折たく柴の記 / 『折たく柴の記』母の死・達直の襲封・父の最期
その年の五月八日に、我が妹は世をはやくす。我が父はうちつゞきにし物おもひに心地わづらはしくおはしましゝに、明けの年の五月七日になりて、こぞの事どもをいひ出してなげき給ひしが、たちまちにわづらひつかせ給ひ、同じき九日にはかなくなり給ひたりき。その後は、父のみひとり住み給ひしが、その明けの年の三月、豫州はつひに所領うしなひ給ひ、その子息に、かたばかりの所領充行はる。やがて子息のもとより、我に參るべきよしいひおこせられしかば、親父の勘氣のものゝ、參らむ事憚ありといひしに、其の憚あるべからずとありしかば、ゆきむかひしに、いまだ名もなくておはせしなり。おほやけに申すべき事あり。名の字撰びてまゐらすべしとありしほどに、達直と名づけ申す。(主稅と申ししころなり)こゝにおいて、我が仕のみちもおのづからひらけて、ある人のすゝめによりて、古河の少將正俊朝臣の家に出で仕へたりき。」これよりのちは、父をも心やすくやしなひまゐらすべしと思ひしに、その年の六月八日に、我がもとに來り給ひ、夜ひと夜かたりなぐさみ給ひてあけの日住み給ふ所に歸り給ひしに、其のあかつきよりわづらひ出し、給ふと聞えしかば、いそぎゆきむかひしに、事きれ給ふべきほどにて、某こそ參りて侍れと申しゝを聞給ひ、目をひらき御覽じて、手をさし出でて我が手をとり給ひ、ねぶるがごとくに終り給ひたりき。此の年我つかへにしたがひしより、わづかに百日にもたらずして、わかれまゐらせし事のかなしけれど、御あとの事ども、置く事なくして終り給ひしは、せめての幸におはせしなるべし。是の年八十二歳にておはしますたりき。
新字:その年の五月八日に、我が妹は世をはやくす。我が父はうちつゞきにし物おもひに心地わづらはしくおはしましゝに、明けの年の五月七日になりて、こぞの事どもをいひ出してなげき給ひしが、たちまちにわづらひつかせ給ひ、同じき九日にはかなくなり給ひたりき。その後は、父のみひとり住み給ひしが、その明けの年の三月、予州はつひに所領うしなひ給ひ、その子息に、かたばかりの所領充行はる。やがて子息のもとより、我に参るべきよしいひおこせられしかば、親父の勘気のものゝ、参らむ事憚ありといひしに、其の憚あるべからずとありしかば、ゆきむかひしに、いまだ名もなくておはせしなり。おほやけに申すべき事あり。名の字撰びてまゐらすべしとありしほどに、達直と名づけ申す。(主税と申ししころなり)こゝにおいて、我が仕のみちもおのづからひらけて、ある人のすゝめによりて、古河の少将正俊朝臣の家に出で仕へたりき。」これよりのちは、父をも心やすくやしなひまゐらすべしと思ひしに、その年の六月八日に、我がもとに来り給ひ、夜ひと夜かたりなぐさみ給ひてあけの日住み給ふ所に帰り給ひしに、其のあかつきよりわづらひ出し、給ふと聞えしかば、いそぎゆきむかひしに、事きれ給ふべきほどにて、某こそ参りて侍れと申しゝを聞給ひ、目をひらき御覧じて、手をさし出でて我が手をとり給ひ、ねぶるがごとくに終り給ひたりき。此の年我つかへにしたがひしより、わづかに百日にもたらずして、わかれまゐらせし事のかなしけれど、御あとの事ども、置く事なくして終り給ひしは、せめての幸におはせしなるべし。是の年八十二歳にておはしますたりき。
書き下し
その年の五月八日に、我が妹は世をはやくす。我が父はうちつゞきにし物おもひに心地わづらはしくおはしましゝに、明けの年の五月七日になりて、こぞの事どもをいひ出してなげき給ひしが、たちまちにわづらひつかせ給ひ、同じき九日にはかなくなり給ひたりき。その後は、父のみひとり住み給ひしが、その明けの年の三月、豫州はつひに所領うしなひ給ひ、その子息に、かたばかりの所領充行はる。やがて子息のもとより、我に參るべきよしいひおこせられしかば、親父の勘氣のものゝ、參らむ事憚ありといひしに、其の憚あるべからずとありしかば、ゆきむかひしに、いまだ名もなくておはせしなり。おほやけに申すべき事あり。名の字撰びてまゐらすべしとありしほどに、達直と名づけ申す。(主稅と申ししころなり)こゝにおいて、我が仕のみちもおのづからひらけて、ある人のすゝめによりて、古河の少將正俊朝臣の家に出で仕へたりき。」これよりのちは、父をも心やすくやしなひまゐらすべしと思ひしに、その年の六月八日に、我がもとに來り給ひ、夜ひと夜かたりなぐさみ給ひてあけの日住み給ふ所に歸り給ひしに、其のあかつきよりわづらひ出し、給ふと聞えしかば、いそぎゆきむかひしに、事きれ給ふべきほどにて、某こそ參りて侍れと申しゝを聞給ひ、目をひらき御覽じて、手をさし出でて我が手をとり給ひ、ねぶるがごとくに終り給ひたりき。此の年我つかへにしたがひしより、わづかに百日にもたらずして、わかれまゐらせし事のかなしけれど、御あとの事ども、置く事なくして終り給ひしは、せめての幸におはせしなるべし。是の年八十二歳にておはしますたりき。
