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折たく柴の記 / 『折たく柴の記』父君の容貌と静かな日々の暮らし

我物覺えしよりは、髪に黒きすぢはすくなかりき。面は方におはしまして、額上高く起り、眼大きく、鬚多く、たけは短かくおはせしかど、すべて骨ふとく、たくましく見え給ひたりき。天性喜怒の色あらはれ見えたまはず、笑ひ給ふにも、聲高くわらはせ給ひし事は覺えず。まして人を叱り給ふにも、あら〳〵しきことの給ひし事は聞かず。もののたまふ事も、いかにもことばすくなくして、たち居かろ〴〵しからず。驚き給ひさわぎ給ひ、事に堪へかね給ひしなどいふ事は見しこともあらず。たとへば灸治などし給ふにも灸小さきと、數すくなきときは、無益の事なりと仰せられて、大きなる灸を、其の數すくなからず、五所も七所も、一時にすゑさせて、いたみ給ふけしきも見え給はず。」身靜なる時には、つねにおはします所を淨く掃ひて、壁上に古畫をかけて、花瓶には、春秋の花をすこしくさしはさみて、それに對して默坐して日を消し給ひ、又みづから繪かき給ふことなどもありき。それも色を設けたることなどをば、このみ給はず。」身の病み給ふ時より外は、人をめしつかひ給ふといふことなく、何事も手づからみづからのみなし給ひたりき。」朝夕の物をめすことも、飯は二椀を過さず。手して椀をさゝぐるに、其の輕重によりて、飯の多きすくなきはしれぬれば、其の餘物は、飯の多少によりて、多くもすくなくもくらひて、常に我が腹にみつる分量をすぐすべからず。口にかなふ物なりとも、一色をのみ多く食ひぬれば、必ずその爲に傷けらるゝ事あり。なに物をも撰ばずして皆々すこしづゝ食ふ時は、たがひに相制する所あるにや。食のために傷けらるゝ事はすくなしと覺ゆるなりと仰せられき。」よのつねには、こなたよりまゐらする物をめして、なに物をまゐらせよとのたまひし事はあらず。たゞ四時の新味をばその出で來りし初に、なにものに限らず參らせよと仰せられて、家人と共にきこしめしけり。」酒はわづかも喉に下し給へば、大きに醉ひ給ひしかば、たゞ盃を把りて、歡を受け給ふのみなりき。茶をばこのみてめしけり。」身にめしける物も、家におはする時は、あらひすゝぎしものをもめしけれど、あかづきぬるをば、いね給ふ時もめす事なく、門を出で給ふに至りては、かならずあたらしくあざやかなる物どもをめす。それも身におひ給はぬ品のもの用ひられし事はあらず。」

新字:我物覚えしよりは、髪に黒きすぢはすくなかりき。面は方におはしまして、額上高く起り、眼大きく、鬚多く、たけは短かくおはせしかど、すべて骨ふとく、たくましく見え給ひたりき。天性喜怒の色あらはれ見えたまはず、笑ひ給ふにも、声高くわらはせ給ひし事は覚えず。まして人を叱り給ふにも、あら〳〵しきことの給ひし事は聞かず。もののたまふ事も、いかにもことばすくなくして、たち居かろ〴〵しからず。驚き給ひさわぎ給ひ、事に堪へかね給ひしなどいふ事は見しこともあらず。たとへば灸治などし給ふにも灸小さきと、数すくなきときは、無益の事なりと仰せられて、大きなる灸を、其の数すくなからず、五所も七所も、一時にすゑさせて、いたみ給ふけしきも見え給はず。」身静なる時には、つねにおはします所を浄く掃ひて、壁上に古画をかけて、花瓶には、春秋の花をすこしくさしはさみて、それに対して黙坐して日を消し給ひ、又みづから絵かき給ふことなどもありき。それも色を設けたることなどをば、このみ給はず。」身の病み給ふ時より外は、人をめしつかひ給ふといふことなく、何事も手づからみづからのみなし給ひたりき。」朝夕の物をめすことも、飯は二椀を過さず。手して椀をさゝぐるに、其の軽重によりて、飯の多きすくなきはしれぬれば、其の余物は、飯の多少によりて、多くもすくなくもくらひて、常に我が腹にみつる分量をすぐすべからず。口にかなふ物なりとも、一色をのみ多く食ひぬれば、必ずその為に傷けらるゝ事あり。なに物をも撰ばずして皆々すこしづゝ食ふ時は、たがひに相制する所あるにや。食のために傷けらるゝ事はすくなしと覚ゆるなりと仰せられき。」よのつねには、こなたよりまゐらする物をめして、なに物をまゐらせよとのたまひし事はあらず。たゞ四時の新味をばその出で来りし初に、なにものに限らず参らせよと仰せられて、家人と共にきこしめしけり。」酒はわづかも喉に下し給へば、大きに酔ひ給ひしかば、たゞ盃を把りて、歓を受け給ふのみなりき。茶をばこのみてめしけり。」身にめしける物も、家におはする時は、あらひすゝぎしものをもめしけれど、あかづきぬるをば、いね給ふ時もめす事なく、門を出で給ふに至りては、かならずあたらしくあざやかなる物どもをめす。それも身におひ給はぬ品のもの用ひられし事はあらず。」

