折たく柴の記 / 『折たく柴の記』藩翰譜の撰進と十九年の進講
つねに進講終りぬれば、座を賜りて、倭漢の故事等問はせ給ふ事もおはします。就中、祖宗開闢の時の御事に至りては、特に御心を深くし給ひしほどに。書經の講終りし庚辰の年二月十一日に、國初より此のかた、その封祿萬石以上の人々の事ども、進講の暇あらむをり〳〵に、いかにもしるしてまゐらせよかしなど仰せられしに、明けの年、辛巳の正月十一日に、その事を以て仰せ下さる。同じき十四日に、まづ其の書を撰ぶべき凡例をしるしてまゐらす。しかるべき由を仰せ下されしかば、これより諸家の事ども、たづねきはめて、七月十一日に至りて草を起し、十月に至りて稿を脫す。事は慶長五年に始まりて、延寶八年に至るまで、八十年の間、始封襲封及び廢除等、凡三百三十七家。その書たる正編十卷、附錄二卷、凡例目錄共に一卷、通計十三卷を、分ちて二十冊となし自から淨書功終りぬれば、明くる壬午の二月十九日に進呈す。これよりまた書の名をば、御みづから撰び給ひて、藩翰譜とぞ題せらるゝ。此の外仰せによりて、二三冊ばかりの書ども撰呈せる事猶多し。ことごとくしるすにいとまあらず。はじめ某仰せを奉りて、詩を講ぜしめられしより此のかた、年ごとに四書ならびに孝經周禮儀禮等の書を兼ね講ぜしめられし事、御代しろしめされし後に、御使を奉りて上洛し。また朝鮮の聘事を奉りしほどを除くの外、十九年の間、某講筵に侍る事、凡一千二百九十九日なり。某が外、日講侍讀等の事を奉りしもの三人、おの〳〵經筵に侍る事も、またかくぞ有るべき。されば、經史諸子の書等、大かたは殘る所なくぞ通曉せさせ給ひたりける。倭漢古今の間、かく迄に學の道好ませ給ひし御事をば、いまだ聞き及びにし所にあらず。周易の日講功終りし後は、大學衍義の書を講ぜしめらる。これもかくれ給ひしころ迄に、正補共に功終り給ひたりき。
新字:つねに進講終りぬれば、座を賜りて、倭漢の故事等問はせ給ふ事もおはします。就中、祖宗開闢の時の御事に至りては、特に御心を深くし給ひしほどに。書経の講終りし庚辰の年二月十一日に、国初より此のかた、その封禄万石以上の人々の事ども、進講の暇あらむをり〳〵に、いかにもしるしてまゐらせよかしなど仰せられしに、明けの年、辛巳の正月十一日に、その事を以て仰せ下さる。同じき十四日に、まづ其の書を撰ぶべき凡例をしるしてまゐらす。しかるべき由を仰せ下されしかば、これより諸家の事ども、たづねきはめて、七月十一日に至りて草を起し、十月に至りて稿を脱す。事は慶長五年に始まりて、延宝八年に至るまで、八十年の間、始封襲封及び廃除等、凡三百三十七家。その書たる正編十巻、附録二巻、凡例目録共に一巻、通計十三巻を、分ちて二十冊となし自から浄書功終りぬれば、明くる壬午の二月十九日に進呈す。これよりまた書の名をば、御みづから撰び給ひて、藩翰譜とぞ題せらるゝ。此の外仰せによりて、二三冊ばかりの書ども撰呈せる事猶多し。ことごとくしるすにいとまあらず。はじめ某仰せを奉りて、詩を講ぜしめられしより此のかた、年ごとに四書ならびに孝経周礼儀礼等の書を兼ね講ぜしめられし事、御代しろしめされし後に、御使を奉りて上洛し。また朝鮮の聘事を奉りしほどを除くの外、十九年の間、某講筵に侍る事、凡一千二百九十九日なり。某が外、日講侍読等の事を奉りしもの三人、おの〳〵経筵に侍る事も、またかくぞ有るべき。されば、経史諸子の書等、大かたは残る所なくぞ通暁せさせ給ひたりける。倭漢古今の間、かく迄に学の道好ませ給ひし御事をば、いまだ聞き及びにし所にあらず。周易の日講功終りし後は、大学衍義の書を講ぜしめらる。これもかくれ給ひしころ迄に、正補共に功終り給ひたりき。
書き下し
