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折たく柴の記 / 『折たく柴の記』蘆沢を誅そうとする主君への諫言

我が父致仕の後、事にふれてのたまひたりしには、蘆澤といひしものはをさなき時に父におくれしを、その父の遺領給うて、近くめしつかはれしに、それより廿歳ばかりに及びし比に、我を召す事ありて參りしに、戸部は物に腰かけて、打刀を横たへておはします、その氣色常にかはりぬと思ひしに、近くまゐれとありしかば、腰刀をとりて參らむとせしに、そのまゝに參れとありしによりて、近く參りしに、只今蘆澤を召し出して手づから誅すべし。それにざぶらふべしとのたまひ出したり。答へ申事もなくてありしに、やゝありて、いらへ申す事もなきは、思ふ所やあると仰せられしほどに、さん候ふ。かれがつね〴〵申し候ひしは、いとけなき時に、父におくれし身の、莫大の主恩によりて、かくまでは生長しぬ。此の恩に報いまゐらせむ事、よのつねの人々の如くしてはかなふべからずと申す。天性不敵なるものゝ、しかも年なほわかくして、をこのふるまひも多く候へば、いかなる奇怪をか仕出して候ひぬらむ。但しわかく候ふ時に、かれらがごとくなるものにあらずしては、年たけ候ひし後に、ものゝ用にはたゝぬもの多く候歟。これらの事を存じめぐらし候ふにつきて、御答の遲く候ひしは、恐れ思ふ所に候ふと申す。またのたまひ出す事もなく、我もまた申す事もなくしてさぶらふほどに、やゝありて、面に蚊の集りぬるに逐ふべしとのたまひしほどに、顔を動かしければ、血に飽きて、胡頽子のごとくになりし蚊の、六つ七つはら〳〵と地に墜ちしを、懷の紙をとり出して、つゝみて袖にしてさふらぶ。またやゝありて、罷り歸りて休み候へとのたまひしかば退出す。かの男は、常に酒をこのみて、醉ひみだれぬる事ども有りしかば、關といひし人の、それにしたしかりしをかたらひて、二人してまづ酒を斷たしめて、常にいさめし事どもおこたらず。かくて年月經しのちに、つひに父の職を仰せ蒙りたりき。今は戸部もうせ給ひぬれど、はじめ我が申しことばのむなしからざるやうに、つかへまゐらせよと思ふなりとのたまひたりき。これは、かの人久しくして、また酗酒の事ありしが故なり。

新字:我が父致仕の後、事にふれてのたまひたりしには、蘆沢といひしものはをさなき時に父におくれしを、その父の遺領給うて、近くめしつかはれしに、それより廿歳ばかりに及びし比に、我を召す事ありて参りしに、戸部は物に腰かけて、打刀を横たへておはします、その気色常にかはりぬと思ひしに、近くまゐれとありしかば、腰刀をとりて参らむとせしに、そのまゝに参れとありしによりて、近く参りしに、只今蘆沢を召し出して手づから誅すべし。それにざぶらふべしとのたまひ出したり。答へ申事もなくてありしに、やゝありて、いらへ申す事もなきは、思ふ所やあると仰せられしほどに、さん候ふ。かれがつね〴〵申し候ひしは、いとけなき時に、父におくれし身の、莫大の主恩によりて、かくまでは生長しぬ。此の恩に報いまゐらせむ事、よのつねの人々の如くしてはかなふべからずと申す。天性不敵なるものゝ、しかも年なほわかくして、をこのふるまひも多く候へば、いかなる奇怪をか仕出して候ひぬらむ。但しわかく候ふ時に、かれらがごとくなるものにあらずしては、年たけ候ひし後に、ものゝ用にはたゝぬもの多く候歟。これらの事を存じめぐらし候ふにつきて、御答の遅く候ひしは、恐れ思ふ所に候ふと申す。またのたまひ出す事もなく、我もまた申す事もなくしてさぶらふほどに、やゝありて、面に蚊の集りぬるに逐ふべしとのたまひしほどに、顔を動かしければ、血に飽きて、胡頽子のごとくになりし蚊の、六つ七つはら〳〵と地に墜ちしを、懐の紙をとり出して、つゝみて袖にしてさふらぶ。またやゝありて、罷り帰りて休み候へとのたまひしかば退出す。かの男は、常に酒をこのみて、酔ひみだれぬる事ども有りしかば、関といひし人の、それにしたしかりしをかたらひて、二人してまづ酒を断たしめて、常にいさめし事どもおこたらず。かくて年月経しのちに、つひに父の職を仰せ蒙りたりき。今は戸部もうせ給ひぬれど、はじめ我が申しことばのむなしからざるやうに、つかへまゐらせよと思ふなりとのたまひたりき。これは、かの人久しくして、また酗酒の事ありしが故なり。