書き下し

我物覺えしよりは、髪に黒きすぢはすくなかりき。面は方におはしまして、額上高く起り、眼大きく、鬚多く、たけは短かくおはせしかど、すべて骨ふとく、たくましく見え給ひたりき。天性喜怒の色あらはれ見えたまはず、笑ひ給ふにも、聲高くわらはせ給ひし事は覺えず。まして人を叱り給ふにも、あら〳〵しきことの給ひし事は聞かず。もののたまふ事も、いかにもことばすくなくして、たち居かろ〴〵しからず。驚き給ひさわぎ給ひ、事に堪へかね給ひしなどいふ事は見しこともあらず。たとへば灸治などし給ふにも灸小さきと、數すくなきときは、無益の事なりと仰せられて、大きなる灸を、其の數すくなからず、五所も七所も、一時にすゑさせて、いたみ給ふけしきも見え給はず。」身靜なる時には、つねにおはします所を淨く掃ひて、壁上に古畫をかけて、花瓶には、春秋の花をすこしくさしはさみて、それに對して默坐して日を消し給ひ、又みづから繪かき給ふことなどもありき。それも色を設けたることなどをば、このみ給はず。」身の病み給ふ時より外は、人をめしつかひ給ふといふことなく、何事も手づからみづからのみなし給ひたりき。」朝夕の物をめすことも、飯は二椀を過さず。手して椀をさゝぐるに、其の輕重によりて、飯の多きすくなきはしれぬれば、其の餘物は、飯の多少によりて、多くもすくなくもくらひて、常に我が腹にみつる分量をすぐすべからず。口にかなふ物なりとも、一色をのみ多く食ひぬれば、必ずその爲に傷けらるゝ事あり。なに物をも撰ばずして皆々すこしづゝ食ふ時は、たがひに相制する所あるにや。食のために傷けらるゝ事はすくなしと覺ゆるなりと仰せられき。」よのつねには、こなたよりまゐらする物をめして、なに物をまゐらせよとのたまひし事はあらず。たゞ四時の新味をばその出で來りし初に、なにものに限らず參らせよと仰せられて、家人と共にきこしめしけり。」酒はわづかも喉に下し給へば、大きに醉ひ給ひしかば、たゞ盃を把りて、歡を受け給ふのみなりき。茶をばこのみてめしけり。」身にめしける物も、家におはする時は、あらひすゝぎしものをもめしけれど、あかづきぬるをば、いね給ふ時もめす事なく、門を出で給ふに至りては、かならずあたらしくあざやかなる物どもをめす。それも身におひ給はぬ品のもの用ひられし事はあらず。」

現代語訳

私が物心ついてからは、父君の髪に黒い筋は少なかった。顔は四角くいらして、額が高く盛り上がり、眼は大きく、髭が多く、背丈は低くいらしたが、総じて骨が太く、たくましく見えなさった。生まれつき喜怒の色が表に見えず、お笑いになるときにも、声高くお笑いになったことは覚えていない。まして人をお叱りになるにも、荒々しいことをおっしゃったとは聞かない。ものをおっしゃることも、実に言葉少なで、立ち居が軽々しくなかった。驚きお騒ぎになり、事に耐えかねなさったなどということは、見たこともない。たとえば灸治などなさるときも、灸が小さく数が少ないのは無益なことだとおっしゃって、大きな灸を、その数も少なくなく、五か所も七か所も、一度にすえさせて、痛がるご様子も見せなさらなかった。静かなときには、常にいらっしゃる所を清く掃き、壁の上に古い絵をかけ、花瓶には春秋の花を少しばかり挿して、それに向かって黙って座って日を過ごされ、また自ら絵をお描きになることなどもあった。それも彩色を設けたものなどはお好みにならなかった。身が病むとき以外は、人をお使いになるということがなく、何事も自ら手ずからなさっていた。朝夕の食事も、飯は二椀を過ごされなかった。手で椀を捧げ持つと、その軽重によって飯の多い少ないが分かるので、その余りの物は、飯の多少に応じて、多くも少なくも食べ、常に自分の腹が満ちる分量を超えてはならない。口に合う物であっても、一種類だけを多く食べれば、必ずそのために体を損なうことがある。何物も選ばずに皆少しずつ食べるときは、互いに制し合うところがあるのだろうか、食のために体を損なうことは少ないと思われる、とおっしゃった。普段は、こちらから差し上げる物を召し上がって、何を差し上げよとおっしゃったことはなかった。ただ四季の新しい味は、それが出てきた初めに、何物に限らず差し上げよと仰せになって、家の者とともにお召し上がりになった。酒はわずかでも喉に下せば大いに酔われたので、ただ盃を手に取って、歓びを受けられるだけであった。茶は好んで召し上がった。

解説

白石は父の姿を、顔つきから暮らしぶりまで細かく書き留めています。喜怒を表に出さず、言葉少なで、驚いて騒ぐことがない。灸も小さくては無益だと、大きなものを一度に数か所すえて平然としていた、と記します。静かな時間には掃き清めた部屋で古い絵と季節の花に向かって座り、病気でなければ人を使わず、食事も量と種類を整えました。派手さのない自律が、日々の習慣として語られています。感情を抑え、身の回りを整える力は、組織を率いる人にも欠かせない土台です。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

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本の中身を見る

この章句が説くこと

父君寡黙灸治自律食事節度

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