折たく柴の記 / 『折たく柴の記』講筵の作法と春秋の礼遇
毎年正月の初に、講筵を開かるゝの儀あり。かねてより講章を奉らしめ給ひ、其の日講訖りぬれば、時服二領を賜はる事、つひにかはらず。此の儀は、年の初の御事なれば、大雅の中、めでたき詩を撰びて、進講すること例とはなりき。はじめ藩邸におはしましより。御代をしらせ給ふ後に至りて、歳の初に講筵を開かれしのちに、月の十五日を過ぎて、日講初まり十二月の末にいたるまで、大故おはします事の外は、朔望はいふに及はず。四時佳節の日といへども、日講をとゞめられし御事はあらず。我が身の病多くなりて、大暑大寒に堪へざる事をしろしめされしより後は、暑甚しき時には日沒りて後に參るべしと仰せ下されて、進講は夜に及ぶ。天寒き日には進講は晝の間にして、御座と某との間に、大火爐を一つ設け置かる。寒猶甚しきに至りては、特に大爐一つをめされて、某が座のうしろに置かしめらる。我が進講に當りし日に雨雪あれば、必ず御使をはせられて、出仕の事をとゞめられき。すべて講筵に臨ませ給ひし儀、春秋冬は裏打たる御上下をめされ。夏はすきたる御肩衣に、ひとへの御袴をめされて、常におはします御座をば下り給ひ、御座をさる事九尺許を隔てて、某が座を設けらる。夏熱けれども、御扇をとらせ給はず。夜ふけ蚊多けれども、逐はせられし御事もあらず。いづれの比にかありけむ。風の御心地おはしましてしきりに御はなの漏りけるにこそ、ひそかに御側にむかはせ給ひ、御ふところの紙取出し給ひて、拭はせ給ひては、こなたにむかはせ給ふ事しきりにおはしましし事のありつれ。かゝりしほどの事なれば、講に侍る事のやゝもすれば、一時には餘りぬれど、その間御前のものしづかなりし事どもおもひやるべし。また年ごとの春と秋とには、別館にわたらせ給ふ毎に御供にさぶらふべき由仰せ下され、必ず一所を點じ定められて、御使して酒菓を賜はり。あるひはまた人々に詩など作らしめ給ふ事もありき。また四時ともに、おの〳〵衣服の類賜はり。年の終りには、おの〳〵黃金白銀等を賜はりて、其の勞を慰められし事、年々にかはらず。これらの事ども、御代しろしめされし後といへども、つひにあらたまらず。それが中、儲副に立たせたまひし明のけ年の春、我には特にいろ〳〵のうつくしき絹ども賜はりて、妻子どもにあたふべしと仰せ下され、その夏に至りて、また前に同じきひとへのきぬども賜はり、またこれも妻子どもにあたふべしとて、折櫃に入りし御菓子をも、たび〳〵に給りしが。此の後はこれも年々の例となりしによりて、前代の御代をつがれし後にも、ありし御代のごとくになりたりき。此等の事は、我より外に其の例なき事どもとぞ、人々も申したりける。
新字:毎年正月の初に、講筵を開かるゝの儀あり。かねてより講章を奉らしめ給ひ、其の日講訖りぬれば、時服二領を賜はる事、つひにかはらず。此の儀は、年の初の御事なれば、大雅の中、めでたき詩を撰びて、進講すること例とはなりき。はじめ藩邸におはしましより。御代をしらせ給ふ後に至りて、歳の初に講筵を開かれしのちに、月の十五日を過ぎて、日講初まり十二月の末にいたるまで、大故おはします事の外は、朔望はいふに及はず。四時佳節の日といへども、日講をとゞめられし御事はあらず。我が身の病多くなりて、大暑大寒に堪へざる事をしろしめされしより後は、暑甚しき時には日没りて後に参るべしと仰せ下されて、進講は夜に及ぶ。天寒き日には進講は昼の間にして、御座と某との間に、大火炉を一つ設け置かる。寒猶甚しきに至りては、特に大炉一つをめされて、某が座のうしろに置かしめらる。