折たく柴の記 / 『折たく柴の記』禄の交渉と、甲府藩への初見参
六日にまた豫州いはれし事どもありしに、其の夜我また申す旨ありしによりて、七日の朝に至りて、豫州の許に交して答へ申されき。初め我が師の心にみち給はざりし事は、祿米三十人を扶持すべき料を給はるべしとの事なりしかば、學の優劣は祿の厚薄によらざる事勿論なり。されど、世の人は祿厚ければ學優なりと思ひ、祿薄ければ、學も劣れりとおもふ事、よのつねなり。我が門にさぶらふものゝ中、かれにしかざるも、なほさほどの微祿のものはあらず。かれまたもとより、儒をもて業とせしものにもあらず。今までつかへにしたがひし祿米のほどもあるものを、のたまふ所の如くにて參らせむ事、えこそかなふまじけれとのたまふ。そののち、又、豫州來りて、のたまふ所いはれなきにあらず。さらば祿米四十人を扶持すべきほどの事は、我いかにも申しかなふべし。まづかのたまふ所にまかせて參らせられむには、その後の事は、いかにも望にまかせらるべき事にやとありしをその夜我をめして、またかくまで豫州のいひしかど、我なほおもふ所あれば、此の事いかにもかなふべからずとのたまふ。當時彼の藩邸の事、他家の事に準ずべからず。もし祿の多少を論じて、そのまねきに應せざらむには、これより後、他家の人々のまねかるゝ事ありとも、祿厚きにあらずはそれに應ずべからず。たゞしるべからざる所の事は我が命の厚薄いかにか候ふべき。同じくは、豫州の計らひにまかせらるべくや候ふと申す。答へ申さむ事遲からず。よくおもひはかるべしとありしを、我なほ申す事ありしかば、此の上はとて、つひに豫州の許に文つかはし給ひき。後にきゝしに、初め藩邸より大學頭藤信篤の弟子給はるべしと仰せられしに、信篤思ふ所やありけむ。參らすべき弟子候はずと答へ申したり。かくて我が事を聞し召し及ばれしのち、長州のはからひにて、此の年の春、みつから薦めし所の人を信篤の弟子に申しなして、さて後に我をめすべきよしはいひおこせたるなり。長州のすゝめし所は、今の舟橋半右衞門なり。其の時は吉田藤八郎と申す。もとは京の仁齋とかいひしものゝ、弟子なるを召し出されき。此の時に、大學頭の門人に申し行はれき。されば、儲副にたゝせ給ひし初に、此の人は近習にめしくはへられたりしなり。同じき十五日の夜、長州の許より、我が師に文贈りて、明日某を藩邸へ參らせらるべしとありしかば、十六日の巳時ばかりに藩邸に祇候す。戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪等の人々、我をめし出して、御家人たるべき由の仰せをば、小出傳へられき。同じき十八日、はじめて見參す。
新字:六日にまた予州いはれし事どもありしに、其の夜我また申す旨ありしによりて、七日の朝に至りて、予州の許に交して答へ申されき。初め我が師の心にみち給はざりし事は、禄米三十人を扶持すべき料を給はるべしとの事なりしかば、学の優劣は禄の厚薄によらざる事勿論なり。されど、世の人は禄厚ければ学優なりと思ひ、禄薄ければ、学も劣れりとおもふ事、よのつねなり。我が門にさぶらふものゝ中、かれにしかざるも、なほさほどの微禄のものはあらず。かれまたもとより、儒をもて業とせしものにもあらず。今までつかへにしたがひし禄米のほどもあるものを、のたまふ所の如くにて参らせむ事、えこそかなふまじけれとのたまふ。そののち、又、予州来りて、のたまふ所いはれなきにあらず。さらば禄米四十人を扶持すべきほどの事は、我いかにも申しかなふべし。まづかのたまふ所にまかせて参らせられむには、その後の事は、いかにも望にまかせらるべき事にやとありしをその夜我をめして、またかくまで予州のいひしかど、我なほおもふ所あれば、此の事いかにもかなふべからずとのたまふ。当時彼の藩邸の事、他家の事に準ずべからず。もし禄の多少を論じて、そのまねきに応せざらむには、これより後、他家の人々のまねかるゝ事ありとも、禄厚きにあらずはそれに応ずべからず。たゞしるべからざる所の事は我が命の厚薄いかにか候ふべき。同じくは、予州の計らひにまかせらるべくや候ふと申す。答へ申さむ事遅からず。よくおもひはかるべしとありしを、我なほ申す事ありしかば、此の上はとて、つひに予州の許に文つかはし給ひき。後にきゝしに、初め藩邸より大学頭藤信篤の弟子給はるべしと仰せられしに、信篤思ふ所やありけむ。参らすべき弟子候はずと答へ申したり。かくて我が事を聞し召し及ばれしのち、長州のはからひにて、此の年の春、みつから薦めし所の人を信篤の弟子に申しなして、さて後に我をめすべきよしはいひおこせたるなり。長州のすゝめし所は、今の舟橋半右衛門なり。其の時は吉田藤八郎と申す。もとは京の仁斎とかいひしものゝ、弟子なるを召し出されき。此の時に、大学頭の門人に申し行はれき。されば、儲副にたゝせ給ひし初に、此の人は近習にめしくはへられたりしなり。同じき十五日の夜、長州の許より、我が師に文贈りて、明日某を藩邸へ参らせらるべしとありしかば、十六日の巳時ばかりに藩邸に祇候す。戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪等の人々、我をめし出して、御家人たるべき由の仰せをば、小出伝へられき。同じき十八日、はじめて見参す。
書き下し
