折たく柴の記 / 『折たく柴の記』主家を追われ、父母と学ぶ日々
かゝりしかば、戸部の覺よかりし家人等をば、豫州よしとは思ひ給はずまして我が父の、一日も出で仕ふる事もなくして、身をしりぞかれしをば、やすからぬ事におもはれしかど、家つがれし初なれば、一門の人々の思ひ給ふ所をも憚りて、老養ふべきほどの祿をもあたへて、望にまかせられしかど、我に父の祿をあたへられし事もあらず。我もまたいとけなきより、戸部の膝下にひとゝなし給ふ事の、その心にかなはざりしほどに、めしつかふ事もおはせず。一年を隔てしのちに、あらぬ事のたまひ出して我が父に給はりし祿奪ひ、我をも仕の塗を禁じて、家をば出されたるなり。かゝりしかば、我ふたゝび仕にしたがふべき望は絶えぬ。父母こそは陸奥におはせし人の、やしなひまゐらせられたれ。我がゆくすゑの事ども、いかにともおもひわかたず。主從わづかに二人、身を市中によせつ。むかしたしかりしものどもの許より、そこらの人の子供に、手習ふ事などをしへて、世渡るたすけともせよかしと、いひおこせたりけれど、我がこゝろざしにもあらねば、朝と夕とには、こゝかしこにて、書講じぬる人の許にゆきてこれを聞き。ひるのほどは、日ごとに父母のもとに參りて見えまゐらす。いくほどなくて、十九にてうせ給ひしあねの、夢に見え給ひしが、心にかゝりて覺えしほどに、夜明けし後に、急ぎて父母のもとに參りしに、妹たるものゝ、子うまむとするといふ事をきゝ、かしこにゆきしに、たひらかに子うみ得たれども、その事によりて、ほどなく世を早くす。此の後は、なほ父母の許にのみ侍りて、その年あけの夏の半に、またあねにておはせし人を夢に見まゐらせしかば、いそぎて參りしに、父母ともに事ゆゑなくておはせしに、半時ばかりが後に、母のたちまちに煩ひ出し給ひ、つひにうせ給ひたりき。此の後は老い給ひし父と我と、たゞふたりにのみなりぬれば、よろづ物悲しかりし事ども、いふばかりなし。
新字:かゝりしかば、戸部の覚よかりし家人等をば、予州よしとは思ひ給はずまして我が父の、一日も出で仕ふる事もなくして、身をしりぞかれしをば、やすからぬ事におもはれしかど、家つがれし初なれば、一門の人々の思ひ給ふ所をも憚りて、老養ふべきほどの禄をもあたへて、望にまかせられしかど、我に父の禄をあたへられし事もあらず。我もまたいとけなきより、戸部の膝下にひとゝなし給ふ事の、その心にかなはざりしほどに、めしつかふ事もおはせず。一年を隔てしのちに、あらぬ事のたまひ出して我が父に給はりし禄奪ひ、我をも仕の塗を禁じて、家をば出されたるなり。かゝりしかば、我ふたゝび仕にしたがふべき望は絶えぬ。父母こそは陸奥におはせし人の、やしなひまゐらせられたれ。我がゆくすゑの事ども、いかにともおもひわかたず。主従わづかに二人、身を市中によせつ。むかしたしかりしものどもの許より、そこらの人の子供に、手習ふ事などをしへて、世渡るたすけともせよかしと、いひおこせたりけれど、我がこゝろざしにもあらねば、朝と夕とには、こゝかしこにて、書講じぬる人の許にゆきてこれを聞き。ひるのほどは、日ごとに父母のもとに参りて見えまゐらす。いくほどなくて、十九にてうせ給ひしあねの、夢に見え給ひしが、心にかゝりて覚えしほどに、夜明けし後に、急ぎて父母のもとに参りしに、妹たるものゝ、子うまむとするといふ事をきゝ、かしこにゆきしに、たひらかに子うみ得たれども、その事によりて、ほどなく世を早くす。此の後は、なほ父母の許にのみ侍りて、その年あけの夏の半に、またあねにておはせし人を夢に見まゐらせしかば、いそぎて参りしに、父母ともに事ゆゑなくておはせしに、半時ばかりが後に、母のたちまちに煩ひ出し給ひ、つひにうせ給ひたりき。此の後は老い給ひし父と我と、たゞふたりにのみなりぬれば、よろづ物悲しかりし事ども、いふばかりなし。
書き下し
