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折たく柴の記 / 『折たく柴の記』高徳寺の幽居と城東の開講

秋の初に至りて明卿生れたりけり。その程すぎて、つひに我が請ふ所をゆるさる。此の時におよびて、家に餘れる資財をはかり見しに、青銅三百と白米三升には過ぎず。よし〳〵忽に饑うるまでの事もあらじといひて、妻拏引具して、年比師檀のゆかりにつきて、高徳寺にゆき至り、やがて淺草のほとりに宅借りてうつれり。倘一僕一婢の相從ひしをも、めしつかふべきたすけもなし。いかにもなりゆけといひしに、おのれら習はぬわざをもなして、口もらふほどの事をばいとなみなむ。いかでか、離れまゐらすべきといふなり。かゝりしほどに、總州の舍弟の許より、(今の備後守俊普の御事)使して斯くて、おはせむほどは、一家の人やしなはれむ所をばまゐらすべしといひ送り給ひたりけり。(此の使は坪井といひて、家の老なりき)是は年比、學文の事などみち引きまゐらせし所を、思ひ給ひしが故なるべし。おもひがけぬ事も出で來たれば、其の秋の末に、居所を城東にうつしたりしに、來り學ぶもの日々に多く、しかるべき人々も、就きて學ばれしすくなからず。此の明の年、ある人の申ししは(谷といひし人)そこはもと、當時御覺もよからぬ人の家より出でて、しかも世に用ひられぬ人に、物まなび給ひぬれば、たとひ學優なりといふとも、身を起し給はむ事難かるべし。あはれ、其の學ぶ所をあらためて後榮をも期し給へかしといふ。はじめのほどは、打わらひてのみありしを、二たび三たびに至りて、いふ事やます。我がためあしからじとてこそ、かくはのたまふなれ。されど、のたまふ所のごときは、眞實は我がためよからむ事にもあらず。むかし孔門の人々の事は、聞きもおよび給ふらめ。もし其の師の時にあはざるがために、我が學べる所をあらたむべき道あらむには、彼の人々なにをくるしみてか、陳蔡の間にも相したがふ事のさぶらふべき。凡は人の生ずる所に報ゆるに、死を以てすべきもの三つ。いはゆる父と師と君と、ある所のまゝにて死を致すこれなり。我今父すでに死して、またつかふる所の君もなし。たゞ我が死を致すべき所は、師にて候ふもののひとりさぶらふなりと答へければ、其の後はいふ事もなかりき。

新字:秋の初に至りて明卿生れたりけり。その程すぎて、つひに我が請ふ所をゆるさる。此の時におよびて、家に余れる資財をはかり見しに、青銅三百と白米三升には過ぎず。よし〳〵忽に饑うるまでの事もあらじといひて、妻拏引具して、年比師檀のゆかりにつきて、高徳寺にゆき至り、やがて浅草のほとりに宅借りてうつれり。倘一僕一婢の相従ひしをも、めしつかふべきたすけもなし。いかにもなりゆけといひしに、おのれら習はぬわざをもなして、口もらふほどの事をばいとなみなむ。いかでか、離れまゐらすべきといふなり。かゝりしほどに、総州の舎弟の許より、(今の備後守俊普の御事)使して斯くて、おはせむほどは、一家の人やしなはれむ所をばまゐらすべしといひ送り給ひたりけり。(此の使は坪井といひて、家の老なりき)是は年比、学文の事などみち引きまゐらせし所を、思ひ給ひしが故なるべし。おもひがけぬ事も出で来たれば、其の秋の末に、居所を城東にうつしたりしに、来り学ぶもの日々に多く、しかるべき人々も、就きて学ばれしすくなからず。此の明の年、ある人の申ししは(谷といひし人)そこはもと、当時御覚もよからぬ人の家より出でて、しかも世に用ひられぬ人に、物まなび給ひぬれば、たとひ学優なりといふとも、身を起し給はむ事難かるべし。あはれ、其の学ぶ所をあらためて後栄をも期し給へかしといふ。はじめのほどは、打わらひてのみありしを、二たび三たびに至りて、いふ事やます。我がためあしからじとてこそ、かくはのたまふなれ。されど、のたまふ所のごときは、真実は我がためよからむ事にもあらず。むかし孔門の人々の事は、聞きもおよび給ふらめ。もし其の師の時にあはざるがために、我が学べる所をあらたむべき道あらむには、彼の人々なにをくるしみてか、陳蔡の間にも相したがふ事のさぶらふべき。凡は人の生ずる所に報ゆるに、死を以てすべきもの三つ。いはゆる父と師と君と、ある所のまゝにて死を致すこれなり。我今父すでに死して、またつかふる所の君もなし。たゞ我が死を致すべき所は、師にて候ふもののひとりさぶらふなりと答へければ、其の後はいふ事もなかりき。

