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折たく柴の記 / 『折たく柴の記』堪忍と貨色の二戒、父祖の家訓

父にておはせし人の、八十に餘りて終り給ひし迄、何事も我が幼より見まゐらせたりしに、かはり給ふ所のおはしまさぬは、天性うけ得給ふ所の、人にこえすぐれ給ひしによりしなるべけれど、またつねの行によりて、其の德の衰へ給はぬが故とぞ覺ゆる。我が物覺えしより、敎へ給ひし事ども多かりしうちに、つねに思て出でらるゝ事は、男兒はたゞ事に堪ふることを習ふべきなり。これを習ふべき事は、何事にもあれ、我がきはめて堪へがたく思ふ事より堪へはじめぬれば、久しくしては、さのみは難事と思ふ事はあるべからざるなりと仰せられき。我八九歳の頃より、常に此の事によりて、力を得し事も多けれど、もとより我性急に生れ得しかば、怒の一つのみぞ、堪へがたき事もありし。されどそれも、幸に世の中の嶮岨の中をわたりて、すでに年と共に力衰へたりしかば、今はむかしのごとくにはあらぬにや。我が後の人々、此の事父祖の家訓なりとおもひて、よろづの事に此の心得あらむこそ、願はしき事なれ。又敎へ給ひし事に、我十三の時に、國をさりてより、つねに他人の中にして、ひとゝなりたり。されば、したしくいひかたらひしものども多かりし中に、つひにそのまじはりを全くせし事は、我がつゝしみし所、ただ二つありき。いはゆる貨と色との二つなり。我年比多くの人を見じにおの〳〵うまれ得る所の同じからぬは、其の人となれる所も、またおのおの同じからねど、彼二つの欲なき人のみ、かしこにありても、こゝにありても、人にいとはるゝ事はなきものなりと仰せられき。後にまた我が師にてありし人も、ふるき人の申しゝ事あり。貨と色との二つによりて、怨を結びし事は、つひにとけぬものなりと申しき。心得べき事なりと仰せられき。わかきも老いたるも、よく〳〵戒め思ふべき事なり。

新字:父にておはせし人の、八十に余りて終り給ひし迄、何事も我が幼より見まゐらせたりしに、かはり給ふ所のおはしまさぬは、天性うけ得給ふ所の、人にこえすぐれ給ひしによりしなるべけれど、またつねの行によりて、其の徳の衰へ給はぬが故とぞ覚ゆる。我が物覚えしより、教へ給ひし事ども多かりしうちに、つねに思て出でらるゝ事は、男児はたゞ事に堪ふることを習ふべきなり。これを習ふべき事は、何事にもあれ、我がきはめて堪へがたく思ふ事より堪へはじめぬれば、久しくしては、さのみは難事と思ふ事はあるべからざるなりと仰せられき。我八九歳の頃より、常に此の事によりて、力を得し事も多けれど、もとより我性急に生れ得しかば、怒の一つのみぞ、堪へがたき事もありし。されどそれも、幸に世の中の嶮岨の中をわたりて、すでに年と共に力衰へたりしかば、今はむかしのごとくにはあらぬにや。我が後の人々、此の事父祖の家訓なりとおもひて、よろづの事に此の心得あらむこそ、願はしき事なれ。又教へ給ひし事に、我十三の時に、国をさりてより、つねに他人の中にして、ひとゝなりたり。されば、したしくいひかたらひしものども多かりし中に、つひにそのまじはりを全くせし事は、我がつゝしみし所、ただ二つありき。いはゆる貨と色との二つなり。我年比多くの人を見じにおの〳〵うまれ得る所の同じからぬは、其の人となれる所も、またおのおの同じからねど、彼二つの欲なき人のみ、かしこにありても、こゝにありても、人にいとはるゝ事はなきものなりと仰せられき。後にまた我が師にてありし人も、ふるき人の申しゝ事あり。貨と色との二つによりて、怨を結びし事は、つひにとけぬものなりと申しき。心得べき事なりと仰せられき。わかきも老いたるも、よく〳〵戒め思ふべき事なり。