かゝりしかば、戸部の覺よかりし家人等をば、豫州よしとは思ひ給はずまして我が父の、一日も出で仕ふる事もなくして、身をしりぞかれしをば、やすからぬ事におもはれしかど、家つがれし初なれば、一門の人々の思ひ給ふ所をも憚りて、老養ふべきほどの祿をもあたへて、望にまかせられしかど、我に父の祿をあたへられし事もあらず。我もまたいとけなきより、戸部の膝下にひとゝなし給ふ事の、その心にかなはざりしほどに、めしつかふ事もおはせず。一年を隔てしのちに、あらぬ事のたまひ出して我が父に給はりし祿奪ひ、我をも仕の塗を禁じて、家をば出されたるなり。かゝりしかば、我ふたゝび仕にしたがふべき望は絶えぬ。父母こそは陸奥におはせし人の、やしなひまゐらせられたれ。我がゆくすゑの事ども、いかにともおもひわかたず。主從わづかに二人、身を市中によせつ。むかしたしかりしものどもの許より、そこらの人の子供に、手習ふ事などをしへて、世渡るたすけともせよかしと、いひおこせたりけれど、我がこゝろざしにもあらねば、朝と夕とには、こゝかしこにて、書講じぬる人の許にゆきてこれを聞き。ひるのほどは、日ごとに父母のもとに參りて見えまゐらす。いくほどなくて、十九にてうせ給ひしあねの、夢に見え給ひしが、心にかゝりて覺えしほどに、夜明けし後に、急ぎて父母のもとに參りしに、妹たるものゝ、子うまむとするといふ事をきゝ、かしこにゆきしに、たひらかに子うみ得たれども、その事によりて、ほどなく世を早くす。此の後は、なほ父母の許にのみ侍りて、その年あけの夏の半に、またあねにておはせし人を夢に見まゐらせしかば、いそぎて參りしに、父母ともに事ゆゑなくておはせしに、半時ばかりが後に、母のたちまちに煩ひ出し給ひ、つひにうせ給ひたりき。此の後は老い給ひし父と我と、たゞふたりにのみなりぬれば、よろづ物悲しかりし事ども、いふばかりなし。
現代語訳
こうした次第であったので、新しい主君の豫州は、戸部(先代)のお気に入りだった家臣たちを好ましくお思いにならなかった。まして私の父が、一日も出仕することなく身を退かれたことを、穏やかならぬこととお思いになったが、家を継がれた初めなので、一門の人々の思わくを憚って、老後を養えるほどの禄を父にお与えになり、望みのままにさせられた。しかし私に父の禄をお与えになることはなかった。私もまた幼い時から戸部のお膝元で育てていただいたことが、豫州の気に入らなかったので、召し使われることもなかった。一年を経たのちに、思いがけないことをおっしゃり出して、父に給わった禄を取り上げ、私にも仕官の道を禁じて、家を出されたのである。こうなっては、私が再び仕えようという望みは絶えた。父母は、陸奥におられた人が養ってくださっていた。私の行く末のことは、どうなるとも見当がつかない。主従わずか二人で、市中に身を寄せた。昔親しかった者たちのもとから、近所の人の子供に手習いなどを教えて、暮らしの助けにせよと言ってよこしたが、私の志にかなうことではないので、朝と夕にはあちらこちらで書物の講義をする人のもとに行ってそれを聞き、昼のうちは毎日父母のもとに参って顔を見せた。いくらもたたないうちに、十九歳で亡くなられた姉が夢に見えられたのが、心にかかって覚えられたので、夜が明けた後、急いで父母のもとに参ったところ、妹が子を産もうとしているということを聞き、そちらに行ったところ、無事に子を産み終えたけれども、そのことが原因で、間もなく若くして世を去った。この後は、ますます父母のもとにばかりおったが、その翌年の夏の半ばに、また姉であった人を夢に見申したので、急いで参ったところ、父母ともに変わりなくおられたのに、半時ほどのちに、母が突然病みつき、ついに亡くなられた。この後は老いた父と私がただ二人きりになったので、何事も物悲しいことばかりで、言いようもない。
