折たく柴の記 / 『折たく柴の記』自序 寡黙な父母と尋ね損ねた悔い
むかし人は、いふべき事あれば、うちいひて、その餘は、みだりにものいはず。いふべき事をも、いかにもことば多からで、其の義を盡したりけり。我が父母にてありし人々も、かくぞおはしける。父にておはせし人の、その年七十五になり給ひし時に、傷寒をうれひて事きれ給ひなむとするに、醫の來りて獨參湯をなむすゝむべきといふ也。よのつねに人にいましめ給ひしは、としわかき人は、いかにもありなむ。よはひかたぶきし身の、いのちの限りある事をもしらで、藥のためにいきぐるしきさまして、終りぬるはわろし。あひかまへて、心せよとのたまひしかば、此の事いかにあらむと、いふ人ありしかど、疾病の急なるが、見まゐらするも心ぐるしといふ程に、生姜の汁にあはせて、すゝめしに、それよりいき出で給ひて、つひに其の病愈え給ひたりけり。後に母にてありし人の、いかに此の程は、人にそむきふし給ふのみにて、また物のたまふ事もなかりしと、問ひ申されしに、されば頭のいたむこと殊に甚しく、我いまだ人にくるしげなる色みせし事なかりしに、日頃にかはれる事もありなむにはしかるべからず。又世の人熱にをかされて、ことばのあやまち多かるを見るにも、しかじ、いふ事なからむにはと思ひしかば、さてこそありつれと答へ給ひき。これらの事にても、よのつねの事ども思ひはかるべし。」かくおはせしかば、あはれ問ひまゐらせばやと、思ふ事もいひ出でがたくしてうちすぐる程に、うせ給ひしかば、さてやみぬる事のみぞ多かる。よのつねの事どもはさてもやあるべき。おやおほちの御事詳ならざりし事こそくやしけれど、今はとふべき人とてもなし。此の事のくやしさに我が子どもゝ、また我がごとくの事ありなむ事をしりぬ。今はいとまある身となりぬ。心に思ひ出づるをり〳〵、すぎにし事ども、そこはかとなくしるしおきぬ。外ざまの人の見るべきものにもあらねば、ことばのつたなきをも、事のわづらはしきをも、えらぶべしやは。それが中、前代の御事におよびし事どもは、いともかしこけれど、世によくしれる人もなきは、おのづから傳ふる人のなからむも、わびしからまし。我が子うま子の後までも、是等の事ども見むものは、おやおほぢの身をおこしし事もやすからず。おやにてありしものゝ、前代の御惠をうけし事は、世の常ならざりし事をも、おもひしる事も有りなむには、忠と孝との道にも違はざる事もありなましと、六十の老翁散位源君美丙申の十月四日に筆を起しつ。
新字:むかし人は、いふべき事あれば、うちいひて、その余は、みだりにものいはず。いふべき事をも、いかにもことば多からで、其の義を尽したりけり。我が父母にてありし人々も、かくぞおはしける。父にておはせし人の、その年七十五になり給ひし時に、傷寒をうれひて事きれ給ひなむとするに、医の来りて独参湯をなむすゝむべきといふ也。よのつねに人にいましめ給ひしは、としわかき人は、いかにもありなむ。よはひかたぶきし身の、いのちの限りある事をもしらで、薬のためにいきぐるしきさまして、終りぬるはわろし。あひかまへて、心せよとのたまひしかば、此の事いかにあらむと、いふ人ありしかど、疾病の急なるが、見まゐらするも心ぐるしといふ程に、生姜の汁にあはせて、すゝめしに、それよりいき出で給ひて、つひに其の病愈え給ひたりけり。後に母にてありし人の、いかに此の程は、人にそむきふし給ふのみにて、また物のたまふ事もなかりしと、問ひ申されしに、されば頭のいたむこと殊に甚しく、我いまだ人にくるしげなる色みせし事なかりしに、日頃にかはれる事もありなむにはしかるべからず。又世の人熱にをかされて、ことばのあやまち多かるを見るにも、しかじ、いふ事なからむにはと思ひしかば、さてこそありつれと答へ給ひき。これらの事にても、よのつねの事ども思ひはかるべし。」かくおはせしかば、あはれ問ひまゐらせばやと、思ふ事もいひ出でがたくしてうちすぐる程に、うせ給ひしかば、さてやみぬる事のみぞ多かる。よのつねの事どもはさてもやあるべき。おやおほちの御事詳ならざりし事こそくやしけれど、今はとふべき人とてもなし。此の事のくやしさに我が子どもゝ、また我がごとくの事ありなむ事をしりぬ。今はいとまある身となりぬ。心に思ひ出づるをり〳〵、すぎにし事ども、そこはかとなくしるしおきぬ。外ざまの人の見るべきものにもあらねば、ことばのつたなきをも、事のわづらはしきをも、えらぶべしやは。それが中、前代の御事におよびし事どもは、いともかしこけれど、世によくしれる人もなきは、おのづから伝ふる人のなからむも、わびしからまし。我が子うま子の後までも、是等の事ども見むものは、おやおほぢの身をおこしし事もやすからず。おやにてありしものゝ、前代の御恵をうけし事は、世の常ならざりし事をも、おもひしる事も有りなむには、忠と孝との道にも違はざる事もありなましと、六十の老翁散位源君美丙申の十月四日に筆を起しつ。
書き下し