書き下し

父にておはせし人の、八十に餘りて終り給ひし迄、何事も我が幼より見まゐらせたりしに、かはり給ふ所のおはしまさぬは、天性うけ得給ふ所の、人にこえすぐれ給ひしによりしなるべけれど、またつねの行によりて、其の德の衰へ給はぬが故とぞ覺ゆる。我が物覺えしより、敎へ給ひし事ども多かりしうちに、つねに思て出でらるゝ事は、男兒はたゞ事に堪ふることを習ふべきなり。これを習ふべき事は、何事にもあれ、我がきはめて堪へがたく思ふ事より堪へはじめぬれば、久しくしては、さのみは難事と思ふ事はあるべからざるなりと仰せられき。我八九歳の頃より、常に此の事によりて、力を得し事も多けれど、もとより我性急に生れ得しかば、怒の一つのみぞ、堪へがたき事もありし。されどそれも、幸に世の中の嶮岨の中をわたりて、すでに年と共に力衰へたりしかば、今はむかしのごとくにはあらぬにや。我が後の人々、此の事父祖の家訓なりとおもひて、よろづの事に此の心得あらむこそ、願はしき事なれ。又敎へ給ひし事に、我十三の時に、國をさりてより、つねに他人の中にして、ひとゝなりたり。されば、したしくいひかたらひしものども多かりし中に、つひにそのまじはりを全くせし事は、我がつゝしみし所、ただ二つありき。いはゆる貨と色との二つなり。我年比多くの人を見じにおの〳〵うまれ得る所の同じからぬは、其の人となれる所も、またおのおの同じからねど、彼二つの欲なき人のみ、かしこにありても、こゝにありても、人にいとはるゝ事はなきものなりと仰せられき。後にまた我が師にてありし人も、ふるき人の申しゝ事あり。貨と色との二つによりて、怨を結びし事は、つひにとけぬものなりと申しき。心得べき事なりと仰せられき。わかきも老いたるも、よく〳〵戒め思ふべき事なり。

現代語訳

父であった人が、八十を過ぎてお亡くなりになるまで、何事も自分が幼いころから拝見していたが、お変わりになるところがなかったのは、生まれつき授かられたものが人に超えすぐれておられたためであろうが、また日ごろの行いによって、その徳が衰えなかったからだとも思われる。自分が物心ついてから、教えられたことは多かった中で、つねに思い出されることは、男子はただ堪えることを習うべきである。これを習うには、何事であれ、自分がきわめて堪えがたいと思うことから堪え始めれば、久しくするうちに、それほどの難事と思うことはなくなるものだと仰せられた。自分は八、九歳のころから、つねにこの教えによって力を得たことも多かったが、もとより性急に生まれついたので、怒りの一つだけは、堪えがたいこともあった。けれどもそれも、幸いに世の中の険しい道を渡ってきて、すでに年とともに力が衰えたので、今は昔のようではなくなったのだろうか。自分の後の人々は、このことを父祖の家訓と思って、あらゆることにこの心得があることこそ願わしいことである。また教えられたことに、自分は十三のときに国を去ってから、つねに他人の中で成長した。だから、親しく語り合った者は多かったが、その中で最後まで交わりを全うできたのは、自分が慎んだことがただ二つあったからである。いわゆる貨と色の二つである。自分は年ごろ多くの人を見てきたが、人はそれぞれ生まれつきの質が同じでないので、成人してからの人となりもそれぞれ同じではないけれど、その二つの欲がない人だけは、あちらにいても、こちらにいても、人に嫌われることはないものだと仰せられた。後にまた我が師であった人も、古い人が言ったことがある、貨と色の二つによって怨みを結んだことは、ついに解けないものだと申した、心得るべきことだと仰せられた。若い者も老いた者も、よくよく戒め思うべきことである。

解説

父が八十を過ぎても変わらなかったと語る、その教えの核心です。男子は堪えることを習うべきで、最も堪えがたいことから始めれば、やがて難事は少なくなるという教えです。さらに、貨(金銭)と色(色欲)の二つを慎めば、どこにいても人に嫌われないと伝えています。白石自身は怒りに弱いと認めており、実践の難しさも隠していません。仕事でも、金と色の問題は信用を一瞬で失う原因になります。小さな我慢を積む習慣を、子孫に残そうとした一節です。
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この章句が説くこと

堪忍父祖の家訓貨と色怒り慎み交わり

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