六日にまた豫州いはれし事どもありしに、其の夜我また申す旨ありしによりて、七日の朝に至りて、豫州の許に交して答へ申されき。初め我が師の心にみち給はざりし事は、祿米三十人を扶持すべき料を給はるべしとの事なりしかば、學の優劣は祿の厚薄によらざる事勿論なり。されど、世の人は祿厚ければ學優なりと思ひ、祿薄ければ、學も劣れりとおもふ事、よのつねなり。我が門にさぶらふものゝ中、かれにしかざるも、なほさほどの微祿のものはあらず。かれまたもとより、儒をもて業とせしものにもあらず。今までつかへにしたがひし祿米のほどもあるものを、のたまふ所の如くにて參らせむ事、えこそかなふまじけれとのたまふ。そののち、又、豫州來りて、のたまふ所いはれなきにあらず。さらば祿米四十人を扶持すべきほどの事は、我いかにも申しかなふべし。まづかのたまふ所にまかせて參らせられむには、その後の事は、いかにも望にまかせらるべき事にやとありしをその夜我をめして、またかくまで豫州のいひしかど、我なほおもふ所あれば、此の事いかにもかなふべからずとのたまふ。當時彼の藩邸の事、他家の事に準ずべからず。もし祿の多少を論じて、そのまねきに應せざらむには、これより後、他家の人々のまねかるゝ事ありとも、祿厚きにあらずはそれに應ずべからず。たゞしるべからざる所の事は我が命の厚薄いかにか候ふべき。同じくは、豫州の計らひにまかせらるべくや候ふと申す。答へ申さむ事遲からず。よくおもひはかるべしとありしを、我なほ申す事ありしかば、此の上はとて、つひに豫州の許に文つかはし給ひき。後にきゝしに、初め藩邸より大學頭藤信篤の弟子給はるべしと仰せられしに、信篤思ふ所やありけむ。參らすべき弟子候はずと答へ申したり。かくて我が事を聞し召し及ばれしのち、長州のはからひにて、此の年の春、みつから薦めし所の人を信篤の弟子に申しなして、さて後に我をめすべきよしはいひおこせたるなり。長州のすゝめし所は、今の舟橋半右衞門なり。其の時は吉田藤八郎と申す。もとは京の仁齋とかいひしものゝ、弟子なるを召し出されき。此の時に、大學頭の門人に申し行はれき。されば、儲副にたゝせ給ひし初に、此の人は近習にめしくはへられたりしなり。同じき十五日の夜、長州の許より、我が師に文贈りて、明日某を藩邸へ參らせらるべしとありしかば、十六日の巳時ばかりに藩邸に祇候す。戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪等の人々、我をめし出して、御家人たるべき由の仰せをば、小出傳へられき。同じき十八日、はじめて見參す。
現代語訳
六日に、また豫州が言われたことがあり、その夜、私がまた申し上げた旨があったので、七日の朝になって、(師が)豫州のもとに書状を交わして答えを申された。初め私の師の心に満たなかったことは、禄米三十人扶持を賄う料を給わるということであったからで、「学の優劣は、禄の厚い薄いによらないことは言うまでもない。しかし世の人は、禄が厚ければ学が優れていると思い、禄が薄ければ学も劣っていると思うのが常である。私の門下の者のうち、あの者に及ばない者でも、なおそれほどの微禄の者はいない。あの者はまた、もとから儒を業としていた者でもない。今まで仕えて受けてきた禄米の額もあるのに、おっしゃるようにして参らせることは、とてもかなうまい」とおっしゃる。その後、また豫州が来て、「おっしゃる所は、いわれのないことでもない。それならば、禄米四十人扶持を賄うほどのことは、私がどうあっても申してかなえよう。まずは、おっしゃる所に任せて参らせられるならば、その後のことは、望みに任せられることにもなろうか」とあったのを、その夜、私を召して、またこれほどまで豫州が言ってきたが、私はなお思う所があるので、このことはどうあってもかなえられないとおっしゃる。「当時のあの藩邸のことは、他家のことになぞらえてはならない。もし禄の多少を論じて、そのお招きに応じなければ、これより後、他家の人々が招かれることがあっても、禄が厚くなければそれに応じてはならないことになる」と。私は、「ただ知ることのできない所のことは、私の運の厚薄がどうでございましょうか。同じことなら、豫州のお計らいに任せられるのがよろしいのではないでしょうか」と申し上げる。「お答え申すのは遅くない。よく思いはかれ」とあったのを、私がなお申すことがあったので、「この上は」と、ついに豫州のもとに書状を遣わされた。後に聞いたところ、初め藩邸から、大学頭林信篤の弟子を給わりたいと仰せられたのに、信篤は思う所があったのだろうか、「差し上げるべき弟子はおりません」と答え申した。こうして私のことをお聞き及びになったのち、長州のお計らいで、この年の春、自ら薦めた人を信篤の弟子として申しなして、そうして後に私を召すべき旨を言ってよこしたのである。長州が薦めた者は、今の舟橋半右衛門である。その時は吉田藤八郎と申した。もとは京の仁斎とかいう者の弟子であったのを召し出された。この時に、大学頭の門人として申し行われた。それで、(家宣公が)世継ぎに立たれた初めに、この人は近習に召し加えられたのである。同じ十五日の夜、長州の許から、私の師に文を贈って、「明日、某を藩邸に参らせられよ」とあったので、十六日の巳の刻ごろに藩邸に祇候した。戸田長門守忠利、津田外記、小出土佐守有雪らの人々が、私を召し出して、御家人となるべき旨の仰せを、小出が伝えられた。同じ十八日、初めて見参した。
解説

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