折たく柴の記 / 『折たく柴の記』大坂城番の道中と眠らない理由
正保四年六月、戸部、日光山の火之番といふ事をうけ給りたまひて、かしてにとゞまり守る事百日づゝおはしき。その六年、また大坂の城の番をうけ給り給ひたりけり。(大坂加番衆といふ事也)此の時もまた我が父にておはせし人を召し供せらる。此所をたち給ひしより、かの所々におはせしほど、つひに夜々うちふす事なくして、道のほどは馬上にて假寢し、かしこに至りつきては、ひるのほど出仕の時、いとまある時に坐睡のみしてありし。よるひるとなくうちふす事なければ、久くしては、後日にとり目といふものゝ如くになるなり。大坂より歸りし時に、日くるるほどに、三島の驛に至りしに、家毎にとぼしおきける燈の、見えわかずありしとて、わらひたまひたりき。それらの時には、いかでかくおはしけるぞと、後に問ひ申しに、されば其の故ありし事也。何某といひし譜代の若侍の重き罪を犯しけるが、事あらはれなば、免かるまじと思ひて、うらみあるをむくいし事の如くにもてなして、をさなきものをきりころして、にげうせたり。戸部ことににくみ給ひて、さがしもとめられしかども見えず。それが母の、年老いたるを、めしとらへたらむには出で來らむとて、その母をとらへ置かれじかど出で來らず。月をかさねしほどに、その母獄中に死したり。かのにげうせしもの、此の恨を報いまゐらせむとて、薦僧といふものになりて、戸部をねらひまゐらすといふ事を、陰かに我につげ知らせしものあり。もし聞きし事の如くならむには、かゝる旅行の時をこそ、うかゞひまゐらすべけれと思ひしかば、なにとなく夜毎に番の兵をわかち置き、みづから巡視する事、駿河にての事の如くしてありし也。人々は、ありし時の例の如くするなりとのみ思ひしなりと、のたまひたりき。」
新字:正保四年六月、戸部、日光山の火之番といふ事をうけ給りたまひて、かしてにとゞまり守る事百日づゝおはしき。その六年、また大坂の城の番をうけ給り給ひたりけり。(大坂加番衆といふ事也)此の時もまた我が父にておはせし人を召し供せらる。此所をたち給ひしより、かの所々におはせしほど、つひに夜々うちふす事なくして、道のほどは馬上にて仮寝し、かしこに至りつきては、ひるのほど出仕の時、いとまある時に坐睡のみしてありし。よるひるとなくうちふす事なければ、久くしては、後日にとり目といふものゝ如くになるなり。大坂より帰りし時に、日くるるほどに、三島の駅に至りしに、家毎にとぼしおきける灯の、見えわかずありしとて、わらひたまひたりき。それらの時には、いかでかくおはしけるぞと、後に問ひ申しに、されば其の故ありし事也。何某といひし譜代の若侍の重き罪を犯しけるが、事あらはれなば、免かるまじと思ひて、うらみあるをむくいし事の如くにもてなして、をさなきものをきりころして、にげうせたり。戸部ことににくみ給ひて、さがしもとめられしかども見えず。それが母の、年老いたるを、めしとらへたらむには出で来らむとて、その母をとらへ置かれじかど出で来らず。月をかさねしほどに、その母獄中に死したり。かのにげうせしもの、此の恨を報いまゐらせむとて、薦僧といふものになりて、戸部をねらひまゐらすといふ事を、陰かに我につげ知らせしものあり。もし聞きし事の如くならむには、かゝる旅行の時をこそ、うかゞひまゐらすべけれと思ひしかば、なにとなく夜毎に番の兵をわかち置き、みづから巡視する事、駿河にての事の如くしてありし也。人々は、ありし時の例の如くするなりとのみ思ひしなりと、のたまひたりき。」
書き下し
正保四年六月、戸部、日光山の火之番といふ事をうけ給りたまひて、かしてにとゞまり守る事百日づゝおはしき。その六年、また大坂の城の番をうけ給り給ひたりけり。(大坂加番衆といふ事也)此の時もまた我が父にておはせし人を召し供せらる。此所をたち給ひしより、かの所々におはせしほど、つひに夜々うちふす事なくして、道のほどは馬上にて假寢し、かしこに至りつきては、ひるのほど出仕の時、いとまある時に坐睡のみしてありし。よるひるとなくうちふす事なければ、久くしては、後日にとり目といふものゝ如くになるなり。大坂より歸りし時に、日くるるほどに、三島の驛に至りしに、家毎にとぼしおきける燈の、見えわかずありしとて、わらひたまひたりき。それらの時には、いかでかくおはしけるぞと、後に問ひ申しに、されば其の故ありし事也。何某といひし譜代の若侍の重き罪を犯しけるが、事あらはれなば、免かるまじと思ひて、うらみあるをむくいし事の如くにもてなして、をさなきものをきりころして、にげうせたり。戸部ことににくみ給ひて、さがしもとめられしかども見えず。それが母の、年老いたるを、めしとらへたらむには出で來らむとて、その母をとらへ置かれじかど出で來らず。月をかさねしほどに、その母獄中に死したり。かのにげうせしもの、此の恨を報いまゐらせむとて、薦僧といふものになりて、戸部をねらひまゐらすといふ事を、陰かに我につげ知らせしものあり。もし聞きし事の如くならむには、かゝる旅行の時をこそ、うかゞひまゐらすべけれと思ひしかば、なにとなく夜毎に番の兵をわかち置き、みづから巡視する事、駿河にての事の如くしてありし也。人々は、ありし時の例の如くするなりとのみ思ひしなりと、のたまひたりき。」
現代語訳
正保四年(1647年)六月、戸部は日光山の火の番という役を仰せつかり、その地にとどまって守ることを百日ずつされた。その六年に、また大坂城の番を仰せつかられた。(大坂加番衆ということである。)この時もまたわが父であった人を召して供をさせられた。ここを出発されてから、かの所々におられた間、ついに夜々寝ることなく、道中は馬上で仮寝をし、かしこに着いては、昼の出仕の時や暇のある時に、座ったまま居眠りをするだけであった。夜も昼も寝ることがなかったので、長くなるとのち、鳥目(夜盲)というもののようになった。大坂から帰った時に、日が暮れる頃、三島の宿に至ったところ、家ごとに灯していた明かりが見分けられなかったといって、お笑いになった。それらの折に、どうしてそのようにしておられたのかと、のちにお尋ね申すと、さてそれには理由があったことである。某という譜代の若侍が重い罪を犯したが、事が露見したら免れまいと思って、恨みのある者に報いたことのようにふるまって、幼い者を切り殺して逃げ失せた。戸部はことに憎まれて、探し求められたが見つからない。その母の年老いたのを召し捕らえたなら出て来るだろうと、その母を捕らえておかれたが出て来ない。月を重ねるうちに、その母が獄中で死んだ。かの逃げ失せた者が、この恨みを報い申そうと、薦僧(虚無僧)になって、戸部を狙い申しているということを、ひそかに私に告げ知らせた者があった。もし聞いたとおりであるなら、このような旅行の時をこそうかがい申すであろうと思ったので、何となく夜ごとに番の兵を分けて置き、自ら巡視することを、駿河での時のようにしていたのである。人々は、以前の例のとおりにしているのだとばかり思っていたのだ、とおっしゃった。」
解説

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