つねに進講終りぬれば、座を賜りて、倭漢の故事等問はせ給ふ事もおはします。就中、祖宗開闢の時の御事に至りては、特に御心を深くし給ひしほどに。書經の講終りし庚辰の年二月十一日に、國初より此のかた、その封祿萬石以上の人々の事ども、進講の暇あらむをり〳〵に、いかにもしるしてまゐらせよかしなど仰せられしに、明けの年、辛巳の正月十一日に、その事を以て仰せ下さる。同じき十四日に、まづ其の書を撰ぶべき凡例をしるしてまゐらす。しかるべき由を仰せ下されしかば、これより諸家の事ども、たづねきはめて、七月十一日に至りて草を起し、十月に至りて稿を脫す。事は慶長五年に始まりて、延寶八年に至るまで、八十年の間、始封襲封及び廢除等、凡三百三十七家。その書たる正編十卷、附錄二卷、凡例目錄共に一卷、通計十三卷を、分ちて二十冊となし自から淨書功終りぬれば、明くる壬午の二月十九日に進呈す。これよりまた書の名をば、御みづから撰び給ひて、藩翰譜とぞ題せらるゝ。此の外仰せによりて、二三冊ばかりの書ども撰呈せる事猶多し。ことごとくしるすにいとまあらず。はじめ某仰せを奉りて、詩を講ぜしめられしより此のかた、年ごとに四書ならびに孝經周禮儀禮等の書を兼ね講ぜしめられし事、御代しろしめされし後に、御使を奉りて上洛し。また朝鮮の聘事を奉りしほどを除くの外、十九年の間、某講筵に侍る事、凡一千二百九十九日なり。某が外、日講侍讀等の事を奉りしもの三人、おの〳〵經筵に侍る事も、またかくぞ有るべき。されば、經史諸子の書等、大かたは殘る所なくぞ通曉せさせ給ひたりける。倭漢古今の間、かく迄に學の道好ませ給ひし御事をば、いまだ聞き及びにし所にあらず。周易の日講功終りし後は、大學衍義の書を講ぜしめらる。これもかくれ給ひしころ迄に、正補共に功終り給ひたりき。
現代語訳
いつも進講が終わると、座を賜り、日本や中国の故事などをお尋ねになることがあった。なかでも、祖宗が国を開かれた時のことには、特に深くお心を寄せられたので、書経の講義が終わった庚辰の年の二月十一日に、国の初めよりこのかた、封禄一万石以上の人々のことを、進講の暇のある折々に、何とか書き記して差し上げよと仰せられた。明くる年、辛巳の正月十一日に、そのことで改めて仰せがあった。同じ十四日に、まずその書を撰ぶ凡例を記して差し上げた。それでよいとの仰せがあったので、これより諸家のことを尋ね究め、七月十一日に草稿を起こし、十月に稿を脱した。事は慶長五年に始まって延宝八年に至るまで、八十年の間の、始封(初代)・襲封(相続)および廃除(取り潰し)など、およそ三百三十七家である。その書は、正編十巻、附録二巻、凡例目録を合わせて一巻、通じて十三巻を、分けて二十冊とし、自分で清書を終えたので、明くる壬午の二月十九日に進呈した。これよりまた書の名は、御自身で撰ばれて、『藩翰譜』と題された。このほか、仰せによって二、三冊ほどの書を撰んで差し上げたことはなお多い。ことごとく記すにはいとまがない。はじめ私が仰せを承って詩を講義するようになってから以来、年ごとに四書ならびに孝経・周礼・儀礼などの書をあわせて講義させられたことは、(主君が)御代を治められた後に、御使いを承って上洛したときと、朝鮮の聘事(朝鮮使節の応接)を承った間を除くほか、十九年の間、私が講筵に侍ったのは、およそ千二百九十九日である。私のほか、日講・侍読などを承った者三人も、それぞれ経筵に侍ったことは、また同じくらいであっただろう。だから、経書・史書・諸子の書などは、おおかた残るところなく通暁なさったのだった。日本・中国の古今を通じて、これほどまでに学問の道を好まれたことは、まだ聞いたことがない。周易の日講が終わった後は、『大学衍義』の書を講義させられた。これもお亡くなりになるころまでに、正編・補編ともに終えられたのだった。
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』書目の下問と汲古閣六経の下賜乙亥の年、秋の末に、常に御側にさし置かれて御覽じつべき倭漢の書の目、しるしまゐらすべき由仰せ下されたり。我が師にて候ふ者と、あひはからひてこそ、申すべけれと對へまゐらせて、師たる人に問ひてのちに、書目をまゐらせしかば、それらの書ども、購ひ求めてまゐらすべしとあり。こゝかしこもとめ出して、倭漢の書百數十部を奉れり。十二月廿一日に、侍講の者二人をめされて、倭漢の書、二百部ばかりの書目しるし出されて、おの〳〵賜らむとおもふ書目に、點してまゐらすべしと仰せ下さる。