むかし人は、いふべき事あれば、うちいひて、その餘は、みだりにものいはず。いふべき事をも、いかにもことば多からで、其の義を盡したりけり。我が父母にてありし人々も、かくぞおはしける。父にておはせし人の、その年七十五になり給ひし時に、傷寒をうれひて事きれ給ひなむとするに、醫の來りて獨參湯をなむすゝむべきといふ也。よのつねに人にいましめ給ひしは、としわかき人は、いかにもありなむ。よはひかたぶきし身の、いのちの限りある事をもしらで、藥のためにいきぐるしきさまして、終りぬるはわろし。あひかまへて、心せよとのたまひしかば、此の事いかにあらむと、いふ人ありしかど、疾病の急なるが、見まゐらするも心ぐるしといふ程に、生姜の汁にあはせて、すゝめしに、それよりいき出で給ひて、つひに其の病愈え給ひたりけり。後に母にてありし人の、いかに此の程は、人にそむきふし給ふのみにて、また物のたまふ事もなかりしと、問ひ申されしに、されば頭のいたむこと殊に甚しく、我いまだ人にくるしげなる色みせし事なかりしに、日頃にかはれる事もありなむにはしかるべからず。又世の人熱にをかされて、ことばのあやまち多かるを見るにも、しかじ、いふ事なからむにはと思ひしかば、さてこそありつれと答へ給ひき。これらの事にても、よのつねの事ども思ひはかるべし。」かくおはせしかば、あはれ問ひまゐらせばやと、思ふ事もいひ出でがたくしてうちすぐる程に、うせ給ひしかば、さてやみぬる事のみぞ多かる。よのつねの事どもはさてもやあるべき。おやおほちの御事詳ならざりし事こそくやしけれど、今はとふべき人とてもなし。此の事のくやしさに我が子どもゝ、また我がごとくの事ありなむ事をしりぬ。今はいとまある身となりぬ。心に思ひ出づるをり〳〵、すぎにし事ども、そこはかとなくしるしおきぬ。外ざまの人の見るべきものにもあらねば、ことばのつたなきをも、事のわづらはしきをも、えらぶべしやは。それが中、前代の御事におよびし事どもは、いともかしこけれど、世によくしれる人もなきは、おのづから傳ふる人のなからむも、わびしからまし。我が子うま子の後までも、是等の事ども見むものは、おやおほぢの身をおこしし事もやすからず。おやにてありしものゝ、前代の御惠をうけし事は、世の常ならざりし事をも、おもひしる事も有りなむには、忠と孝との道にも違はざる事もありなましと、六十の老翁散位源君美丙申の十月四日に筆を起しつ。
現代語訳
昔の人は、言うべきことがあれば言い、それ以外はむやみに物を言わなかった。言うべきことも、決して言葉を多くせず、その意味を言い尽くしたものである。私の父母であった人々も、そのようであられた。父であった人が、その年七十五におなりの時、傷寒(熱病)を患って、息が絶えようとしたところ、医者が来て独参湯(朝鮮人参の煎じ薬)を差し上げるべきだと言う。日頃、人に戒めておられたのは、若い人ならばともかく、年老いた身が、命に限りがあることも知らずに、薬のために苦しげな様子をして死ぬのはよくない。必ず心得よ、ということだったので、これはどうしたものかと言う人もいたが、病の急なのを見ているのも心苦しいということで、生姜の汁に合わせて差し上げたところ、それから息を吹き返されて、ついにその病は治られたのだった。のちに母であった人が、このところ、人に背を向けて臥せっておられるだけで、ものもおっしゃらなかったのはどうしてですか、とお尋ねになると、頭の痛みがことにひどく、私はまだ人に苦しげな様子を見せたことがなかったのに、日頃と違うことがあってはよくない。また、世の人が熱に冒されて言葉の誤りが多いのを見るにつけても、何も言わずにいるに越したことはないと思ったので、そうしていたのだ、とお答えになった。これらのことからも、日頃のことは推し量ることができる。」このようでいらしたので、ああ尋ねてみたいと思うことも言い出しにくく、そのまま過ごすうちに亡くなられたので、そのままになってしまったことばかりが多い。日常のことはそれでもよいだろう。祖父母のことが詳しくわからないのは悔しいが、今は尋ねるべき人もいない。このことの悔しさから、私の子どもらも、また私と同じようなことになるだろうと思い知った。今は暇のある身となった。心に思い出す折々に、過ぎ去った事どもを、とりとめもなく書き記した。他人が見るべきものでもないから、言葉の拙さも、事柄のわずらわしさも、選ぶことがあろうか。そのうち、前代の御方々のことに及んだものは、まことに畏れ多いが、世間によく知っている人もいないのは、自然と伝える人がいないことになって、わびしいだろう。わが子、孫の後の代までも、これらを見る者は、祖先が身を立てたことも容易でなかったこと、親であった私が前代の御恵みを受けたことが世の常ではなかったことも思い知ることがあれば、忠と孝との道にも違わないこともあるだろうと、六十の老翁、散位源君美が、丙申の年(1716年)の十月四日に筆を起こした。
解説

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