折たく柴の記 / 『折たく柴の記』火災見舞金と紺糸縅の鎧、師の死
明けぬれば、丙子の年の正月の初に宴を開きて、我が師なる人に、かの特賜の書みせまゐらせしかば、序作りてたぶ。其の一年をへだてゝ、戊寅の九月二日。災火のために、我が家もやけぬと聞し召して、同じき九日に、黃金五十兩を下し賜れり。(これは假屋うつべきための料とすべき由の仰せなりき。)此の時御家人の中、災にかゝれる人々も多かる中に、かゝる賜物ある事は、特恩に出でし所なりき。されど、此の事なからむにも、我のみひとり屋舍造り、什器作り出す事、かなふまじきにもあらず。たとひまた賜ひしところを以て、それらつくらむ用に充てなむにも、此所火災しば〳〵行はれぬれば、又燒け失することもあらむには、此の恩も終に空しくなりぬべし。いかさまにもはからふべき事こそあるべけれとおもひめぐらして、やがて彼の賜物を以て新たに鎧二領を縅さしむ。今の紺絲縅の鎧同じ毛のかぶとに、鍬形うちし物これなり。これ死をもて、朝恩に報いまゐらせむ時、用ふべきがためなり。我が後たらむものは、よく〳〵此の旨を存じて、此の鎧と、後に賜はりし所の御太刀とをば、嫡流の家に傳ふべき事なり。そののち五年を隔てゝ、元祿十六癸未の年の十一月火災にかゝりし時、果してまた我が屋舍等やけ失せしかども、此の鎧をば常に身にしたがへし程に、今も猶のこれり。我が師なりし人は、初め火災にあひし戊寅の年十二月廿三日の夜に、終り給ひたり。遺言によりて葬儀等の事をば、はかり申ししなり。これ元祿十一年の事にて、南紀の榊原玄輔と、二人遺言によりて、葬儀等の事、とりはかりたりき。
新字:明けぬれば、丙子の年の正月の初に宴を開きて、我が師なる人に、かの特賜の書みせまゐらせしかば、序作りてたぶ。其の一年をへだてゝ、戊寅の九月二日。災火のために、我が家もやけぬと聞し召して、同じき九日に、黄金五十両を下し賜れり。(これは仮屋うつべきための料とすべき由の仰せなりき。)此の時御家人の中、災にかゝれる人々も多かる中に、かゝる賜物ある事は、特恩に出でし所なりき。されど、此の事なからむにも、我のみひとり屋舎造り、什器作り出す事、かなふまじきにもあらず。たとひまた賜ひしところを以て、それらつくらむ用に充てなむにも、此所火災しば〳〵行はれぬれば、又焼け失することもあらむには、此の恩も終に空しくなりぬべし。いかさまにもはからふべき事こそあるべけれとおもひめぐらして、やがて彼の賜物を以て新たに鎧二領を縅さしむ。今の紺糸縅の鎧同じ毛のかぶとに、鍬形うちし物これなり。これ死をもて、朝恩に報いまゐらせむ時、用ふべきがためなり。我が後たらむものは、よく〳〵此の旨を存じて、此の鎧と、後に賜はりし所の御太刀とをば、嫡流の家に伝ふべき事なり。そののち五年を隔てゝ、元禄十六癸未の年の十一月火災にかゝりし時、果してまた我が屋舎等やけ失せしかども、此の鎧をば常に身にしたがへし程に、今も猶のこれり。我が師なりし人は、初め火災にあひし戊寅の年十二月廿三日の夜に、終り給ひたり。遺言によりて葬儀等の事をば、はかり申ししなり。これ元禄十一年の事にて、南紀の榊原玄輔と、二人遺言によりて、葬儀等の事、とりはかりたりき。
書き下し
明けぬれば、丙子の年の正月の初に宴を開きて、我が師なる人に、かの特賜の書みせまゐらせしかば、序作りてたぶ。其の一年をへだてゝ、戊寅の九月二日。災火のために、我が家もやけぬと聞し召して、同じき九日に、黃金五十兩を下し賜れり。(これは假屋うつべきための料とすべき由の仰せなりき。)此の時御家人の中、災にかゝれる人々も多かる中に、かゝる賜物ある事は、特恩に出でし所なりき。されど、此の事なからむにも、我のみひとり屋舍造り、什器作り出す事、かなふまじきにもあらず。たとひまた賜ひしところを以て、それらつくらむ用に充てなむにも、此所火災しば〳〵行はれぬれば、又燒け失することもあらむには、此の恩も終に空しくなりぬべし。いかさまにもはからふべき事こそあるべけれとおもひめぐらして、やがて彼の賜物を以て新たに鎧二領を縅さしむ。今の紺絲縅の鎧同じ毛のかぶとに、鍬形うちし物これなり。これ死をもて、朝恩に報いまゐらせむ時、用ふべきがためなり。我が後たらむものは、よく〳〵此の旨を存じて、此の鎧と、後に賜はりし所の御太刀とをば、嫡流の家に傳ふべき事なり。そののち五年を隔てゝ、元祿十六癸未の年の十一月火災にかゝりし時、果してまた我が屋舍等やけ失せしかども、此の鎧をば常に身にしたがへし程に、今も猶のこれり。我が師なりし人は、初め火災にあひし戊寅の年十二月廿三日の夜に、終り給ひたり。遺言によりて葬儀等の事をば、はかり申ししなり。これ元祿十一年の事にて、南紀の榊原玄輔と、二人遺言によりて、葬儀等の事、とりはかりたりき。