我が進講に当りし日に雨雪あれば、必ず御使をはせられて、出仕の事をとゞめられき。すべて講筵に臨ませ給ひし儀、春秋冬は裏打たる御上下をめされ。夏はすきたる御肩衣に、ひとへの御袴をめされて、常におはします御座をば下り給ひ、御座をさる事九尺許を隔てて、某が座を設けらる。夏熱けれども、御扇をとらせ給はず。夜ふけ蚊多けれども、逐はせられし御事もあらず。いづれの比にかありけむ。風の御心地おはしましてしきりに御はなの漏りけるにこそ、ひそかに御側にむかはせ給ひ、御ふところの紙取出し給ひて、拭はせ給ひては、こなたにむかはせ給ふ事しきりにおはしましし事のありつれ。かゝりしほどの事なれば、講に侍る事のやゝもすれば、一時には余りぬれど、その間御前のものしづかなりし事どもおもひやるべし。また年ごとの春と秋とには、別館にわたらせ給ふ毎に御供にさぶらふべき由仰せ下され、必ず一所を点じ定められて、御使して酒菓を賜はり。あるひはまた人々に詩など作らしめ給ふ事もありき。また四時ともに、おの〳〵衣服の類賜はり。年の終りには、おの〳〵黄金白銀等を賜はりて、其の労を慰められし事、年々にかはらず。これらの事ども、御代しろしめされし後といへども、つひにあらたまらず。それが中、儲副に立たせたまひし明のけ年の春、我には特にいろ〳〵のうつくしき絹ども賜はりて、妻子どもにあたふべしと仰せ下され、その夏に至りて、また前に同じきひとへのきぬども賜はり、またこれも妻子どもにあたふべしとて、折櫃に入りし御菓子をも、たび〳〵に給りしが。此の後はこれも年々の例となりしによりて、前代の御代をつがれし後にも、ありし御代のごとくになりたりき。此等の事は、我より外に其の例なき事どもとぞ、人々も申したりける。
書き下し
毎年正月の初に、講筵を開かるゝの儀あり。かねてより講章を奉らしめ給ひ、其の日講訖りぬれば、時服二領を賜はる事、つひにかはらず。此の儀は、年の初の御事なれば、大雅の中、めでたき詩を撰びて、進講すること例とはなりき。はじめ藩邸におはしましより。御代をしらせ給ふ後に至りて、歳の初に講筵を開かれしのちに、月の十五日を過ぎて、日講初まり十二月の末にいたるまで、大故おはします事の外は、朔望はいふに及はず。四時佳節の日といへども、日講をとゞめられし御事はあらず。我が身の病多くなりて、大暑大寒に堪へざる事をしろしめされしより後は、暑甚しき時には日沒りて後に參るべしと仰せ下されて、進講は夜に及ぶ。天寒き日には進講は晝の間にして、御座と某との間に、大火爐を一つ設け置かる。寒猶甚しきに至りては、特に大爐一つをめされて、某が座のうしろに置かしめらる。我が進講に當りし日に雨雪あれば、必ず御使をはせられて、出仕の事をとゞめられき。すべて講筵に臨ませ給ひし儀、春秋冬は裏打たる御上下をめされ。夏はすきたる御肩衣に、ひとへの御袴をめされて、常におはします御座をば下り給ひ、御座をさる事九尺許を隔てて、某が座を設けらる。夏熱けれども、御扇をとらせ給はず。夜ふけ蚊多けれども、逐はせられし御事もあらず。いづれの比にかありけむ。風の御心地おはしましてしきりに御はなの漏りけるにこそ、ひそかに御側にむかはせ給ひ、御ふところの紙取出し給ひて、拭はせ給ひては、こなたにむかはせ給ふ事しきりにおはしましし事のありつれ。かゝりしほどの事なれば、講に侍る事のやゝもすれば、一時には餘りぬれど、その間御前のものしづかなりし事どもおもひやるべし。また年ごとの春と秋とには、別館にわたらせ給ふ毎に御供にさぶらふべき由仰せ下され、必ず一所を點じ定められて、御使して酒菓を賜はり。あるひはまた人々に詩など作らしめ給ふ事もありき。