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』堀田家で禄を辞し、致仕を願い出る我廿三歳の夏の頃。豫州の家滅びしかば、前にしるしし事のごとく、我がつかへの塗もおのづからひらけたり。かくて筑前守紀正俊朝臣に薦めしものゝありて。廿六歳の三月に、彼の朝臣の許に出で仕ふ。一年を隔て、我廿八歳の秋、筑州の事おはしまして、其の嫡男下總守正仲朝臣、彼のあとを繼がれしかど、不幸のことのみ打つゞきて、後には家人等を扶助すべきことも意のまゝならず。皆々其の祿米を減ぜられしほどに、祿を辭し去るものどもすくなからず。我はじめ出で仕へしより此のかた、彼の父子にしられし身にもあらねども、凡そ主となり、從者となれるものゝ、かゝる時に至りて、はなれ去るべき事にあらずとおもひしかば、わづかに妻拏の饑をまぬかるゝのみにて、心にもあらぬつかへにしたがひゐたりけれど、いとま多かる身なりしかば、この時にこそ經史の類をも涉獵せし事はありつれ。貧は士の常などいふ事あれば、私の事においては、いかにも堪へ忍びしかど、つかへにしたがふ身には、そのほどにつけて、なすべき事ども多ければ、つひには財盡き、力窮まりて三十五歳といひし春に至りて、ありし事共書きあらはして、身のいとまを給はるべき由を申し聞え、したしかりしものどもには、かねてよりかく思ひたちし事を語りたりけるに、祿米あれば、饑ゑて死するまでの事はあらず。かくまで財力つきはてし人の、祿をも辭して去らむには、一日の饑をすくふべきたすけもあらじ。我が身こそかくまでおもひたち給ひたれば、いかにもおはすべきこととなれ。わかき妻、をさなき子どもの事をば、いかにし給ふべきなど、いふ事共ありしかど、頼みし人の不幸の事共おはしまさずば、我今までかくてはをるべからず。此の年頃堪へがたき事をも堪へ、忍びがたき事をも忍びしは、主となしまゐらせ從者となりし所を思ひしがゆゑなり。けふ祿辭し去りて、あすは妻拏等皆々はなれちりなむをもて、我がこゝろざしのほどは見ゆべき事ぞかし。天もしものしり給ふ事あらむには、それまでの事もあらじものをといひけり。總州もいかに思ひ給ひしにかあらむ。のたまひ出す旨もなく、春すぎ夏たけてのたまふ事どもありて、たゞいかにもして、我が家をさらむ事、思ひとゞまるべしとありしに、(此の使は太田垣といひし家の老たり)されど、また申す旨ありし程に、
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折たく柴の記・『折たく柴の記』母の死・達直の襲封・父の最期その年の五月八日に、我が妹は世をはやくす。我が父はうちつゞきにし物おもひに心地わづらはしくおはしましゝに、明けの年の五月七日になりて、こぞの事どもをいひ出してなげき給ひしが、たちまちにわづらひつかせ給ひ、同じき九日にはかなくなり給ひたりき。その後は、父のみひとり住み給ひしが、その明けの年の三月、豫州はつひに所領うしなひ給ひ、その子息に、かたばかりの所領充行はる。やがて子息のもとより、我に參るべきよしいひおこせられしかば、親父の勘氣のものゝ、參らむ事憚ありといひしに、其の憚あるべからずとありしかば、ゆきむかひしに、いまだ名もなくておはせしなり。おほやけに申すべき事あり。名の字撰びてまゐらすべしとありしほどに、達直と名づけ申す。(主稅と申ししころなり)こゝにおいて、我が仕のみちもおのづからひらけて、ある人のすゝめによりて、古河の少將正俊朝臣の家に出で仕へたりき。」これよりのちは、父をも心やすくやしなひまゐらすべしと思ひしに、その年の六月八日に、我がもとに來り給ひ、夜ひと夜かたりなぐさみ給ひてあけの日住み給ふ所に歸り給ひしに、其のあかつきよりわづらひ出し、給ふと聞えしかば、いそぎゆきむかひしに、事きれ給ふべきほどにて、某こそ參りて侍れと申しゝを聞給ひ、目をひらき御覽じて、手をさし出でて我が手をとり給ひ、ねぶるがごとくに終り給ひたりき。此の年我つかへにしたがひしより、わづかに百日にもたらずして、わかれまゐらせし事のかなしけれど、御あとの事ども、置く事なくして終り給ひしは、せめての幸におはせしなるべし。是の年八十二歳にておはしますたりき。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』高徳寺の幽居と城東の開講秋の初に至りて明卿生れたりけり。その程すぎて、つひに我が請ふ所をゆるさる。此の時におよびて、家に餘れる資財をはかり見しに、青銅三百と白米三升には過ぎず。よし〳〵忽に饑うるまでの事もあらじといひて、妻拏引具して、年比師檀のゆかりにつきて、高徳寺にゆき至り、やがて淺草のほとりに宅借りてうつれり。