折たく柴の記 / 『折たく柴の記』書目の下問と汲古閣六経の下賜
乙亥の年、秋の末に、常に御側にさし置かれて御覽じつべき倭漢の書の目、しるしまゐらすべき由仰せ下されたり。我が師にて候ふ者と、あひはからひてこそ、申すべけれと對へまゐらせて、師たる人に問ひてのちに、書目をまゐらせしかば、それらの書ども、購ひ求めてまゐらすべしとあり。こゝかしこもとめ出して、倭漢の書百數十部を奉れり。十二月廿一日に、侍講の者二人をめされて、倭漢の書、二百部ばかりの書目しるし出されて、おの〳〵賜らむとおもふ書目に、點してまゐらすべしと仰せ下さる。これは今まで御側に閣かれし所のものどもなり。二人たがひに相讓りて後、ひとりの點せし所、三つが二つばかりに及べり某その殘る所を見て、此等の書、某が家藏にあるものも侍り。また近習の人々にわかち賜はらむに、皆然るべきものどもなりと申して、我が點せし所わづかに十一部に過ぎず。おの〳〵其の望む所に任せらる、よし仰せ下され、某はしばらくさぶらふべしと仰せ下されて、年比御自愛の物なり。汝の子息に相傳ふべしと仰せ下され六經の書を下し賜る。此の時仰せの事どもを傳へられしは、今の越前守藤詮房朝臣、いまだ宮内と申しし時の事なり。賜はりし所の六經は、汲古閣の善本にて、裝潢并に書匣鎖鑰等善盡し美盡しし所、猶今も家にある者これなり。今ひとりの賜はりし所は、いくほどなくして、災火のためにこと〳〵く焼けうせしといふ。惜むべき事にてあるなり。
新字:乙亥の年、秋の末に、常に御側にさし置かれて御覧じつべき倭漢の書の目、しるしまゐらすべき由仰せ下されたり。我が師にて候ふ者と、あひはからひてこそ、申すべけれと対へまゐらせて、師たる人に問ひてのちに、書目をまゐらせしかば、それらの書ども、購ひ求めてまゐらすべしとあり。こゝかしこもとめ出して、倭漢の書百数十部を奉れり。十二月廿一日に、侍講の者二人をめされて、倭漢の書、二百部ばかりの書目しるし出されて、おの〳〵賜らむとおもふ書目に、点してまゐらすべしと仰せ下さる。これは今まで御側に閣かれし所のものどもなり。二人たがひに相譲りて後、ひとりの点せし所、三つが二つばかりに及べり某その残る所を見て、此等の書、某が家蔵にあるものも侍り。また近習の人々にわかち賜はらむに、皆然るべきものどもなりと申して、我が点せし所わづかに十一部に過ぎず。おの〳〵其の望む所に任せらる、よし仰せ下され、某はしばらくさぶらふべしと仰せ下されて、年比御自愛の物なり。汝の子息に相伝ふべしと仰せ下され六経の書を下し賜る。此の時仰せの事どもを伝へられしは、今の越前守藤詮房朝臣、いまだ宮内と申しし時の事なり。賜はりし所の六経は、汲古閣の善本にて、装潢并に書匣鎖鑰等善尽し美尽しし所、猶今も家にある者これなり。今ひとりの賜はりし所は、いくほどなくして、災火のためにこと〳〵く焼けうせしといふ。惜むべき事にてあるなり。
書き下し
乙亥の年、秋の末に、常に御側にさし置かれて御覽じつべき倭漢の書の目、しるしまゐらすべき由仰せ下されたり。我が師にて候ふ者と、あひはからひてこそ、申すべけれと對へまゐらせて、師たる人に問ひてのちに、書目をまゐらせしかば、それらの書ども、購ひ求めてまゐらすべしとあり。こゝかしこもとめ出して、倭漢の書百數十部を奉れり。十二月廿一日に、侍講の者二人をめされて、倭漢の書、二百部ばかりの書目しるし出されて、おの〳〵賜らむとおもふ書目に、點してまゐらすべしと仰せ下さる。これは今まで御側に閣かれし所のものどもなり。二人たがひに相讓りて後、ひとりの點せし所、三つが二つばかりに及べり某その殘る所を見て、此等の書、某が家藏にあるものも侍り。