現代語訳
その年の五月八日に、我が妹は早世した。我が母は続けざまの物思いに気分が悪くおられたが、翌年の五月七日になって、昨年のことどもを言い出して嘆かれ、たちまち病の床につかれ、同じ九日にお亡くなりになった。その後は、父だけが一人で住まれていたが、その翌年の三月、豫州はついに所領を失われ、その子息に、ほんの形ばかりの所領が与えられた。やがて子息のもとから、自分に参るようにと言ってよこされたので、親父の勘当を受けた者が参ることは憚りがありますと言ったところ、その憚りはあってはならないと言われたので、行ってみると、まだ名もなくておられた。公に申し上げなければならないことがある。名の字を選んで差し上げよとのことだったので、達直と名づけ申し上げた。(主税と申されたころである)これによって、自分の仕官の道もおのずから開けて、ある人の勧めにより、古河の少将正俊朝臣の家に出て仕えた。これより後は、父を心安く養い申し上げようと思ったのに、その年の六月八日に、自分のところに来られ、一晩中語り慰め合われ、明くる日住まいに帰られたが、その明け方から患い出されたと聞こえたので、急いで行って向かうと、息が絶えようとするところで、某が参りましたと申し上げるのを聞かれ、目を開いてご覧になり、手を差し出して自分の手をとられ、眠るように亡くなられた。この年、自分が仕えに従ってから、わずか百日にも足りないうちに、お別れ申し上げたことの悲しさはあるが、後のことなどを心残りなくして終えられたのは、せめてもの幸いであったのだろう。この年、八十二歳でいらっしゃった。
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』母君の手仕事と父の致仕・禁錮我が母にておはせし人は、ものよくかき給ひしのみにあらず。歌の道をもつたへ習ひ給ひて、代々の集、または物語の類など、我があねいもうとによみをしへ給ひ、圍碁象棊なども堪能におはして、これらの事を我にをしへ給ひたりき。香爐箱のうちに、琴のつめを袋にし、いれおかれしを見し事あれば、これらの事をもすき給ひしにや。我が見まゐらせしよりは織り縫ふ事こそ、女のわざなれと仰せられて、年ごとにうつくしき筋のぬのと、いろ〳〵のあやあるきぬを、みづからも織り、人にも織らせて父にもめさせまゐらせ、我にも給はりたりしものは、今はわづかに殘れるあり。いやしきものゝことばに、似たるものゝ夫婦とはなるなりといふ事のあるが、物のたまひ、なし行ひ給ふ事どもの、父にておはせし人に、たがふ所なくてぞおはしましたりける。父の致仕し給ひし後には、これも髪おろし給ひて、佛の道をいみじくおこなひ、終り給ひし。年は六十三になり給ふと仰せられき。(延寶六年五月十日に終らせ給ひたりき。)父にておはせし人の、七十五歳の時に、戸部はうせ給ひたりけり。(延寶三年閏四月廿四日)そのうせ給ひし比に、我が父はいたくわづらひ給ひたりしが、希有にしてその病愈え給ひしかど、いかに思ひ給ふ所かおはしけむ。引こもり居給ひ、ひたすらに仕を致し申されたり。戸部のよつぎ豫州(頼直と申しき)年比の奉公の勞に報ゆる所なりとのたまひて、老養ふべきほどの祿給はりて、請ひ給ふ所をゆるされしかば、母にておはせし人と共に、かしらおろして、淺草の報恩寺中に、庵むすびて、住み給ひたりき。」其の明の年の冬、豫州の三從弟にて、家のおとなしてありし人の我が父としたしかりしが、豫州のふるまひよからぬ事どもをうれひて、子息にておはせし人をたてむと思ひたちしを、我が父の聞給ひ、事いまだなるべからずとしり給ひて、そのことわりをつくしてとゞめられしかど、其のいきほひやむべからざる事出で來て、一門の長者たちと相議りしに、はたして事敗れて、その人豫州のために逐れたりけり。我が父もその黨與なりなどいふ事にて、我をも仕の道を禁錮せられて彼の家をさりにき。(延寶五年二月廿二日の事也き)。
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