折たく柴の記 / 『折たく柴の記』火の兒の誕生と南部利直の所望
我が生れしは、明暦三年丁酉正月の火事にて、戸部の第宅もやけたれば、外孫にておはせし、内藤右近大夫政親のいとけなくて、(後に丹波守幼名金一郎、戸部の長女宗光院殿と申しゝ人のうみ給ひし所なり)、柳原におはせし所にのがれ給ひ、にはかに假屋をうたせて、家人等をもかしこにあつめ置かれたる。その二月十日の辰時に、かの假屋のうちにてうまれしなり。されば、我がいとけなき程は、火の兒とぞ戸部のよび給ひたりし。」戸部の母公のおはせしが、(正覺院殿と申す。森川金右衞門某の女にておはしき)我が父のはじめてまうけし男子なりとのたまひて、むつぎのうちよりつねにめされしを、三歳の時に、戸部の參り給ひて、見そめられしより、日々にめしよせて、かたはらにのみ置かれたりしかば、みづからの子息だちをだに、かくの如くし給ふ事もなかりしに、かくおはしますは、庶子にてもおはするにやと、一門の人々もうたがひ思ひ給ひたりしとぞ聞ゆる。六歳ばかりの時に、奥の南部信濃守利直の來り給ひし時に、我が戸部のかたはらに侍りしを見給ひて、我は子持たぬ者に候ふ。此の兒給はりて養ひ候はばやと望まれしに、戸部、これは召しつかふものゝ子に候ひしを、我が母の不便のものにし侍れば、我がもとにも常にめし候ふなり。まゐらすべきものには候はずと答へ給ひしを、さらばただ我に得させ給ふべし。我がさとにてひとゝなし、成人の後には、所領千石をば、わかちあたふべきにぞと申されしかど、かれが身にはよき幸にこそ候ふべけれど、まゐらせて候はむには、我が母にて候ものも、我もまたつれ〳〵ならむを、なぐさむべきやうも有るべからず候ふと、のたまひしとぞ。牧野といひし人の語りて(六郎左衞門と云ふ。名はしらず。のらに戸部の三男につけられしものなり)あはれ、此の兒は不幸の人かな。かの望にまかせられたらましかば、ゆくすゑのたのもしかるべきものを、戸部いかに思ひ給ふとも、千石の祿給はるべきにもあらずといひき。
新字:我が生れしは、明暦三年丁酉正月の火事にて、戸部の第宅もやけたれば、外孫にておはせし、内藤右近大夫政親のいとけなくて、(後に丹波守幼名金一郎、戸部の長女宗光院殿と申しゝ人のうみ給ひし所なり)、柳原におはせし所にのがれ給ひ、にはかに仮屋をうたせて、家人等をもかしこにあつめ置かれたる。その二月十日の辰時に、かの仮屋のうちにてうまれしなり。されば、我がいとけなき程は、火の児とぞ戸部のよび給ひたりし。」戸部の母公のおはせしが、(正覚院殿と申す。森川金右衛門某の女にておはしき)我が父のはじめてまうけし男子なりとのたまひて、むつぎのうちよりつねにめされしを、三歳の時に、戸部の参り給ひて、見そめられしより、日々にめしよせて、かたはらにのみ置かれたりしかば、みづからの子息だちをだに、かくの如くし給ふ事もなかりしに、かくおはしますは、庶子にてもおはするにやと、一門の人々もうたがひ思ひ給ひたりしとぞ聞ゆる。六歳ばかりの時に、奥の南部信濃守利直の来り給ひし時に、我が戸部のかたはらに侍りしを見給ひて、我は子持たぬ者に候ふ。此の児給はりて養ひ候はばやと望まれしに、戸部、これは召しつかふものゝ子に候ひしを、我が母の不便のものにし侍れば、我がもとにも常にめし候ふなり。まゐらすべきものには候はずと答へ給ひしを、さらばただ我に得させ給ふべし。我がさとにてひとゝなし、成人の後には、所領千石をば、わかちあたふべきにぞと申されしかど、かれが身にはよき幸にこそ候ふべけれど、まゐらせて候はむには、我が母にて候ものも、我もまたつれ〳〵ならむを、なぐさむべきやうも有るべからず候ふと、のたまひしとぞ。牧野といひし人の語りて(六郎左衛門と云ふ。名はしらず。のらに戸部の三男につけられしものなり)あはれ、此の児は不幸の人かな。かの望にまかせられたらましかば、ゆくすゑのたのもしかるべきものを、戸部いかに思ひ給ふとも、千石の禄給はるべきにもあらずといひき。
書き下し