これは今まで御側に閣かれし所のものどもなり。二人たがひに相讓りて後、ひとりの點せし所、三つが二つばかりに及べり某その殘る所を見て、此等の書、某が家藏にあるものも侍り。また近習の人々にわかち賜はらむに、皆然るべきものどもなりと申して、我が點せし所わづかに十一部に過ぎず。おの〳〵其の望む所に任せらる、よし仰せ下され、某はしばらくさぶらふべしと仰せ下されて、年比御自愛の物なり。汝の子息に相傳ふべしと仰せ下され六經の書を下し賜る。此の時仰せの事どもを傳へられしは、今の越前守藤詮房朝臣、いまだ宮内と申しし時の事なり。賜はりし所の六經は、汲古閣の善本にて、裝潢并に書匣鎖鑰等善盡し美盡しし所、猶今も家にある者これなり。今ひとりの賜はりし所は、いくほどなくして、災火のためにこと〳〵く焼けうせしといふ。惜むべき事にてあるなり。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』講筵の作法と春秋の礼遇毎年正月の初に、講筵を開かるゝの儀あり。かねてより講章を奉らしめ給ひ、其の日講訖りぬれば、時服二領を賜はる事、つひにかはらず。此の儀は、年の初の御事なれば、大雅の中、めでたき詩を撰びて、進講すること例とはなりき。はじめ藩邸におはしましより。御代をしらせ給ふ後に至りて、歳の初に講筵を開かれしのちに、月の十五日を過ぎて、日講初まり十二月の末にいたるまで、大故おはします事の外は、朔望はいふに及はず。四時佳節の日といへども、日講をとゞめられし御事はあらず。我が身の病多くなりて、大暑大寒に堪へざる事をしろしめされしより後は、暑甚しき時には日沒りて後に參るべしと仰せ下されて、進講は夜に及ぶ。天寒き日には進講は晝の間にして、御座と某との間に、大火爐を一つ設け置かる。寒猶甚しきに至りては、特に大爐一つをめされて、某が座のうしろに置かしめらる。我が進講に當りし日に雨雪あれば、必ず御使をはせられて、出仕の事をとゞめられき。すべて講筵に臨ませ給ひし儀、春秋冬は裏打たる御上下をめされ。夏はすきたる御肩衣に、ひとへの御袴をめされて、常におはします御座をば下り給ひ、御座をさる事九尺許を隔てて、某が座を設けらる。夏熱けれども、御扇をとらせ給はず。夜ふけ蚊多けれども、逐はせられし御事もあらず。いづれの比にかありけむ。風の御心地おはしましてしきりに御はなの漏りけるにこそ、ひそかに御側にむかはせ給ひ、御ふところの紙取出し給ひて、拭はせ給ひては、こなたにむかはせ給ふ事しきりにおはしましし事のありつれ。かゝりしほどの事なれば、講に侍る事のやゝもすれば、一時には餘りぬれど、その間御前のものしづかなりし事どもおもひやるべし。また年ごとの春と秋とには、別館にわたらせ給ふ毎に御供にさぶらふべき由仰せ下され、必ず一所を點じ定められて、御使して酒菓を賜はり。あるひはまた人々に詩など作らしめ給ふ事もありき。また四時ともに、おの〳〵衣服の類賜はり。年の終りには、おの〳〵黃金白銀等を賜はりて、其の勞を慰められし事、年々にかはらず。これらの事ども、御代しろしめされし後といへども、つひにあらたまらず。それが中、儲副に立たせたまひし明のけ年の春、我には特にいろ〳〵のうつくしき絹ども賜はりて、妻子どもにあたふべしと仰せ下され、その夏に至りて、また前に同じきひとへのきぬども賜はり、またこれも妻子どもにあたふべしとて、折櫃に入りし御菓子をも、たび〳〵に給りしが。此の後はこれも年々の例となりしによりて、前代の御代をつがれし後にも、ありし御代のごとくになりたりき。此等の事は、我より外に其の例なき事どもとぞ、人々も申したりける。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』家宣の世子立てに馳せ参じた一言甲申の年十二月五日に、儲副に立せ給ふと聞きて、馳せ賀し申さむため龍口のほとりに及びし時、程なく西城に入らせ給ふべしとて、道ゆく人をとゞむ。(御歩行の衆なり)某が名を稱して、參るべき事あるがためなりといひしかば、參りたまへとてゆるしぬ。