折たく柴の記 / 『折たく柴の記』留守を預かる父と駿府陣屋の夜回り
戸部は、年毎の八月には、知り給ひし所の、上總國望陀郡にあるにゆきて、その十二月の半には、歸り給ひき。その歸り給ひし後には、かならず父にておはせし人を召し給ひ、人をとほざけて留守の事を問ひ給ふに、年毎に申すべき事もなく候ひきとのみ答へ申さる。かくて年經しのちに、我が家小しきなりといへども、留守にさぶらふものども、其の數なきにじもあらず。多くの年月經るうちに、いかで事なくてはあるべき。それに年ごとに、申すべき事も候はずといふ事、心得られずとのたまひしに、大事をばすみやかに注進し、小事をば、留守の事奉れる人々と議定して事決し候ひぬれば、其の餘某が申し聞くべき事は、いまだ候はずと答へ申さる。そののちも、上總國より歸りたまひしときには、かならず召し出し給ひ、かしてにおはせしほどの事など物語し給ひて、跡移りし後に、いとま給はりてしりぞき出づ。留守の事とひ給ふ事、おはせざりきとのたまひき。」正保二年の秋戸部、駿河府城の番うけ給りたまひたりしに、我が父にておはせし人は、上總國の事、沙汰のために、かしてにおもむきて、供には侍らひ給はず。明くる春に至りて、いそぎ參るべき由、宣ひつかはされしかば、上總國より、駿河に參り給ふ。其の比ほひまでは、府城の陣屋なども、四面みな〳〵竹垣ゆひ廻しゝまゝなりしかば、わか侍ども、夜毎に垣をこえて出であそぶもの多くして、供にさぶらひしおとなども、制止すべきやうなしと申されければ、めしつるなりとのたまひたりけり。かゝる時に、一人もつみに行はれむものゝ出で來なむは、世の聞えしかるべからず。すべきやうありと思ひしかば、やがて陣屋のほとり打めぐり見て、しかるべき所々に番兵置きて、守らすべき小屋四つ五つ造り出して、足輕の兵二人づゝをもて、そこを守らせて、夜毎に日暮ぬれば、夜明くるまでみづから巡視して、守り怠らざるものをばすゝめ、懈るものをばいましめて、交代の時至るまで、一夜もうちふす事なくしてありしほどに、おのづから夜を犯して出であそぶものゝなくして事終りにきと宣ひたりき。」
新字:戸部は、年毎の八月には、知り給ひし所の、上総国望陀郡にあるにゆきて、その十二月の半には、帰り給ひき。その帰り給ひし後には、かならず父にておはせし人を召し給ひ、人をとほざけて留守の事を問ひ給ふに、年毎に申すべき事もなく候ひきとのみ答へ申さる。かくて年経しのちに、我が家小しきなりといへども、留守にさぶらふものども、其の数なきにじもあらず。多くの年月経るうちに、いかで事なくてはあるべき。それに年ごとに、申すべき事も候はずといふ事、心得られずとのたまひしに、大事をばすみやかに注進し、小事をば、留守の事奉れる人々と議定して事決し候ひぬれば、其の余某が申し聞くべき事は、いまだ候はずと答へ申さる。そののちも、上総国より帰りたまひしときには、かならず召し出し給ひ、かしてにおはせしほどの事など物語し給ひて、跡移りし後に、いとま給はりてしりぞき出づ。留守の事とひ給ふ事、おはせざりきとのたまひき。」正保二年の秋戸部、駿河府城の番うけ給りたまひたりしに、我が父にておはせし人は、上総国の事、沙汰のために、かしてにおもむきて、供には侍らひ給はず。明くる春に至りて、いそぎ参るべき由、宣ひつかはされしかば、上総国より、駿河に参り給ふ。其の比ほひまでは、府城の陣屋なども、四面みな〳〵竹垣ゆひ廻しゝまゝなりしかば、わか侍ども、夜毎に垣をこえて出であそぶもの多くして、供にさぶらひしおとなども、制止すべきやうなしと申されければ、めしつるなりとのたまひたりけり。かゝる時に、一人もつみに行はれむものゝ出で来なむは、世の聞えしかるべからず。すべきやうありと思ひしかば、やがて陣屋のほとり打めぐり見て、しかるべき所々に番兵置きて、守らすべき小屋四つ五つ造り出して、足軽の兵二人づゝをもて、そこを守らせて、夜毎に日暮ぬれば、夜明くるまでみづから巡視して、守り怠らざるものをばすゝめ、懈るものをばいましめて、交代の時至るまで、一夜もうちふす事なくしてありしほどに、おのづから夜を犯して出であそぶものゝなくして事終りにきと宣ひたりき。」
書き下し