我が生れしは、明暦三年丁酉正月の火事にて、戸部の第宅もやけたれば、外孫にておはせし、内藤右近大夫政親のいとけなくて、(後に丹波守幼名金一郎、戸部の長女宗光院殿と申しゝ人のうみ給ひし所なり)、柳原におはせし所にのがれ給ひ、にはかに假屋をうたせて、家人等をもかしこにあつめ置かれたる。その二月十日の辰時に、かの假屋のうちにてうまれしなり。されば、我がいとけなき程は、火の兒とぞ戸部のよび給ひたりし。」戸部の母公のおはせしが、(正覺院殿と申す。森川金右衞門某の女にておはしき)我が父のはじめてまうけし男子なりとのたまひて、むつぎのうちよりつねにめされしを、三歳の時に、戸部の參り給ひて、見そめられしより、日々にめしよせて、かたはらにのみ置かれたりしかば、みづからの子息だちをだに、かくの如くし給ふ事もなかりしに、かくおはしますは、庶子にてもおはするにやと、一門の人々もうたがひ思ひ給ひたりしとぞ聞ゆる。六歳ばかりの時に、奥の南部信濃守利直の來り給ひし時に、我が戸部のかたはらに侍りしを見給ひて、我は子持たぬ者に候ふ。此の兒給はりて養ひ候はばやと望まれしに、戸部、これは召しつかふものゝ子に候ひしを、我が母の不便のものにし侍れば、我がもとにも常にめし候ふなり。まゐらすべきものには候はずと答へ給ひしを、さらばただ我に得させ給ふべし。我がさとにてひとゝなし、成人の後には、所領千石をば、わかちあたふべきにぞと申されしかど、かれが身にはよき幸にこそ候ふべけれど、まゐらせて候はむには、我が母にて候ものも、我もまたつれ〳〵ならむを、なぐさむべきやうも有るべからず候ふと、のたまひしとぞ。牧野といひし人の語りて(六郎左衞門と云ふ。名はしらず。のらに戸部の三男につけられしものなり)あはれ、此の兒は不幸の人かな。かの望にまかせられたらましかば、ゆくすゑのたのもしかるべきものを、戸部いかに思ひ給ふとも、千石の祿給はるべきにもあらずといひき。
現代語訳
自分が生まれたのは、明暦三年丁酉正月の火事の年で、戸部の屋敷も焼けたので、外孫であられた内藤右近大夫政親が幼くて、(のちの丹波守、幼名は金一郎、戸部の長女で宗光院殿と申した方がお産みになった子である)柳原におられた所に避難され、急に仮屋を建てさせて、家来たちもそこに集め置かれた。その二月十日の辰の刻に、その仮屋の中で生まれたのである。だから、自分の幼いころは、火の子と戸部はお呼びになった。戸部の母君がおられ、(正覚院殿と申す。森川金右衞門某の娘でいらした)我が父が初めてもうけた男子だと仰せられて、むつきの内からつねにお召しになったのを、三歳のとき、戸部が参られて、ご覧になり目をとめられてから、毎日呼び寄せて、傍らにばかり置かれたので、ご自身の子息たちにさえこのようにされることはなかったのに、こうしておいでなのは、庶子でもあるのかと、一門の人々も疑い思われたと聞く。六歳ばかりのとき、奥州の南部信濃守利直が来られた折、自分が戸部の傍らに控えているのをご覧になって、私は子のない者です。この子をいただいて養いたいと望まれたところ、戸部は、これは召し使う者の子でしたが、我が母が不憫がる者なので、自分のもとにも常に召しているのです。差し上げるべき者ではございません、と答えられたのを、それならばただ私にくださるように。我が郷里で成人させ、成人の後には所領千石を分け与えようと申されたが、あの子の身にはよい幸いでございましょうけれども、差し上げてしまっては、我が母も、私もまた所在なくなって、慰めるすべもございませんと仰せになったとか。牧野といった人が語って、(六郎左衞門という。名は知らない。のちに戸部の三男に付けられた者である)ああ、この子は不運な人だな。あの望みにお任せになっていたら、行く末は頼もしいものであったろうに、戸部がどうお思いになっても、千石の禄を下さるはずもない、と言った。
解説

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