藩邸に至るに、御迎の人々參りつどへり。(美濃守吉保朝臣を始めて、御供に候べき人々參れり)詮房朝臣を尋ねしに、物くひておはすと聞きて、其所に入りて賀し申す。やがてくひはてゝ、坐をたゞれしを引とゞめて、凡天下の御事においては、某此の年頃申しし所なれば、今はた申すに及ばず。只その申しし事どもを、忘れさせ給ふ事なからむには、天下の幸甚にこそ候ふべけれと此の一ことを申すべきために、馳せ參りて候ふ也。此の由を以てもらし申させ給へといひて、たちわかれぬ。後にある人の申しし事をきゝしに、いづれの比なることにかおはしましけむ、詮房朝臣にむかはせ給ひ、我はじめ西城に入らむとせし時に君美が馳せ參りていひし所をば、わすれもやする。我は日としてわするゝ事はなきものをと仰せられしとぞ。我は此の後家にのみこもり居ぬ。廿日ばかりをすぎて、ある人の參りてむかしつかへ參らせし人々、そのほど〳〵につけつゝ、おの〳〵めし出されぬ。我等が事のみ、いまだ仰せ下さるゝ旨のあらざれば、此の事を以て歎き申す人ありと聞ゆ。我も其の由を以て歎き申さむと思へば、しらせ申すなりといふ。かく告げしらせし人は、芝崎十郎右衞門なり。これは村田十郎右衞門の、詮房朝臣の舍弟につきて此の事を申し、またむかし藩邸におはしましし時に、其所より事を執り申されし人々の許にもゆきて、此の事を申す旨ありしと聞えしが故なればなり。年比つかへまゐらせし所の、かくおはしますを見奉る事、これにすぎし身の幸やあるべき。此のほかまた何事をかもとむべき。我また身不肖也といへども、さすがに今は藩邸の舊學也。禮を以て進退せむ事、これみづから重んずるがためにもあらず。いかんぞ人々のごとく、此等の事をもて申す事のあるべきと思ひしかば、御芳志のほど謝するに詞なし。されど某が事においては、存ずる所あれば、それらの事を以て、申す事あるべからずと答へぬ。わづかに一日をへだてゝ、それ月の廿六日の夜、某等が事執り申すべき由を仰せかうぶりし人々ありと告げ來れり。此の事藩邸に申しし時の目付衆、坂部といひし人より告げ來り、其の狀に見えし所、新井勘解由、村田七郎右衞門、芝崎十郎右衞門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部淸助、土肥源四郎、此等七人をば、西丸御側衆支配あるべしといふ。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』禄の交渉と、甲府藩への初見参六日にまた豫州いはれし事どもありしに、其の夜我また申す旨ありしによりて、七日の朝に至りて、豫州の許に交して答へ申されき。初め我が師の心にみち給はざりし事は、祿米三十人を扶持すべき料を給はるべしとの事なりしかば、學の優劣は祿の厚薄によらざる事勿論なり。されど、世の人は祿厚ければ學優なりと思ひ、祿薄ければ、學も劣れりとおもふ事、よのつねなり。我が門にさぶらふものゝ中、かれにしかざるも、なほさほどの微祿のものはあらず。かれまたもとより、儒をもて業とせしものにもあらず。今までつかへにしたがひし祿米のほどもあるものを、のたまふ所の如くにて參らせむ事、えこそかなふまじけれとのたまふ。そののち、又、豫州來りて、のたまふ所いはれなきにあらず。さらば祿米四十人を扶持すべきほどの事は、我いかにも申しかなふべし。まづかのたまふ所にまかせて參らせられむには、その後の事は、いかにも望にまかせらるべき事にやとありしをその夜我をめして、またかくまで豫州のいひしかど、我なほおもふ所あれば、此の事いかにもかなふべからずとのたまふ。當時彼の藩邸の事、他家の事に準ずべからず。もし祿の多少を論じて、そのまねきに應せざらむには、これより後、他家の人々のまねかるゝ事ありとも、祿厚きにあらずはそれに應ずべからず。たゞしるべからざる所の事は我が命の厚薄いかにか候ふべき。同じくは、豫州の計らひにまかせらるべくや候ふと申す。答へ申さむ事遲からず。よくおもひはかるべしとありしを、我なほ申す事ありしかば、此の上はとて、つひに豫州の許に文つかはし給ひき。