また近習の人々にわかち賜はらむに、皆然るべきものどもなりと申して、我が點せし所わづかに十一部に過ぎず。おの〳〵其の望む所に任せらる、よし仰せ下され、某はしばらくさぶらふべしと仰せ下されて、年比御自愛の物なり。汝の子息に相傳ふべしと仰せ下され六經の書を下し賜る。此の時仰せの事どもを傳へられしは、今の越前守藤詮房朝臣、いまだ宮内と申しし時の事なり。賜はりし所の六經は、汲古閣の善本にて、裝潢并に書匣鎖鑰等善盡し美盡しし所、猶今も家にある者これなり。今ひとりの賜はりし所は、いくほどなくして、災火のためにこと〳〵く焼けうせしといふ。惜むべき事にてあるなり。
現代語訳
乙亥の年の秋の末に、いつも御側に置いてご覧になるべき日本・中国の書の目録を、記して差し上げよと仰せ下された。私の師である者と相談してから申し上げましょうとお答えして、師である人に問うたのちに書目を差し上げたところ、それらの書を買い求めて差し上げよとの仰せがあった。あちこち探し求めて、日本・中国の書百数十部を献上した。十二月二十一日に、侍講の者二人をお召しになり、日本・中国の書、二百部ほどの書目を記し出されて、それぞれ頂戴したいと思う書に点(印)をつけて差し出せと仰せになった。これらは今まで御側に置かれていた物である。二人は互いに譲り合ったあと、ひとりが点をつけたものは、三つのうち二つほどに及んだ。私はその残りを見て、これらの書は、私の家蔵にあるものもございます。また近習の人々に分け賜るにも、皆ふさわしいものでございますと申して、私が点をつけたものはわずか十一部に過ぎなかった。それぞれの望むところに任せる、との仰せがあり、私にはしばらく控えておれと仰せられて、年来ご愛蔵の物である、お前の子息に代々伝えよと仰せられて、六経の書を下された。このとき仰せのことを伝えられたのは、今の越前守詮房朝臣が、まだ宮内と申していた時のことである。賜った六経は汲古閣の善本で、装潢(装丁)ならびに書匣・鎖鑰(書箱と錠前)などが善美を尽くしたもので、今も家にあるのがこれである。もう一人が賜った書は、ほどなくして、火災のためことごとく焼け失せたという。惜しむべきことである。
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』塗籠の書物を穴に埋めた夜明けの日、藩邸に參りしに、殿屋こと〴〵くかたぶきたれば、東の馬場に、假屋うたせ給ひておはします。地なほしきりにふるひぬれば、必ず火起りぬべしとおもふに、我ぬりごめのかたぶくまではなけれど。壁の所々くづれ落ちしあまたあれば、くづれしつち、水にひたして、そのやぶれを修め塗らしむ。おもひし事のごとくに、同じき廿九日の夜に入りて火起れり。資財こと〴〵くぬりごめに納めしかとおもふに、地ふるふ事やまず。ぬりごめ倒れむ事もはかるべからず。また修め塗りし所の土、いまだ乾かず、火勢さかりにして、新舊の土の間ひらけなば、內に火の入らむ事もはかりがたく。やがてそのほとりの地に坑鑿せて、賜はりし所の書ども、また手づから抄錄せしものども。ぬりごめよりとり出して、かの坑の中にいれ。疊六七帖その上にならべ置き土厚くきりかけて、家を出づ。こゝかしこにて、火のために道を逃られて、火勢やゝ衰へし時に。その燒けすぎしあとの道を經て、家に歸りて見るに。かの書を埋みし坑に近き岸の上なる家のやけ落ちたるが、火未消えずぞありける。しきりに水をそゝぎて、火を打消して、やけたる家の柱などとりのけて見しに、其の家の落ちぬる時に、かの埋みし所の土をばうち散らして、上に重ねし疊の燒けうせ、下なる疊に火すでにつきし程に歸り來りけるなり。