戸部は、年毎の八月には、知り給ひし所の、上總國望陀郡にあるにゆきて、その十二月の半には、歸り給ひき。その歸り給ひし後には、かならず父にておはせし人を召し給ひ、人をとほざけて留守の事を問ひ給ふに、年毎に申すべき事もなく候ひきとのみ答へ申さる。かくて年經しのちに、我が家小しきなりといへども、留守にさぶらふものども、其の數なきにじもあらず。多くの年月經るうちに、いかで事なくてはあるべき。それに年ごとに、申すべき事も候はずといふ事、心得られずとのたまひしに、大事をばすみやかに注進し、小事をば、留守の事奉れる人々と議定して事決し候ひぬれば、其の餘某が申し聞くべき事は、いまだ候はずと答へ申さる。そののちも、上總國より歸りたまひしときには、かならず召し出し給ひ、かしてにおはせしほどの事など物語し給ひて、跡移りし後に、いとま給はりてしりぞき出づ。留守の事とひ給ふ事、おはせざりきとのたまひき。」正保二年の秋戸部、駿河府城の番うけ給りたまひたりしに、我が父にておはせし人は、上總國の事、沙汰のために、かしてにおもむきて、供には侍らひ給はず。明くる春に至りて、いそぎ參るべき由、宣ひつかはされしかば、上總國より、駿河に參り給ふ。其の比ほひまでは、府城の陣屋なども、四面みな〳〵竹垣ゆひ廻しゝまゝなりしかば、わか侍ども、夜毎に垣をこえて出であそぶもの多くして、供にさぶらひしおとなども、制止すべきやうなしと申されければ、めしつるなりとのたまひたりけり。かゝる時に、一人もつみに行はれむものゝ出で來なむは、世の聞えしかるべからず。すべきやうありと思ひしかば、やがて陣屋のほとり打めぐり見て、しかるべき所々に番兵置きて、守らすべき小屋四つ五つ造り出して、足輕の兵二人づゝをもて、そこを守らせて、夜毎に日暮ぬれば、夜明くるまでみづから巡視して、守り怠らざるものをばすゝめ、懈るものをばいましめて、交代の時至るまで、一夜もうちふす事なくしてありしほどに、おのづから夜を犯して出であそぶものゝなくして事終りにきと宣ひたりき。」
現代語訳
戸部は、毎年八月には、領しておられた上総国望陀郡にある所へ行き、その十二月の半ばには帰られた。その帰られた後には、必ず父であった人を召され、人を遠ざけて留守のことを尋ねられたが、毎年、申し上げるべきことはございませんでしたとだけ答え申された。そうして年を経たのち、わが家は小さいとはいえ、留守に仕える者どもも、その数が少なくはない。多くの年月が経つうちに、どうして何事もなくいられようか。それなのに毎年、申し上げることはないというのは、合点がいかないとおっしゃったところ、大事はすみやかに注進し、小事は留守のことをお預かりする人々と評議して決めてしまいますので、そのほか私が申し上げるべきことは、まだございませんと答え申された。その後も、上総国から帰られた時には必ずお召し出しになり、領地にいらしたあいだの事などを物語りなさって、事が一段落した後に、暇をいただいて退出する。留守のことをお尋ねになることは、なかったとおっしゃった。」正保二年(1645年)の秋、戸部は駿河府城の番を仰せつかられたが、わが父であった人は、上総国の事を処理するため、領地へ出向いて、お供には従われなかった。翌春に至って、急いで参上すべき旨を仰せ遣わされたので、上総国から駿河に参られた。その頃までは、府城の陣屋なども、四面みな竹垣を結い巡らしたままであったので、若い侍どもが、夜ごとに垣を越えて出て遊ぶ者が多く、お供に控えていた年長の者たちも、制止のしようがないと申されたので、だからそなたを召したのだ、とおっしゃったという。こういう時に、一人でも罪に行われるような者が出て来たなら、世間の聞こえがよろしくない。方策があると思ったので、すぐに陣屋のあたりを見て回って、しかるべき所々に番兵を置いて守らせる小屋を四つ五つ造り出して、足軽二人ずつにそこを守らせ、夜ごとに日が暮れると夜明けまで自ら巡視して、守りを怠らない者を励まし、怠る者を戒めて、交代の時が来るまで一夜も寝ることなく過ごしたうちに、自然と夜を犯して出て遊ぶ者もなくて、事が終わったとおっしゃった。」
解説

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