後にきゝしに、初め藩邸より大學頭藤信篤の弟子給はるべしと仰せられしに、信篤思ふ所やありけむ。參らすべき弟子候はずと答へ申したり。かくて我が事を聞し召し及ばれしのち、長州のはからひにて、此の年の春、みつから薦めし所の人を信篤の弟子に申しなして、さて後に我をめすべきよしはいひおこせたるなり。長州のすゝめし所は、今の舟橋半右衞門なり。其の時は吉田藤八郎と申す。もとは京の仁齋とかいひしものゝ、弟子なるを召し出されき。此の時に、大學頭の門人に申し行はれき。されば、儲副にたゝせ給ひし初に、此の人は近習にめしくはへられたりしなり。同じき十五日の夜、長州の許より、我が師に文贈りて、明日某を藩邸へ參らせらるべしとありしかば、十六日の巳時ばかりに藩邸に祇候す。戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪等の人々、我をめし出して、御家人たるべき由の仰せをば、小出傳へられき。同じき十八日、はじめて見參す。
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『弘道館記述義』・明倫正名・大日本史に込めた倫を明らかにする志倫を明らかにし名を正し、以て国家に藩屏す。臣彪謹んで案ずるに、義公既に孝弟を以て父兄に事へ、諸弟に友愛し、閨門を整粛す。其の倫理を明らかにする所以の者至れり。其の正名の義に於ても又深く意を致せり。蓋し公は建櫜の後に生まれ、大猷公方に先志を紹述し、覇業益々隆んにして、天下の事復た患ふるに足る者莫し。但だ戦国の余習未だ尽くは除かず、尊王の道、正名の義、猶ほ或いは闕く。苟くも其の道義を明らかにして以て風教を植うるに非ずんば、則ち安んぞ異日反乱の徒、復た口を北条・足利に籍らざるを知らんや。此れ公の深く慮る所にして、修史の業の篤く自ら任ずる所以なり。其の著作纂述、勝げて数ふべからず。而して大日本史の作は、尤も不朽の大典たり。其の体裁筆削は、必ず親ら諸臣と反覆商榷し、諸を至当に帰す。一生の用心半ば此の書に在り。是に於て皇統の正閏、人臣の忠奸、照然として明白、復た疑ひを容れず。公嘗て尾紀二公と幕府に在り。適々一史を撰して刊行を請ふ者有り。公繙閲して、呉の太伯を以て神州の始祖と為すに至り、大いに駭きて曰く、此の説は異邦附会の妄に出づ。我が正の所無し。昔後醍醐帝の時、一妖僧有りて斯の説を倡ふ。詔して其の書を焚く。方今文明の世、豈に斯の怪事有らしむべけんや。宜しく命じて速やかに之を削らしむべしと。二公其の議に左袒し、遂に刊行を停む。公又建武・昌平の間の忠義の士の、其の支流の餘裔の諸州に沈淪する者有るを聞き、往往にして招致し其の礼遇を優にす。又嘗て楠子の為に碑を摂の湊川に建て、田を買ひて之に附し、永く香火に資す。居常心を忠敬に存して、老に至るまで懈らず。故事、天使の三藩の邸に至れば、則ち使を遣はして之を謝す。公謂ふ、不敬大なるは莫しと。乃ち親ら旅館に往きて其の辱を謝す。親王大臣の邸に臨むも亦必ず之の如し。毎歳元旦席を地に設け、宿して斎戒し夙朝に下り、西向して遥かに天闕を拝す。其の儀尤も謹めり。今に至るまで恒例と為す。初め大日本史粗ぼ緒に就く。公朝廷を憚りて敢へて史に名づけず。稿と称して之を視る。粛公以下世々其の志を継ぎ、校訂怠らず。文公其の久しくして或いは伝訛せんことを恐れ、諸を梓に上さんと欲す。更に史臣に命じて誤りを刊り闕を補はしむ。武公に至りて、関白藤公に因りて之を請ふ。朝議允す。大日本史の名始めて世に出づ。乃ち工に命じて鏤刻し、先づ其の成れる者を装し、表を上りて之を献ず。光格帝喜歎已まず、藤公に命じて勅を伝へて之を褒む。其の後二十余年、今上公の功を追録し、詔して従二位権大納言を贈る。実に天保三年壬辰五月なり。公の薨ずるより距たること一百三十有五年なり。爾来百数十年、世々遺緒を承け、恩沢に沐浴して以て今日に至る。則ち苟くも臣子たる者、豈に斯の道を推弘し先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。