驢鞍橋 / 卷下
この日晩にいたり、天德の勝地において、如法に葬す。門人四十四人、夜もすから茶毘の左右を圍繞するに、無香無臭、只白煙を見るのみ。第三日に至て、灰塵を掃ふに、その骨白雪の如し。聚會の男女、分取て供養す。又天德院、並に所住の三院に納む。冷灰を小壺に貯へ、天德院の北岳に埋んで無縫塔を立て、石平和尙の四字を書す。師の春秋七十七年、幼年にして生死を疑ひ、四十二にして祝髮、六十餘にして得悟す。その行業の始末は前書に詳也。利生三十餘年、度人數を知ること無し。
新字:この日晩にいたり、天徳の勝地において、如法に葬す。門人四十四人、夜もすから茶毘の左右を囲繞するに、無香無臭、只白煙を見るのみ。第三日に至て、灰塵を掃ふに、その骨白雪の如し。聚会の男女、分取て供養す。又天徳院、並に所住の三院に納む。冷灰を小壺に貯へ、天徳院の北岳に埋んで無縫塔を立て、石平和尚の四字を書す。師の春秋七十七年、幼年にして生死を疑ひ、四十二にして祝髪、六十余にして得悟す。その行業の始末は前書に詳也。利生三十余年、度人数を知ること無し。
書き下し
この日晩にいたり、天徳の勝地において、如法に葬す。門人四十四人、夜もすから茶毘の左右を囲繞するに、無香無臭、只白煙を見るのみ。第三日に至て、灰塵を掃ふに、その骨白雪の如し。聚会の男女、分取て供養す。又天徳院、並に所住の三院に納む。冷灰を小壺に貯へ、天徳院の北岳に埋んで無縫塔を立て、石平和尚の四字を書す。師の春秋七十七年、幼年にして生死を疑ひ、四十二にして祝髪、六十余にして得悟す。その行業の始末は前書に詳也。利生三十余年、度人数を知ること無し。
現代語訳
この日の晩になって、天徳院の勝地で、法にかなって葬った。門人四十四人が、夜通し荼毘の左右を取り囲んだが、香りもなく臭いもなく、ただ白い煙を見るばかりであった。三日目になって灰を払うと、その骨は白雪のようであった。集まった男女が分け取って供養した。また天徳院と住んでいた三院に納めた。冷えた灰を小壺に入れ、天徳院の北の丘に埋めて無縫塔を立て、石平和尚の四字を書いた。師の年は七十七歳。幼いときに生死を疑い、四十二で剃髪し、六十余りで悟りを得た。その行業の始末は前の書に詳しい。人々を利益すること三十余年、導いた人の数は知れない。
解説

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