また四時ともに、おの〳〵衣服の類賜はり。年の終りには、おの〳〵黃金白銀等を賜はりて、其の勞を慰められし事、年々にかはらず。これらの事ども、御代しろしめされし後といへども、つひにあらたまらず。それが中、儲副に立たせたまひし明のけ年の春、我には特にいろ〳〵のうつくしき絹ども賜はりて、妻子どもにあたふべしと仰せ下され、その夏に至りて、また前に同じきひとへのきぬども賜はり、またこれも妻子どもにあたふべしとて、折櫃に入りし御菓子をも、たび〳〵に給りしが。此の後はこれも年々の例となりしによりて、前代の御代をつがれし後にも、ありし御代のごとくになりたりき。此等の事は、我より外に其の例なき事どもとぞ、人々も申したりける。
現代語訳
毎年正月の初めに、講筵を開かれる儀式がある。前もって講章を差し上げさせ、その日に講義が終わると、時服二領を賜ることは、ついに変わらなかった。この儀式は年の初めのことなので、大雅の中のめでたい詩を選んで進講することが例となっていた。はじめ藩邸にいらっしゃった時から、御代を治められた後に至るまで、年の初めに講筵を開かれたのちは、その月の十五日を過ぎて日講が始まり、十二月の末に至るまで、大きな不幸のある場合を除き、朔望(一日・十五日)はいうまでもなく、四季の佳節の日であっても、日講をお止めになったことはない。私の身が病みがちになり、大暑・大寒に堪えられないことをお知りになってからは、暑さのひどい時は日が沈んでから参れと仰せになって、進講は夜に及んだ。寒い日には進講は昼の間にして、御座と私との間に大火鉢をひとつ置かれた。寒さがなお甚だしい時には、特に大きな火鉢をもうひとつお取り寄せになって、私の座の後ろに置かせられた。私の進講の当番の日に雨や雪があれば、必ず御使いをよこして、出仕をお止めになった。すべて講筵にお臨みになる儀礼は、春・秋・冬は裏のついた上下をお召しになり、夏は透けた肩衣に単の袴をお召しになって、いつもいらっしゃる御座を下り、御座を九尺ほど隔てたところに、私の座を設けられた。夏の暑いときにも、扇をお取りにならない。夜がふけて蚊が多くても、追い払われることもなかった。いつの頃であったか、風邪気味でしきりに鼻水が出られた時にも、ひそかに脇の方に向かわれ、懐の紙を取り出して拭われては、こちらに向き直られることがしきりにあった。このような様子であったので、講義に侍る時間はともすれば一時(約二時間)を超えることもあったが、その間、御前が静かであったことを思いやってほしい。また毎年の春と秋には、別館にお出ましになるたびにお供に侍るようにと仰せになり、必ず一か所を指定されて、御使いをもって酒や菓子を賜った。あるいはまた人々に詩などを作らせられることもあった。また四季ともに、それぞれ衣服の類を賜り、年の終わりには、それぞれ黄金・白銀などを賜って、その労をねぎらわれたことは、年々変わらなかった。これらのことは、御代を治められた後になっても、ついに改まらなかった。そのなかでも、世子にお立ちになった翌年の春、私には特にさまざまの美しい絹を賜って、妻子たちに与えよと仰せになり、その夏になって、また前と同じ単の衣を賜り、またこれも妻子たちに与えよとのことで、折櫃に入った菓子もたびたび賜った。この後はこれも年々の例となったので、先代の将軍職をお継ぎになった後にも、以前の御代と同じようになった。これらのことは、私のほかには例のないことであると、人々も申していた。
解説

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