折たく柴の記 / 『折たく柴の記』神戸三郎の老後の幸いと縁談
神戸が孫、兄弟三人あり。太郎は父があとをつぐ。二郎は陸奥の三春をしれる松下が家につかふ。(家のおとなにて、神戸三郎右衞門と云ふ。)三郎も戸部の家につかふ。(はじめは十郎兵衞と云)其の二郎なりしものゝ妻は、我が母のあね君なり。されば、三郎なるものは、あによめの妹なりければ、母にておはせし人を媒して、我が父にあはせまゐらせしなり。武藏國青梅といふ所なる天寧寺の前住祖麟和尚といひしは、かの二郎なりし神戸が子にて、我がためには外從弟にてありき。三郎なるものは、さるものゝ孫なりしかど、年頃不幸に沈みて、六十歳といひし冬の初に出家の事思ひたちぬとて、子供の事など我が父にいひかたらふ事ありしに、三十日ばかりがうちに、戸部の舍弟にておはせし但馬守數直の朝臣の執政の職に任ぜられしが、神戸が子孫一人給はるべしと望み請はれて、たちまちに彼の家のおとなにぞなされたりける。かゝる老の幸ありし事を、我まのあたりに見たりき。しかしながら、これその祖先の餘慶とぞ覺ゆる。(これより後は神戸新右衞門と申しき)それが嫡子は、父と一所に數直朝臣の家に仕ふ。二男は、戸部の家にとゞまり仕へしが、世を早くせしなり。かの嫡男の後は、今もさかえて侍るなり。
新字:神戸が孫、兄弟三人あり。太郎は父があとをつぐ。二郎は陸奥の三春をしれる松下が家につかふ。(家のおとなにて、神戸三郎右衛門と云ふ。)三郎も戸部の家につかふ。(はじめは十郎兵衛と云)其の二郎なりしものゝ妻は、我が母のあね君なり。されば、三郎なるものは、あによめの妹なりければ、母にておはせし人を媒して、我が父にあはせまゐらせしなり。武蔵国青梅といふ所なる天寧寺の前住祖麟和尚といひしは、かの二郎なりし神戸が子にて、我がためには外従弟にてありき。三郎なるものは、さるものゝ孫なりしかど、年頃不幸に沈みて、六十歳といひし冬の初に出家の事思ひたちぬとて、子供の事など我が父にいひかたらふ事ありしに、三十日ばかりがうちに、戸部の舎弟にておはせし但馬守数直の朝臣の執政の職に任ぜられしが、神戸が子孫一人給はるべしと望み請はれて、たちまちに彼の家のおとなにぞなされたりける。かゝる老の幸ありし事を、我まのあたりに見たりき。しかしながら、これその祖先の余慶とぞ覚ゆる。(これより後は神戸新右衛門と申しき)それが嫡子は、父と一所に数直朝臣の家に仕ふ。二男は、戸部の家にとゞまり仕へしが、世を早くせしなり。かの嫡男の後は、今もさかえて侍るなり。
書き下し
神戸が孫、兄弟三人あり。太郎は父があとをつぐ。二郎は陸奥の三春をしれる松下が家につかふ。(家のおとなにて、神戸三郎右衞門と云ふ。)三郎も戸部の家につかふ。(はじめは十郎兵衞と云)其の二郎なりしものゝ妻は、我が母のあね君なり。されば、三郎なるものは、あによめの妹なりければ、母にておはせし人を媒して、我が父にあはせまゐらせしなり。武藏國青梅といふ所なる天寧寺の前住祖麟和尚といひしは、かの二郎なりし神戸が子にて、我がためには外從弟にてありき。三郎なるものは、さるものゝ孫なりしかど、年頃不幸に沈みて、六十歳といひし冬の初に出家の事思ひたちぬとて、子供の事など我が父にいひかたらふ事ありしに、三十日ばかりがうちに、戸部の舍弟にておはせし但馬守數直の朝臣の執政の職に任ぜられしが、神戸が子孫一人給はるべしと望み請はれて、たちまちに彼の家のおとなにぞなされたりける。かゝる老の幸ありし事を、我まのあたりに見たりき。しかしながら、これその祖先の餘慶とぞ覺ゆる。(これより後は神戸新右衞門と申しき)それが嫡子は、父と一所に數直朝臣の家に仕ふ。二男は、戸部の家にとゞまり仕へしが、世を早くせしなり。かの嫡男の後は、今もさかえて侍るなり。
現代語訳
神戸の孫は兄弟三人いた。太郎は父の跡を継ぐ。二郎は陸奥の三春を治める松下の家に仕えた。(家老で、神戸三郎右衞門という。)三郎も戸部の家に仕えた。(はじめは十郎兵衞といった)その二郎であった者の妻は、我が母の姉君である。それで、三郎という者は兄嫁の妹であったので、母君を仲立ちして我が父に引き合わせたのである。武蔵国青梅という所にある天寧寺の前住職で祖麟和尚といった人は、その二郎であった神戸の子で、自分にとっては母方のいとこであった。三郎という者は、そのような者の孫であったが、年ごろ不運に沈んで、六十歳という年の冬の初めに出家しようと思い立ったと言って、子供のことなどを我が父に語ることがあったところ、三十日ばかりのうちに、戸部の弟君であった但馬守數直朝臣が執政の職に任ぜられ、神戸の子孫を一人いただきたいと望み請われて、たちまちあの家の家老にされた。このような老いの幸いがあったことを、自分はまのあたりに見た。しかしながらこれは先祖の余慶と思われる。(これより後は神戸新右衞門と申した)その嫡子は、父と一緒に數直朝臣の家に仕える。二男は戸部の家にとどまって仕えたが、早世した。あの嫡男の子孫は、今も栄えております。
解説

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