書き下し

我が父致仕の後、事にふれてのたまひたりしには、蘆澤といひしものはをさなき時に父におくれしを、その父の遺領給うて、近くめしつかはれしに、それより廿歳ばかりに及びし比に、我を召す事ありて參りしに、戸部は物に腰かけて、打刀を横たへておはします、その氣色常にかはりぬと思ひしに、近くまゐれとありしかば、腰刀をとりて參らむとせしに、そのまゝに參れとありしによりて、近く參りしに、只今蘆澤を召し出して手づから誅すべし。それにざぶらふべしとのたまひ出したり。答へ申事もなくてありしに、やゝありて、いらへ申す事もなきは、思ふ所やあると仰せられしほどに、さん候ふ。かれがつね〴〵申し候ひしは、いとけなき時に、父におくれし身の、莫大の主恩によりて、かくまでは生長しぬ。此の恩に報いまゐらせむ事、よのつねの人々の如くしてはかなふべからずと申す。天性不敵なるものゝ、しかも年なほわかくして、をこのふるまひも多く候へば、いかなる奇怪をか仕出して候ひぬらむ。但しわかく候ふ時に、かれらがごとくなるものにあらずしては、年たけ候ひし後に、ものゝ用にはたゝぬもの多く候歟。これらの事を存じめぐらし候ふにつきて、御答の遲く候ひしは、恐れ思ふ所に候ふと申す。またのたまひ出す事もなく、我もまた申す事もなくしてさぶらふほどに、やゝありて、面に蚊の集りぬるに逐ふべしとのたまひしほどに、顔を動かしければ、血に飽きて、胡頽子のごとくになりし蚊の、六つ七つはら〳〵と地に墜ちしを、懷の紙をとり出して、つゝみて袖にしてさふらぶ。またやゝありて、罷り歸りて休み候へとのたまひしかば退出す。かの男は、常に酒をこのみて、醉ひみだれぬる事ども有りしかば、關といひし人の、それにしたしかりしをかたらひて、二人してまづ酒を斷たしめて、常にいさめし事どもおこたらず。かくて年月經しのちに、つひに父の職を仰せ蒙りたりき。今は戸部もうせ給ひぬれど、はじめ我が申しことばのむなしからざるやうに、つかへまゐらせよと思ふなりとのたまひたりき。これは、かの人久しくして、また酗酒の事ありしが故なり。

現代語訳

わが父が致仕(隠居)した後、折にふれておっしゃったことには、蘆沢という者は幼い時に父に先立たれたのを、その父の遺領を与えられて近くに召し使われていたが、それから二十歳ばかりになった頃、私をお召しになることがあって参ったところ、戸部は物に腰かけて、打刀を横たえておられ、その様子がいつもと違うと思ったが、近く参れとあったので、腰刀を取って参ろうとしたところ、そのまま参れとあったので、近く参ると、ただ今、蘆沢を召し出して自ら誅するつもりである。そなたはその場に控えよ、とおっしゃった。答え申すこともなくいたが、しばらくして、答え申すこともないのは、思うところがあるのかとおっしゃったので、さようでございます。彼がいつも申しておりましたのは、幼い時に父に先立たれた身が、莫大な主君の恩によって、ここまで成長した。この恩に報い申すことは、世の常の人々のようにしていてはかなうまいと申します。生まれつき不敵な者で、しかも年なお若くて、愚かなふるまいも多くございますので、どのような不届きをしでかしたのでございましょう。ただし若い時に、彼らのような者でなくては、年を取った後に、ものの役に立たない者が多くございましょうか。これらのことを思いめぐらしますにつけ、お答えが遅くなりましたのは、恐れ思うところでございますと申し上げた。またおっしゃり出すこともなく、私もまた申すこともなくお側に控えているうちに、しばらくして、顔に蚊が集まったから追え、とおっしゃったので、顔を動かしたところ、血を吸い飽きて胡頽子(ぐみ)のようになった蚊が、六つ七つ、ばらばらと地に落ちたのを、懐の紙を取り出して、包んで袖に入れてお側に控えた。またしばらくして、退出して休め、とおっしゃったので退出した。かの男は、常に酒を好んで、酔い乱れることなどがあったので、関という人で、その男と親しかった者を誘って、二人でまず酒を断たせ、常に諫めることを怠らなかった。こうして年月を経たのちに、ついに父の職を仰せ蒙った。今は戸部もお亡くなりになったが、初めに私が申した言葉が空しくならないように、お仕え申せと思うのだ、とおっしゃった。これは、かの人が久しくして、また酗酒のことがあったからである。

解説

白石の父が、主君の土屋利直から思いがけない命を受けた場面です。主君は若い家臣の蘆沢を自ら誅すると言い出し、父に同席を命じました。父は言葉を選び、不敵な者も若いうちはそうでなければ後に役に立たないと述べて、答えが遅れたことを詫びます。主君は何も言わず、やがて退出を許しました。のち父は蘆沢の友人と協力して酒を断たせ、ついに蘆沢は父の職を継ぎます。感情の高ぶった上司の前で場を鎮め、部下の可能性を守る姿が描かれます。
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この章句が説くこと

土屋利直蘆沢諫言誅す酒を断つ若者の育成

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