折たく柴の記 / 『折たく柴の記』母君の手仕事と父の致仕・禁錮
我が母にておはせし人は、ものよくかき給ひしのみにあらず。歌の道をもつたへ習ひ給ひて、代々の集、または物語の類など、我があねいもうとによみをしへ給ひ、圍碁象棊なども堪能におはして、これらの事を我にをしへ給ひたりき。香爐箱のうちに、琴のつめを袋にし、いれおかれしを見し事あれば、これらの事をもすき給ひしにや。我が見まゐらせしよりは織り縫ふ事こそ、女のわざなれと仰せられて、年ごとにうつくしき筋のぬのと、いろ〳〵のあやあるきぬを、みづからも織り、人にも織らせて父にもめさせまゐらせ、我にも給はりたりしものは、今はわづかに殘れるあり。いやしきものゝことばに、似たるものゝ夫婦とはなるなりといふ事のあるが、物のたまひ、なし行ひ給ふ事どもの、父にておはせし人に、たがふ所なくてぞおはしましたりける。父の致仕し給ひし後には、これも髪おろし給ひて、佛の道をいみじくおこなひ、終り給ひし。年は六十三になり給ふと仰せられき。(延寶六年五月十日に終らせ給ひたりき。)父にておはせし人の、七十五歳の時に、戸部はうせ給ひたりけり。(延寶三年閏四月廿四日)そのうせ給ひし比に、我が父はいたくわづらひ給ひたりしが、希有にしてその病愈え給ひしかど、いかに思ひ給ふ所かおはしけむ。引こもり居給ひ、ひたすらに仕を致し申されたり。戸部のよつぎ豫州(頼直と申しき)年比の奉公の勞に報ゆる所なりとのたまひて、老養ふべきほどの祿給はりて、請ひ給ふ所をゆるされしかば、母にておはせし人と共に、かしらおろして、淺草の報恩寺中に、庵むすびて、住み給ひたりき。」其の明の年の冬、豫州の三從弟にて、家のおとなしてありし人の我が父としたしかりしが、豫州のふるまひよからぬ事どもをうれひて、子息にておはせし人をたてむと思ひたちしを、我が父の聞給ひ、事いまだなるべからずとしり給ひて、そのことわりをつくしてとゞめられしかど、其のいきほひやむべからざる事出で來て、一門の長者たちと相議りしに、はたして事敗れて、その人豫州のために逐れたりけり。我が父もその黨與なりなどいふ事にて、我をも仕の道を禁錮せられて彼の家をさりにき。(延寶五年二月廿二日の事也き)。
新字:我が母にておはせし人は、ものよくかき給ひしのみにあらず。歌の道をもつたへ習ひ給ひて、代々の集、または物語の類など、我があねいもうとによみをしへ給ひ、囲碁象棋なども堪能におはして、これらの事を我にをしへ給ひたりき。香炉箱のうちに、琴のつめを袋にし、いれおかれしを見し事あれば、これらの事をもすき給ひしにや。我が見まゐらせしよりは織り縫ふ事こそ、女のわざなれと仰せられて、年ごとにうつくしき筋のぬのと、いろ〳〵のあやあるきぬを、みづからも織り、人にも織らせて父にもめさせまゐらせ、我にも給はりたりしものは、今はわづかに残れるあり。いやしきものゝことばに、似たるものゝ夫婦とはなるなりといふ事のあるが、物のたまひ、なし行ひ給ふ事どもの、父にておはせし人に、たがふ所なくてぞおはしましたりける。父の致仕し給ひし後には、これも髪おろし給ひて、仏の道をいみじくおこなひ、終り給ひし。年は六十三になり給ふと仰せられき。(延宝六年五月十日に終らせ給ひたりき。)父にておはせし人の、七十五歳の時に、戸部はうせ給ひたりけり。(延宝三年閏四月廿四日)そのうせ給ひし比に、我が父はいたくわづらひ給ひたりしが、希有にしてその病愈え給ひしかど、いかに思ひ給ふ所かおはしけむ。引こもり居給ひ、ひたすらに仕を致し申されたり。戸部のよつぎ予州(頼直と申しき)年比の奉公の労に報ゆる所なりとのたまひて、老養ふべきほどの禄給はりて、請ひ給ふ所をゆるされしかば、母にておはせし人と共に、かしらおろして、浅草の報恩寺中に、庵むすびて、住み給ひたりき。」其の明の年の冬、予州の三従弟にて、家のおとなしてありし人の我が父としたしかりしが、予州のふるまひよからぬ事どもをうれひて、子息にておはせし人をたてむと思ひたちしを、我が父の聞給ひ、事いまだなるべからずとしり給ひて、そのことわりをつくしてとゞめられしかど、其のいきほひやむべからざる事出で来て、一門の長者たちと相議りしに、はたして事敗れて、その人予州のために逐れたりけり。我が父もその党与なりなどいふ事にて、我をも仕の道を禁錮せられて彼の家をさりにき。(延宝五年二月廿二日の事也き)。
書き下し
我が母にておはせし人は、ものよくかき給ひしのみにあらず。歌の道をもつたへ習ひ給ひて、代々の集、または物語の類など、我があねいもうとによみをしへ給ひ、圍碁象棊なども堪能におはして、これらの事を我にをしへ給ひたりき。香爐箱のうちに、琴のつめを袋にし、いれおかれしを見し事あれば、これらの事をもすき給ひしにや。我が見まゐらせしよりは織り縫ふ事こそ、女のわざなれと仰せられて、年ごとにうつくしき筋のぬのと、いろ〳〵のあやあるきぬを、みづからも織り、人にも織らせて父にもめさせまゐらせ、我にも給はりたりしものは、今はわづかに殘れるあり。いやしきものゝことばに、似たるものゝ夫婦とはなるなりといふ事のあるが、物のたまひ、なし行ひ給ふ事どもの、父にておはせし人に、たがふ所なくてぞおはしましたりける。父の致仕し給ひし後には、これも髪おろし給ひて、佛の道をいみじくおこなひ、終り給ひし。