ぬりごめは思ひしに似ず、たふれもせず、やけもうせず。さらばはじめ坑うがち、書をさめし事は、徒に力を勞せしなりけり、といひてわらひぬ。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』詩経から通鑑綱目へ進講の計画廿二日、初めて大學の書を進講しつ。」明くれば甲戌の正月の初。仰せ下されしは、これよりさき、四書を講せしめられし事凡三遍、小學近思錄等の書各一遍。されど、いまだ聖人の道、いかにといふ事を明らかにせず。これより後、いかに學び給ふべきか。はからひ申すべしとの御事也。その對へ申しし事ども、その大要はいにしへの聖人、脩己ヲ治人ヲの道、四子の書に備はれり。これを躬に行ひ、心に得べき事、他に求むべからず。しかれども、聖人の大經大法その詳なる事をしろしめされむには、五經の書を兼ね學ばせ給ふべきか春秋猶富み給ふ事なれば、おこたらせ給ふ事なからむには、其の功の終らむこと遠きにもあるべからずと申す。さらばまづ詩禮より始めらるべしとて、侍講のもの二人に、日講の事を仰せ下されて、詩を進講すべき事は某に仰せ下さる。(禮記は吉田して講ぜしめらる)此の時に、我が長女疱瘡をうれひて、二月朔日に至りて死し、明卿また其の疱瘡をうれふ。」此等の事によりて、同じき月十三日、始めて詩經の講筵を開かる。此の年十一月廿日に至りて、某講に侍る事、凡百六十二日にして功終りぬ草木鳥獸等のごときは、畫師して圖せしめ、かねてまゐらせしかば、これらの事を講ずるにも便ありき。其の圖は猶今我が家にある者也。此の後書を以て進講すべき事を仰せ下され、また此の事すでに日ごとに講筵に臨まれしといへども、餘暇猶おはします。三代より以下、歷世治亂興亡の事をも、兼ね聞し召されむ事いかゝあるべきと仰せ下さる。仰せ下さるゝ所、誠に斯道の大幸なり。さらば司馬氏ノ資治通鑑。朱子ノ通鑑綱目の間を以て、兼ね學ばせ給ふべき御事かと對へ申しかは。通鑑綱目の書を兼ね學ぶべし。某また進講すべき由を仰せ下さる。明れば乙亥の年正月廿四日、書經の講筵を開かれ。同じき廿八日、通鑑綱目の講筵を開かる。此の年書を講ずること凡七十一日、十二月二十一日に至りて功就る。此の後某に春秋を講ずべき由を仰せ下さる。この年また禮記の功終らせ給ひしかば、周易を講ぜしめらるべしと聞ゆ。丙子の年正月廿六日、春秋の講筵を開かれ、左氏、公羊、穀梁、胡氏等の四傳をあはせ講ぜしめらる。通鑑綱目を兼ね講ずる事前のごとし。春秋の講は凡六年を經て、辛巳の年十二月十九日に至り、講に侍る事凡百五十七日にして功終れり。これより後、通鑑綱目の講、年々におこたらせ給はず。其の前編功終るに及びて、かくれさせ給ひたりける。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』藩翰譜の撰進と十九年の進講つねに進講終りぬれば、座を賜りて、倭漢の故事等問はせ給ふ事もおはします。就中、祖宗開闢の時の御事に至りては、特に御心を深くし給ひしほどに。書經の講終りし庚辰の年二月十一日に、國初より此のかた、その封祿萬石以上の人々の事ども、進講の暇あらむをり〳〵に、いかにもしるしてまゐらせよかしなど仰せられしに、明けの年、辛巳の正月十一日に、その事を以て仰せ下さる。同じき十四日に、まづ其の書を撰ぶべき凡例をしるしてまゐらす。しかるべき由を仰せ下されしかば、これより諸家の事ども、たづねきはめて、七月十一日に至りて草を起し、十月に至りて稿を脫す。事は慶長五年に始まりて、延寶八年に至るまで、八十年の間、始封襲封及び廢除等、凡三百三十七家。