倘一僕一婢の相從ひしをも、めしつかふべきたすけもなし。いかにもなりゆけといひしに、おのれら習はぬわざをもなして、口もらふほどの事をばいとなみなむ。いかでか、離れまゐらすべきといふなり。かゝりしほどに、總州の舍弟の許より、(今の備後守俊普の御事)使して斯くて、おはせむほどは、一家の人やしなはれむ所をばまゐらすべしといひ送り給ひたりけり。(此の使は坪井といひて、家の老なりき)是は年比、學文の事などみち引きまゐらせし所を、思ひ給ひしが故なるべし。おもひがけぬ事も出で來たれば、其の秋の末に、居所を城東にうつしたりしに、來り學ぶもの日々に多く、しかるべき人々も、就きて學ばれしすくなからず。此の明の年、ある人の申ししは(谷といひし人)そこはもと、當時御覺もよからぬ人の家より出でて、しかも世に用ひられぬ人に、物まなび給ひぬれば、たとひ學優なりといふとも、身を起し給はむ事難かるべし。あはれ、其の學ぶ所をあらためて後榮をも期し給へかしといふ。はじめのほどは、打わらひてのみありしを、二たび三たびに至りて、いふ事やます。我がためあしからじとてこそ、かくはのたまふなれ。されど、のたまふ所のごときは、眞實は我がためよからむ事にもあらず。むかし孔門の人々の事は、聞きもおよび給ふらめ。もし其の師の時にあはざるがために、我が學べる所をあらたむべき道あらむには、彼の人々なにをくるしみてか、陳蔡の間にも相したがふ事のさぶらふべき。凡は人の生ずる所に報ゆるに、死を以てすべきもの三つ。いはゆる父と師と君と、ある所のまゝにて死を致すこれなり。我今父すでに死して、またつかふる所の君もなし。たゞ我が死を致すべき所は、師にて候ふもののひとりさぶらふなりと答へければ、其の後はいふ事もなかりき。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』白石の祖父と父 箸と侮りの戒め父にておはせし人は、四歳にして母におくれ、九歳にして父におくれ給ひしかば、父母の御事詳なる事は知らぬ也と仰せられき。我が祖父をば勘解由殿と申し、祖母にておはせし御事は染屋の何某の女なり。ふたりながら常陸國下妻庄にてうせ給ひぬ。新井といふは、もと上野國の源氏にて、染屋は、もと相模國の藤氏なるに、いかなる故によりてか、常陸國には移り給ひぬらむ。其の由をいひも傳ふる人あれど、まさしく父の仰せられざりし事とも、うけられぬ事也。父の仰せしは、我が父はいかなる故によりてか所領の地うしなひて、其の領せし地に引こもりておはせしといひしが、眼大きに鬚多くして、おそろしげなるが、死し給ふ比は、まだ白髮にはおはせざりしと覺えたりき。つねに物めしけるに、箸筒の黑くぬりしに、かきつばたの蒔繪をしたりしより、箸とりいでて、物めして、めし終りぬれば、箸をさめてかたはらにさしおき給ひしを、我をはぐゝみそだてし老婢のありしにとふに、すぎにし比の戰ひによき首とりて、大將の陣に參り給ひしに、戰つかれたるらむ。これ給はれとて、めしける膳をおし出して、その箸共に給はる。此の事、時の名譽なりしかば、今も身をはなし給はぬなりどいひき。それもいとけなき時に聞きにし事にて、いづれの時いかなる所の戰にて、大將は誰とかいひぬらむ、さだかならず。」たゞ一事今もおもひ出でたる事には、同じよはひの友とあそびの時に、人をあなづる事いふ人かなといひしを聞き給ひて、男子の侮をうくるは恥辱也、今のことばは戯なりといへども、みづから其の侮をうくるに似たり。然るべからずとのたまひたりき。」
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折たく柴の記・『折たく柴の記』母君の手仕事と父の致仕・禁錮我が母にておはせし人は、ものよくかき給ひしのみにあらず。歌の道をもつたへ習ひ給ひて、代々の集、または物語の類など、我があねいもうとによみをしへ給ひ、圍碁象棊なども堪能におはして、これらの事を我にをしへ給ひたりき。香爐箱のうちに、琴のつめを袋にし、いれおかれしを見し事あれば、これらの事をもすき給ひしにや。