書き下し

秋の初に至りて明卿生れたりけり。その程すぎて、つひに我が請ふ所をゆるさる。此の時におよびて、家に餘れる資財をはかり見しに、青銅三百と白米三升には過ぎず。よし〳〵忽に饑うるまでの事もあらじといひて、妻拏引具して、年比師檀のゆかりにつきて、高徳寺にゆき至り、やがて淺草のほとりに宅借りてうつれり。倘一僕一婢の相從ひしをも、めしつかふべきたすけもなし。いかにもなりゆけといひしに、おのれら習はぬわざをもなして、口もらふほどの事をばいとなみなむ。いかでか、離れまゐらすべきといふなり。かゝりしほどに、總州の舍弟の許より、(今の備後守俊普の御事)使して斯くて、おはせむほどは、一家の人やしなはれむ所をばまゐらすべしといひ送り給ひたりけり。(此の使は坪井といひて、家の老なりき)是は年比、學文の事などみち引きまゐらせし所を、思ひ給ひしが故なるべし。おもひがけぬ事も出で來たれば、其の秋の末に、居所を城東にうつしたりしに、來り學ぶもの日々に多く、しかるべき人々も、就きて學ばれしすくなからず。此の明の年、ある人の申ししは(谷といひし人)そこはもと、當時御覺もよからぬ人の家より出でて、しかも世に用ひられぬ人に、物まなび給ひぬれば、たとひ學優なりといふとも、身を起し給はむ事難かるべし。あはれ、其の學ぶ所をあらためて後榮をも期し給へかしといふ。はじめのほどは、打わらひてのみありしを、二たび三たびに至りて、いふ事やます。我がためあしからじとてこそ、かくはのたまふなれ。されど、のたまふ所のごときは、眞實は我がためよからむ事にもあらず。むかし孔門の人々の事は、聞きもおよび給ふらめ。もし其の師の時にあはざるがために、我が學べる所をあらたむべき道あらむには、彼の人々なにをくるしみてか、陳蔡の間にも相したがふ事のさぶらふべき。凡は人の生ずる所に報ゆるに、死を以てすべきもの三つ。いはゆる父と師と君と、ある所のまゝにて死を致すこれなり。我今父すでに死して、またつかふる所の君もなし。たゞ我が死を致すべき所は、師にて候ふもののひとりさぶらふなりと答へければ、其の後はいふ事もなかりき。

現代語訳

秋の初めに至って、明卿(長男)が生まれた。その時分を過ぎて、ついに私の願いが許された。この時に及んで、家に余っている資財を数えてみたところ、青銅三百と白米三升に過ぎなかった。まあよい、すぐに飢えるまでのことはあるまいと言って、妻子を引き連れて、年頃師と檀家の縁につながる高徳寺に行き着き、やがて浅草のあたりに家を借りて移った。なお一人の下男と一人の下女が付き従っていたが、召し使う手立てもない。どうなりとなれと言ったところ、「私どもは慣れない仕事をもして、口を養うほどのことは営みましょう。どうしてお離れ申せましょう」と言うのである。そうしているうちに、総州の弟の許から(今の備後守俊普のことである)使いがあって、「こうしておいでの間は、一家の人が養われるだけのものを差し上げよう」と言ってよこされた。(この使いは坪井といって、家の老であった。)これは、年来、学問のことなどで導き申し上げたことを、思ってくださったからであろう。思いがけないことも起こったので、その秋の末に、居所を城東に移したところ、来て学ぶ者が日々に多く、しかるべき人々も、私に就いて学ばれることが少なくなかった。その翌年、ある人(谷といった人)が言うには、「あなたはもと、当今お覚えのよくない人の家から出て、しかも世に用いられていない人に学んでおられるので、たとえ学が優れているといっても、身を立てることは難しいだろう。どうか学ぶ所を改めて、後の栄えを期されよ」という。初めのうちは笑って聞き流していたが、二度三度に至っても言うのをやめない。「私のために悪くはあるまいと思って、このようにおっしゃるのでしょう。しかし、おっしゃるようなことは、真実は私のためによいことでもありません。昔の孔子の門人たちのことは、お聞き及びでしょう。もしその師が時に合わないために、自分の学ぶ所を改める道があるのなら、あの人々は、何を苦しんで、陳と蔡の間でも付き従うことがあったでしょうか。およそ人が生を受けた所に報いるに、死をもってすべきものが三つあります。いわゆる父と師と君で、その人のあるがままに死を致すのがそれです。私は今、父はすでに死に、またお仕えする君もありません。ただ私が死を致すべき所は、師である人がただ一人おられるばかりです」と答えたところ、その後は言うこともなかった。

解説

致仕のあとの白石は、資財が青銅三百と白米三升という状態から、浅草での借家暮らしを始めます。それでも下男と下女は離れず、堀田家の分家筋からも扶助が届きました。かつて学問を導いた縁が、苦しい時に返ってきたのです。城東で教え始めると、学ぶ者が日々に増えました。そこで、時流に乗らない師を捨てて学ぶ所を改めよという忠告を、孔子の門人が陳蔡の間でも師に従った故事を引いて退けます。時流から外れた師に従うことが損か得かではなく、報いるべき相手を決めているという態度です。信頼を得る人の軸が見えます。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

高徳寺浅草城東開講陳蔡父と師と君

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