その書たる正編十卷、附錄二卷、凡例目錄共に一卷、通計十三卷を、分ちて二十冊となし自から淨書功終りぬれば、明くる壬午の二月十九日に進呈す。これよりまた書の名をば、御みづから撰び給ひて、藩翰譜とぞ題せらるゝ。此の外仰せによりて、二三冊ばかりの書ども撰呈せる事猶多し。ことごとくしるすにいとまあらず。はじめ某仰せを奉りて、詩を講ぜしめられしより此のかた、年ごとに四書ならびに孝經周禮儀禮等の書を兼ね講ぜしめられし事、御代しろしめされし後に、御使を奉りて上洛し。また朝鮮の聘事を奉りしほどを除くの外、十九年の間、某講筵に侍る事、凡一千二百九十九日なり。某が外、日講侍讀等の事を奉りしもの三人、おの〳〵經筵に侍る事も、またかくぞ有るべき。されば、經史諸子の書等、大かたは殘る所なくぞ通曉せさせ給ひたりける。倭漢古今の間、かく迄に學の道好ませ給ひし御事をば、いまだ聞き及びにし所にあらず。周易の日講功終りし後は、大學衍義の書を講ぜしめらる。これもかくれ給ひしころ迄に、正補共に功終り給ひたりき。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』宅地と黄金二百両を賜り新宅へ此の年八月四日、某等が事奉るべき人をあらため命ぜらる。(此の日井上よりの狀に、某并に服部父子、土肥四人の事、若年寄衆の支配たるべき由を仰せ下さると云々)明けの年丁亥五月十九日、宅地并に屋材、家作るべき料として黃金二百兩を下し賜ふ。永井伊賀守尙平、大久保長門守敬重二人、雉子橋の外において、宅地三百五十坪を賜ふ由の仰せを傅へらる。事訖りなば、奥に參るべき由仰せ下されしかば、參りて宅地賜る事を謝し申ししに、潛邸にありし人々の家こぼたれし時に、蜂屋源八郎の家を殘し置かれしは、そこに賜ふべき事を思し召されしが故なり。今彼の家を以て下し賜ふ也。されど其家を賜ふ所の地に引移さむ事、私の力に及ぶまじければ、家引移すべき料の爲、黃金百兩を下し賜ふ由、詮房朝臣して仰せ下され、同月三十日に至りて、家造るべき用度たらずと聞しめし及ばれしによりて、また黃金百兩を下し賜はりたりき。七月廿六日、新宅に移れりと聞し召され、八月朔日に至りて、出仕すべき所の御門の事仰せ下さる。(これ出仕の道の程、遠からむ事をおぼしめされて、紅葉山下、并に裏御門より出入すべき由なり)此の月晦日。大城において散樂あり。これ家千代君御誕生御賀のためなり。若君の御外叔父太田内記と某と二人參るべき由を仰せ蒙る。これよりさき、七月十日の晩誕生の事あり。此の月の事は、永井大久保連署して仰せを傅へらる。又兼ねてより大久保仰せを奉りて、その一族大久保左京して二人を誘引せしむ。これ二人共に是等の事につきては、初參の儀なるが故也。こののちは、毎事につきての廻文に、太田と某と二人を以て充所とせらる。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』火災見舞金と紺糸縅の鎧、師の死明けぬれば、丙子の年の正月の初に宴を開きて、我が師なる人に、かの特賜の書みせまゐらせしかば、序作りてたぶ。其の一年をへだてゝ、戊寅の九月二日。災火のために、我が家もやけぬと聞し召して、同じき九日に、黃金五十兩を下し賜れり。(これは假屋うつべきための料とすべき由の仰せなりき。)此の時御家人の中、災にかゝれる人々も多かる中に、かゝる賜物ある事は、特恩に出でし所なりき。されど、此の事なからむにも、我のみひとり屋舍造り、什器作り出す事、かなふまじきにもあらず。たとひまた賜ひしところを以て、それらつくらむ用に充てなむにも、此所火災しば〳〵行はれぬれば、又燒け失することもあらむには、此の恩も終に空しくなりぬべし。