我が見まゐらせしよりは織り縫ふ事こそ、女のわざなれと仰せられて、年ごとにうつくしき筋のぬのと、いろ〳〵のあやあるきぬを、みづからも織り、人にも織らせて父にもめさせまゐらせ、我にも給はりたりしものは、今はわづかに殘れるあり。いやしきものゝことばに、似たるものゝ夫婦とはなるなりといふ事のあるが、物のたまひ、なし行ひ給ふ事どもの、父にておはせし人に、たがふ所なくてぞおはしましたりける。父の致仕し給ひし後には、これも髪おろし給ひて、佛の道をいみじくおこなひ、終り給ひし。年は六十三になり給ふと仰せられき。(延寶六年五月十日に終らせ給ひたりき。)父にておはせし人の、七十五歳の時に、戸部はうせ給ひたりけり。(延寶三年閏四月廿四日)そのうせ給ひし比に、我が父はいたくわづらひ給ひたりしが、希有にしてその病愈え給ひしかど、いかに思ひ給ふ所かおはしけむ。引こもり居給ひ、ひたすらに仕を致し申されたり。戸部のよつぎ豫州(頼直と申しき)年比の奉公の勞に報ゆる所なりとのたまひて、老養ふべきほどの祿給はりて、請ひ給ふ所をゆるされしかば、母にておはせし人と共に、かしらおろして、淺草の報恩寺中に、庵むすびて、住み給ひたりき。」其の明の年の冬、豫州の三從弟にて、家のおとなしてありし人の我が父としたしかりしが、豫州のふるまひよからぬ事どもをうれひて、子息にておはせし人をたてむと思ひたちしを、我が父の聞給ひ、事いまだなるべからずとしり給ひて、そのことわりをつくしてとゞめられしかど、其のいきほひやむべからざる事出で來て、一門の長者たちと相議りしに、はたして事敗れて、その人豫州のために逐れたりけり。我が父もその黨與なりなどいふ事にて、我をも仕の道を禁錮せられて彼の家をさりにき。(延寶五年二月廿二日の事也き)。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』新井家の家族と母君の出自我が父の、母にておはしましし人をむかへ給ひしは、四十にははるかに餘り給ひしほどの事なるべし。初に女子二人までおはせしに、二人ながら三歳にもたらずしてうせたまひ。(第一女はおまつ君、承應二年三月廿九日にうせ給ひ、第二女はおよね君、承應三年十二月廿三日にうせ給ふ)其の次も女子にて、十九歳にでうせ給ひしなり。(おてい君、寛文十一年正月十七日にうせ給ひぬ。)我が妹一人ありしも、十八歳にてうせにき。(おまてといふ。延寶五年五月八日にうせたりき。)我生れし事は、父は五十七歳、母は四十二歳になり給ひし時の事なり。(明曆三年丁酉二月なり。)我が母にておはせし人は、いかなる人の子にておはしけるにや、さだかならず。あねいもと二人おはしたりき。我ものごゝろをわきまへしより折にふれて外祖の御事をとひまゐらせしかど、人の親の、わが子につゝむ事あるべしやは。しらせ參らすべき事ならねばこそ、あらはし聞え侍らね。昔のやむでとなき人も、すぢなきものゝ腹にやどり給ふためしはいにしへも今も多かるものを、母の父母の御事しり給はぬとも、なにかはづかしき事あるべき。されど、年たけ給ひしのちは、思ひあはせ給ふ事もあるべければ、よしなき身なれども申すなり。みづからがおやおほぢの御事は、世にはしり給はぬ人もあらじ、信長記といふ者にも、うづもれぬ名のみ殘り給へりしか。又母かたのおほぢの、高麗の城を攻めとられし事をも、ある人の語りしを、よそながら聞きし事もこそありつれと、なきくどき給ひし事ありき。丹羽の宰相のむすめの、よめいられし時に、小上臈といふものになされて、淺野の家にゆき給ひしが、後には長生院といふあまぜの、陸奥の二本松といふ所におはしけるが、そのもとに歸り住み給ひしを、我が父のもとにむかへられしと聞えし。かのあまぜは、宰相のいもうとにて、古田大膳大夫の後室にておはせし。我いとけなき比も、その世におはせしほどは、おとづれのたえずありしを覺えたりき。我が母の兄御のかき給ひしものを、うせ給ひし後に、人の得させしなりとて、秘藏せさせ給ひしふみに、みづからの名を、坂上とばかりしるされたり。今はめづらしきほどの手かきにておはせし。よく我が母のかゝせ給ひしものに似給へり。殊に秘藏せさせ給ひしものなれは、母のかきおかせ給ひしものどもとおなじく今もあるなり。