。こののちは、毎事につきての廻文に、太田と某と二人を以て充所とせらる。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』戸田と小出の盛衰と家宣の評此の比の事なり、小出と井上とあらそひいふ事あり。やがて小出は職奪はれ、すぎし比加へ賜りし所の地削られたりけり。これも戸田が正武朝臣とあひはからひ申しし事あるが故なり。初め潛邸におはしましし時、戸田は小出と同時につけられしかど、年比小出が事をよしとも思はず。井上は、其兄の河内守正岑朝臣は、當時の老なり。また右京大夫輝貞朝臣の外從兄弟なれば、少將吉保朝臣にむすぼほれたる中なり。されば讒説も行れやすき事もとより也とある人は申したりき。其の事のまことといつはりはしらねど、前にしるししごとくに、忠利朝臣は、我が出身の初めの事申執せし人なれば、其の事を忘るべきにもあらず。小出はさせるゆかりもなけれど、此の人すくよかなる所ありて、おもふ所をばのこさでいひしと聞えしが、さもありしにや、儲副にたゝせ給ひし初、我にいひしことばども思ひ出さるれ。戸田はいかにも世の事を精練して、甚機深かる人とみえしが、潛邸の御時に、朝よりとく參りつゝ、たゞひとりにて、詮房朝臣につきて、物申す事あり。又此の人につきて望み請ふ所を申すをきゝて、我は承り諾りぬ。同僚の人によく申し給へといふほどに、事なりぬるは、此の人の力によれりと思ひ、事ならざるをば、同僚の人さまたげ申しし也と、人々は思ひたりき。これらの事は、我がまさしく見聞きし所也。此の人ほどなく祿萬石に至り、位四品になられしかど、一年ばかり過ぎて、丙戌十月十五日に、職とゞめられたりけり。いかなる事にか、其の故をばしらず。御代をしろしめされし後に、前代に戸田は職とゞめられしかど、祿といひ、位といひ、其の幸すくなからず。小出が事、今に至りては、潛邸の勞に報いられむほどの御事こそあらまほしけれと申ししに、此の輩は前代の御恩淺からず、然るにむかし潛邸にありて、二人共に常に前代の御政事を、さみし申す事をのみ事とせり、共に禍にかゝれるは、其の不幸にはあらず、此の一事をもて其の人をしるべしと仰せ下されたり。これらの事、しるすべき事共にはあらねど、我が後たらむ人々、世の中のありさま、よろしくわきまへしらむ事を思ひぬれば、其の一二をこゝに註しぬ。
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『回天詩史』・致仕の命と決死・幕府の使者と致仕の宣告政府、之が為に愕然とし、僉議夜分に至る。遂に其の故を詳らかにする能わざるなり。六日の詰旦、閣老、命を中山備州に伝えて曰く、今日、幕使、邸に就きて旨を両君に伝えんと。是に於いて挙邸、皆公の致仕と世子の襲封とを卜するも、未だ何人の来たりて旨を伝うるかを詳らかにせず。巳の牌を過ぎ、閣老又命を備州に伝えて曰く、水戸殿に使いする者は、則ち松平讃岐守・松平大学頭・松平播磨守。鶴千代麻呂殿に使いする者は、則ち阿部伊勢守・牧野備前守と。且つ曰く、公は讃州等に見ゆるを須いず。又送迎を煩わす勿れ。家老中山備州、興津能州等、命を受け、諸を公に告げ、公の言を以て讃州等に伝えて可なりと。午の牌、三侯俱に来たる。元老・執政、之を対面所に延き、命を受く。則ち曰く、公は近年政事粛ならず、且つ驕慢自ら用い、嫌疑を憚らず。大将軍懌ばず。公、其れ致仕して駒籠邸に移り、堅く門戸を閉じて謹まざる有る勿れ。若し其れ襲封せば、則ち世子に命ずと云う。俄頃にして勢州・備州も亦俱に来たる。世子、送迎すること礼の如し。備州の班は勢州の下に在り。是の日、其の直月を以て勢州に先んじて坐す。旨を世子に伝う。其の辞命は公に命ずる所と大同小異なり。二人、使事を畢えて去る。時に世子、年僅かに十三。坐作進退、綽然として観るべし。群臣、悲喜交〻至り、一邸粛然たり。既にして公、彪を燕室に召して曰く、寡人既に命を受けたり。有司用事の者、譴責を得ざるや。彪対えて曰く、有司も亦譴を蒙ること必せり。他人は則ち知らず。彪は叨りに虚名を竊み、決して免れざるを知る。仮使い幕府の網、舟を呑むを泄らすとも、彪、何の面目ありて復た碌碌として世に立たんやと。公曰く、然らば則ち汝将に奈何せんとするや。彪曰く、誠に脱然として致仕するを獲、以て老公に寂寞の浜に従わば、則ち志願足れりと。公曰く、寡人も亦汝の心事を了せり。寡人、将に今夕を以て汝に致仕を命ぜんとす。汝其れ待て。