いかさまにもはからふべき事こそあるべけれとおもひめぐらして、やがて彼の賜物を以て新たに鎧二領を縅さしむ。今の紺絲縅の鎧同じ毛のかぶとに、鍬形うちし物これなり。これ死をもて、朝恩に報いまゐらせむ時、用ふべきがためなり。我が後たらむものは、よく〳〵此の旨を存じて、此の鎧と、後に賜はりし所の御太刀とをば、嫡流の家に傳ふべき事なり。そののち五年を隔てゝ、元祿十六癸未の年の十一月火災にかゝりし時、果してまた我が屋舍等やけ失せしかども、此の鎧をば常に身にしたがへし程に、今も猶のこれり。我が師なりし人は、初め火災にあひし戊寅の年十二月廿三日の夜に、終り給ひたり。遺言によりて葬儀等の事をば、はかり申ししなり。これ元祿十一年の事にて、南紀の榊原玄輔と、二人遺言によりて、葬儀等の事、とりはかりたりき。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』講筵の作法と春秋の礼遇毎年正月の初に、講筵を開かるゝの儀あり。かねてより講章を奉らしめ給ひ、其の日講訖りぬれば、時服二領を賜はる事、つひにかはらず。此の儀は、年の初の御事なれば、大雅の中、めでたき詩を撰びて、進講すること例とはなりき。はじめ藩邸におはしましより。御代をしらせ給ふ後に至りて、歳の初に講筵を開かれしのちに、月の十五日を過ぎて、日講初まり十二月の末にいたるまで、大故おはします事の外は、朔望はいふに及はず。四時佳節の日といへども、日講をとゞめられし御事はあらず。我が身の病多くなりて、大暑大寒に堪へざる事をしろしめされしより後は、暑甚しき時には日沒りて後に參るべしと仰せ下されて、進講は夜に及ぶ。天寒き日には進講は晝の間にして、御座と某との間に、大火爐を一つ設け置かる。寒猶甚しきに至りては、特に大爐一つをめされて、某が座のうしろに置かしめらる。我が進講に當りし日に雨雪あれば、必ず御使をはせられて、出仕の事をとゞめられき。すべて講筵に臨ませ給ひし儀、春秋冬は裏打たる御上下をめされ。夏はすきたる御肩衣に、ひとへの御袴をめされて、常におはします御座をば下り給ひ、御座をさる事九尺許を隔てて、某が座を設けらる。夏熱けれども、御扇をとらせ給はず。夜ふけ蚊多けれども、逐はせられし御事もあらず。いづれの比にかありけむ。風の御心地おはしましてしきりに御はなの漏りけるにこそ、ひそかに御側にむかはせ給ひ、御ふところの紙取出し給ひて、拭はせ給ひては、こなたにむかはせ給ふ事しきりにおはしましし事のありつれ。かゝりしほどの事なれば、講に侍る事のやゝもすれば、一時には餘りぬれど、その間御前のものしづかなりし事どもおもひやるべし。また年ごとの春と秋とには、別館にわたらせ給ふ毎に御供にさぶらふべき由仰せ下され、必ず一所を點じ定められて、御使して酒菓を賜はり。あるひはまた人々に詩など作らしめ給ふ事もありき。また四時ともに、おの〳〵衣服の類賜はり。年の終りには、おの〳〵黃金白銀等を賜はりて、其の勞を慰められし事、年々にかはらず。これらの事ども、御代しろしめされし後といへども、つひにあらたまらず。それが中、儲副に立たせたまひし明のけ年の春、我には特にいろ〳〵のうつくしき絹ども賜はりて、妻子どもにあたふべしと仰せ下され、その夏に至りて、また前に同じきひとへのきぬども賜はり、またこれも妻子どもにあたふべしとて、折櫃に入りし御菓子をも、たび〳〵に給りしが。此の後はこれも年々の例となりしによりて、前代の御代をつがれし後にも、ありし御代のごとくになりたりき。此等の事は、我より外に其の例なき事どもとぞ、人々も申したりける。