現代語訳
明けて丙子の年の正月の初めに宴を開いて、私の師である人に、あの特別に賜った書を見せたところ、序文を作って下さった。その一年を隔てて、戊寅の年の九月二日、火災のために私の家も焼けたとお聞きになって、同じ九日に、黄金五十両を下された。(これは仮屋を建てる費用にせよとの仰せであった。)このとき御家人のなかで、災難にあった人々も多い中で、このような賜物があったことは、特別な恩恵から出たことであった。しかし、この賜物がなくても、私ひとりで屋敷を造り、什器を作り出すことは、できないわけではなかった。たとえまた賜ったものをそれらを作る費用に充てたとしても、このあたりは火災がたびたび起こるので、また焼け失せることもあれば、この恩もついに空しくなってしまうだろう。何とか考えねばなるまいと思いめぐらして、すぐにその賜物で新たに鎧二領を縅させた。今の紺糸縅の鎧と、同じ毛の兜に鍬形を打ったものがこれである。これは、死をもって朝恩に報い申し上げる時に、用いるためである。私の子孫たる者は、よくよくこの趣旨を心得て、この鎧と、後に賜った御太刀とを、嫡流の家に伝えるべきである。その後五年を隔てて、元禄十六年癸未の十一月に火災にあった時、案の定また私の屋敷なども焼け失せたが、この鎧はいつも身に添えていたので、今もなお残っている。私の師であった人は、最初に火災にあった戊寅の年の十二月二十三日の夜にお亡くなりになった。遺言によって、葬儀などのことを取りはからったのである。これは元禄十一年のことで、南紀の榊原玄輔と二人、遺言によって葬儀などを取りはからった。
解説

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『驢鞍橋』卷下この日晩にいたり、天徳の勝地において、如法に葬す。門人四十四人、夜もすから茶毘の左右を囲繞するに、無香無臭、只白煙を見るのみ。第三日に至て、灰塵を掃ふに、その骨白雪の如し。聚会の男女、分取て供養す。又天徳院、並に所住の三院に納む。冷灰を小壺に貯へ、天徳院の北岳に埋んで無縫塔を立て、石平和尚の四字を書す。師の春秋七十七年、幼年にして生死を疑ひ、四十二にして祝髪、六十余にして得悟す。その行業の始末は前書に詳也。利生三十余年、度人数を知ること無し。
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「生を養うは、以て大事に當つるに足らず。惟だ死を送るは、以て大事に當つ可し。」
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論語・学而篇曾子曰く、「終りを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す。」
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礼記・檀弓上子柳(しりゅう)の母死す。子碩(しせき)具(そな)えんことを請う。子柳曰く、「何を以てせんや」と。子碩曰く、「請う庶弟の母を粥(ひさ)がん」と。子柳曰く、「これを如何ぞ其れ人の母を粥ぎて以て其の母を葬らんや。不可なり」と。既に葬りて、子碩賻布(ふふ)の余りを以て祭器を具えんと欲す。子柳曰く、「不可なり。吾これを聞く、君子は喪に家せず。請う諸(これ)を兄弟の貧しき者に班(わか)たん」と。
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『晏子春秋』外篇上・景公台成盆成適願合葬其母晏子諫而許公曰く、「吾之を聞く、五子は隅に満たず、一子は朝に満つべしと。乃の子に非ずや」と。盆成適是に於て事に臨みて敢えて哭せず、事を奉ずるに礼を以てし、畢りて、門を出で、然る後声を挙ぐ。
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礼記・檀弓上子游喪具を問う、夫子曰く、「家の有亡(ゆうぼう)に称(かな)え」と。子游曰く、「有亡悪(いず)くにか斉(ひと)しからん」と。夫子曰く、「有れば、礼を過ぐること毋(な)かれ。苟(いやし)くも亡ければ、首足形を斂め、還(すみ)やかに葬り、棺を縣(つ)りて封ず、人豈にこれを非とする者有らんや」と。 司士賁(ふん)子游に告げて曰く、「請う床に襲(しゅう)せん」と。子游曰く、「諾」と。県子これを聞きて曰く、「汰(おご)れるかな叔氏、専ら礼を以て人に許す」と。