年は六十三になり給ふと仰せられき。(延寶六年五月十日に終らせ給ひたりき。)父にておはせし人の、七十五歳の時に、戸部はうせ給ひたりけり。(延寶三年閏四月廿四日)そのうせ給ひし比に、我が父はいたくわづらひ給ひたりしが、希有にしてその病愈え給ひしかど、いかに思ひ給ふ所かおはしけむ。引こもり居給ひ、ひたすらに仕を致し申されたり。戸部のよつぎ豫州(頼直と申しき)年比の奉公の勞に報ゆる所なりとのたまひて、老養ふべきほどの祿給はりて、請ひ給ふ所をゆるされしかば、母にておはせし人と共に、かしらおろして、淺草の報恩寺中に、庵むすびて、住み給ひたりき。」其の明の年の冬、豫州の三從弟にて、家のおとなしてありし人の我が父としたしかりしが、豫州のふるまひよからぬ事どもをうれひて、子息にておはせし人をたてむと思ひたちしを、我が父の聞給ひ、事いまだなるべからずとしり給ひて、そのことわりをつくしてとゞめられしかど、其のいきほひやむべからざる事出で來て、一門の長者たちと相議りしに、はたして事敗れて、その人豫州のために逐れたりけり。我が父もその黨與なりなどいふ事にて、我をも仕の道を禁錮せられて彼の家をさりにき。(延寶五年二月廿二日の事也き)。
現代語訳
我が母であった人は、字をよく書かれたばかりでなく、歌の道も伝え習われて、歴代の歌集や物語の類などを、自分の姉や妹に読み教えられ、囲碁や象棋なども堪能でいらして、これらのことを自分に教えてくださった。香炉箱の中に、琴爪を袋に入れて置かれていたのを見たことがあるので、琴などもお好みだったのだろうか。自分が見知って以来、織ったり縫ったりすることこそ女の仕事であると仰せになって、毎年美しい縞の布と、さまざまな綾模様のある絹を、自らも織り、人にも織らせて、父にも召させ、自分にも下さったものは、今もわずかに残っているものがある。卑しい者の言葉に、似た者が夫婦となるというものがあるが、(母の)ものの仰せになり、お行いになることなども、父であった人と違うところなく同じでいらっしゃった。父が致仕されたのちには、(母も)髪をおろされて、仏の道をひたすら修行され、お亡くなりになった。年は六十三になられたと、父君はおっしゃった。(延宝六年五月十日にお亡くなりになった。)父であった人が七十五歳のとき、戸部は亡くなられた。(延宝三年閏四月二十四日)そのお亡くなりになったころ、我が父は重く患われたが、危うく助かってその病は治られたものの、どう思われたのか、引きこもって、ひたすら仕えを辞したいと申し出られた。戸部の跡継ぎ豫州(頼直と申した)は、長年の奉公の働きに報いるものだと仰せになって、老後を養えるほどの禄をくださり、願い出たところを許されたので、母君と共に髪をおろして、浅草の報恩寺の境内に庵を結んで住まわれた。その翌年の冬、豫州の又従弟で家老をしていた人が、我が父と親しかったが、豫州の振る舞いのよくないことを憂えて、その子息に当たる方を(当主に)立てようと思い立ったのを、我が父が聞かれて、事はまだ成るはずがないと知り、その道理を尽くして押しとどめられたが、その勢いは止められないことになって、一門の長老たちと相談したところ、はたして事は破れ、その人は豫州のために追われたのであった。我が父もその一味であるということで、自分も仕官の道を禁じられ、あの家を去った。(延宝五年二月二十二日のことであった)
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』勘気が解けた後、戸部の死去此の時たとひ、戸部が勘氣をゆるし給ふとも、我が父の對面をばゆるし給ふまじければ、此の事をかなしく思ひしに、其の後戸部の我をもとのごとくにめし出されしに至りて、我が父も悦び給ふ事大かたならず。その勘氣かうぶりし事など、のたまひ出す事もなく、心得ぬ事と思ひしに、後に聞きしに、かの關といひし老人のもとより、かの時に我がゆきたすけむとせし事、またその子息と問答せし事などつぶさに文にしるして贈りしを、我が父のこれ見給へども、母にておはせし人にも見せたまひたりき。此の事によりて、心もとけ給ひたるにこそと、我が母ののたまひたりけれ。今思ひ合するに、かゝるさわぎの出で來りしも、戸部の家滅びなむ事のきざしにやありしと、うたてかりし事なりけり。戸部のうせ給ひて、嫡子にておはせし豫州は家つがれたり。此の人つひに家滅ぼされしほどの事なれば、戸部の心にもかなひ給はず。我がいとけなかりし頃までは、父子對面の事もおはしけれど、其の後は正月元日の見參より外は、對面の儀もあらず。一門の人々は、庶子のおはせしを愛して、それを立てられむとの事にやとうたがはれて、豫州のよからぬ事どもはしられず。また豫州その妻室を去られしのちに、出で來し男ありしを、戸部の上總國につかはしてひとゝなされ、十二三に及ばれしをこゝに迎へて、一門の人々にも見せむとし給ひしを、豫州は此の子して家つがせむと、思ひ給ふと心得て、事を左右によせて、むかへらるゝにも及はす。戸部の病急なるにのぞみて、はじめてよびむかへられき。戸部は、われ死しなば、我が家はほろぶべきかとのたまひつゝ、遂にうせ給ひぬ。
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