春秋左氏伝 / 昭公二十一年 華多僚の讒言
宋華費遂生華貙、華多僚、華登,貙為少司馬。多僚為御士。與貙相惡。乃譖諸公曰:貙將納亡人。亟言之。公曰。司馬以吾故。亡其良子。死亡有命。吾不可以再亡之。對曰。君若愛司馬。則如亡。死如可逃。何遠之有。公懼。使侍人召司馬之侍人宜僚。飲之酒。而使告司馬。司馬歎曰。必多僚也。吾有讒子。而弗能殺。吾又不死。抑君有命。可若何。乃與公謀。逐華貙。將使田孟諸而遣之。公飲之酒。厚酬之。賜及從者。司馬亦如之。張匄尤之。曰。必有故。使子皮承宜僚以劍而訊之。宜僚盡以告。張匄欲殺多僚。子皮曰。司馬老矣。登之謂甚。吾又重之。不如亡也。
新字:宋華費遂生華貙、華多僚、華登,貙為少司馬。多僚為御士。与貙相悪。乃譖諸公曰:貙将納亡人。亟言之。公曰。司馬以吾故。亡其良子。死亡有命。吾不可以再亡之。対曰。君若愛司馬。則如亡。死如可逃。何遠之有。公懼。使侍人召司馬之侍人宜僚。飲之酒。而使告司馬。司馬嘆曰。必多僚也。吾有讒子。而弗能殺。吾又不死。抑君有命。可若何。乃与公謀。逐華貙。将使田孟諸而遣之。公飲之酒。厚酬之。賜及従者。司馬亦如之。張匄尤之。曰。必有故。使子皮承宜僚以剣而訊之。宜僚尽以告。張匄欲殺多僚。子皮曰。司馬老矣。登之謂甚。吾又重之。不如亡也。
書き下し
宋の華費遂、華貙・華多僚・華登を生む。貙は少司馬為り。多僚は御士為り。貙と相惡む。乃ち諸を公に譖して曰く、「貙將に亡人を納れんとす」と。亟(しばしば)之を言ふ。公曰く、「司馬吾が故を以って、其の良子を亡へり。死亡は命有り。吾以って再び之を亡ふ可からず」と。對へて曰く、「君若し司馬を愛せば、則ち如(しか)ず亡げんには。死如し逃る可くんば、何の遠きことか之れ有らん」と。公懼れ、侍人をして司馬の侍人宜僚を召さしめ、之に酒を飲ましめて、司馬に告げしむ。司馬歎じて曰く、「必ず多僚ならん。吾讒子有りて、殺すこと能はず。吾又死せず。抑君命有り、若何す可き」と。乃ち公と謀りて、華貙を逐はんとし、將に孟諸に田せしめて之を遣らんとす。公之に酒を飲ましめ、厚く之に酬い、賜從者に及ぶ。司馬も亦た之の如くす。張匄之を尤(あや)しみて曰く、「必ず故有らん」と。子皮をして宜僚に承(むか)ふるに劍を以ってして之を訊はしむ。宜僚盡く以って告ぐ。張匄多僚を殺さんと欲す。子皮曰く、「司馬老いたり。登の謂(ため)に甚だし。吾又之を重ねば、亡ぐるに如かざるなり」と。
現代語訳
宋の大司馬華費遂(かひすい)には、華貙(かちゅう)・華多僚(かたりょう)・華登(かとう)の三子があった。華貙は少司馬、華多僚は君の御者であった。多僚は兄の貙と仲が悪かった。そこで貙を宋の元公に讒言して言った。「貙は亡命者(国外に逃れた華氏の一党)を引き入れようとしています」。何度もそう言った。元公は言った。「司馬(華費遂)は私のために良い息子(華登)を亡命で失った。死ぬも亡びるも天命である。私はもう一度彼に子を失わせるわけにはいかない」。多僚は答えた。「君がもし司馬を大切に思われるなら、ご自身が国外に逃れるほかありません。死がもし逃れられるものなら、どこへでも遠くへ行くのがよいでしょう」。元公は恐れ、近侍に命じて司馬の近侍の宜僚(ぎりょう)を呼ばせ、酒を飲ませて、このことを司馬に告げさせた。司馬は嘆いて言った。「きっと多僚の仕業だ。私には讒言する息子がいるのに殺すこともできず、私自身も死なずにいる。しかし君の命令があるからには、どうしようもない」。そこで元公と相談して華貙を追放することにし、孟諸で狩りをさせ、そのまま送り出そうとした。元公は貙に酒を飲ませ、手厚く贈り物をし、その賜り物は従者にまで及んだ。司馬もまた同じようにした。貙の家臣の張匄(ちょうかい)はこれを怪しんで言った。「きっと何かわけがある」。子皮(華貙)に命じて剣を突きつけて宜僚を問い詰めさせると、宜僚はすべて白状した。張匄は多僚を殺そうとした。子皮は言った。「父の司馬は年老いている。登が亡命したことでひどく心を痛めている。私がさらにそれを重ねるくらいなら、国を去るほうがよい」。
解説
この章句が説くこと
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