折たく柴の記 / 『折たく柴の記』土屋家出仕と夜討の侍三人
我が父のわかくおはせしほどは、戰國の時をさる事遠からず。世の人遊俠を事として、氣節を尚ぶならはし、今の時には異なる事ども多く聞えたりけり。」我が父にておはせし人も東走西奔その蹤跡さだまれる事もなくして、年を經給ひし中に、三十一歳の時に民部少輔利直土屋の家に出でて仕へられし初に、走の侍(當時は歩行侍といふものなり)夜討したりと聞えしもの三人ありて、めしとらへつゝ、門のやぐらの上におしこめしを、我が父二人にあづけらる。此のよしを承りて、彼の輩を某にあづけられ候はむには、さだめて刀脇ざしをば、とられずこそ候はむずれと申さる。申すところ聞し召されぬとて。かれらが刀脇ざしをば、我が父にて候ひし人に給うたりけり。それをもたせて、やぐらの上にのぼりて、三人のものに返しあたへて、わぬしら、にげてゆかむと思ば、我がくびきりてゆけ。我一人、わぬしら三人に敵すべきにもあらず。さらば、みづからの刀脇ざし、不用のものなりとて、三尺手拭にてつかね結びてなげすて、かれらと同じく起臥し、ものうち食ひて、日十日ばかりが後に、かれらが夜討せしと聞えしは、あらぬ事たるよし、さだまりしかど、かゝるものめしつかふべきにあらずとて、戸部の家をば出されたり。」其の時に及びて、彼等我が父にいひしは、我等いかにいひがひなきものぞと思ひ給ひぬれば、たゞ一人にめしあづけられたりけむ、思ひしらせ參らせむものをと思ひしかど、わぬしが刀脇さしをだに帶せずしてあるを、殺したらむには、はたしていひがひなしと、思ひ給はむ事のくやしければ、此のまゝに死しなむは力なし。幸に命いきたらましかば、其の時にこそ恨をば報いむずるやうありと思ひしに、わぬしがなさけによりて、刀脇ざし取はなされずして、ふたゝび武士の中にたちまじるべき身ともなりぬ。此のなさけわするべからずと思へば、今は恨もはれし心地するなりといひてわかれしと語り給ひき。其の後いくほどなくして、擢でて用ひられ給ひしかば、つひに戸部の家にとゞまりつかへ給ひたりき。戸部の家にして、後には司密の事を命ぜられたりき(當時目付の職といふ)
新字:我が父のわかくおはせしほどは、戦国の時をさる事遠からず。世の人遊侠を事として、気節を尚ぶならはし、今の時には異なる事ども多く聞えたりけり。」我が父にておはせし人も東走西奔その蹤跡さだまれる事もなくして、年を経給ひし中に、三十一歳の時に民部少輔利直土屋の家に出でて仕へられし初に、走の侍(当時は歩行侍といふものなり)夜討したりと聞えしもの三人ありて、めしとらへつゝ、門のやぐらの上におしこめしを、我が父二人にあづけらる。此のよしを承りて、彼の輩を某にあづけられ候はむには、さだめて刀脇ざしをば、とられずこそ候はむずれと申さる。申すところ聞し召されぬとて。かれらが刀脇ざしをば、我が父にて候ひし人に給うたりけり。それをもたせて、やぐらの上にのぼりて、三人のものに返しあたへて、わぬしら、にげてゆかむと思ば、我がくびきりてゆけ。我一人、わぬしら三人に敵すべきにもあらず。さらば、みづからの刀脇ざし、不用のものなりとて、三尺手拭にてつかね結びてなげすて、かれらと同じく起臥し、ものうち食ひて、日十日ばかりが後に、かれらが夜討せしと聞えしは、あらぬ事たるよし、さだまりしかど、かゝるものめしつかふべきにあらずとて、戸部の家をば出されたり。」其の時に及びて、彼等我が父にいひしは、我等いかにいひがひなきものぞと思ひ給ひぬれば、たゞ一人にめしあづけられたりけむ、思ひしらせ参らせむものをと思ひしかど、わぬしが刀脇さしをだに帯せずしてあるを、殺したらむには、はたしていひがひなしと、思ひ給はむ事のくやしければ、此のまゝに死しなむは力なし。幸に命いきたらましかば、其の時にこそ恨をば報いむずるやうありと思ひしに、わぬしがなさけによりて、刀脇ざし取はなされずして、ふたゝび武士の中にたちまじるべき身ともなりぬ。此のなさけわするべからずと思へば、今は恨もはれし心地するなりといひてわかれしと語り給ひき。其の後いくほどなくして、擢でて用ひられ給ひしかば、つひに戸部の家にとゞまりつかへ給ひたりき。戸部の家にして、後には司密の事を命ぜられたりき(当時目付の職といふ)
書き下し
我が父のわかくおはせしほどは、戰國の時をさる事遠からず。世の人遊俠を事として、氣節を尚ぶならはし、今の時には異なる事ども多く聞えたりけり。」我が父にておはせし人も東走西奔その蹤跡さだまれる事もなくして、年を經給ひし中に、三十一歳の時に民部少輔利直土屋の家に出でて仕へられし初に、走の侍(當時は歩行侍といふものなり)夜討したりと聞えしもの三人ありて、めしとらへつゝ、門のやぐらの上におしこめしを、我が父二人にあづけらる。此のよしを承りて、彼の輩を某にあづけられ候はむには、さだめて刀脇ざしをば、とられずこそ候はむずれと申さる。申すところ聞し召されぬとて。かれらが刀脇ざしをば、我が父にて候ひし人に給うたりけり。それをもたせて、やぐらの上にのぼりて、三人のものに返しあたへて、わぬしら、にげてゆかむと思ば、我がくびきりてゆけ。我一人、わぬしら三人に敵すべきにもあらず。さらば、みづからの刀脇ざし、不用のものなりとて、三尺手拭にてつかね結びてなげすて、かれらと同じく起臥し、ものうち食ひて、日十日ばかりが後に、かれらが夜討せしと聞えしは、あらぬ事たるよし、さだまりしかど、かゝるものめしつかふべきにあらずとて、戸部の家をば出されたり。」其の時に及びて、彼等我が父にいひしは、我等いかにいひがひなきものぞと思ひ給ひぬれば、たゞ一人にめしあづけられたりけむ、思ひしらせ參らせむものをと思ひしかど、わぬしが刀脇さしをだに帶せずしてあるを、殺したらむには、はたしていひがひなしと、思ひ給はむ事のくやしければ、此のまゝに死しなむは力なし。幸に命いきたらましかば、其の時にこそ恨をば報いむずるやうありと思ひしに、わぬしがなさけによりて、刀脇ざし取はなされずして、ふたゝび武士の中にたちまじるべき身ともなりぬ。此のなさけわするべからずと思へば、今は恨もはれし心地するなりといひてわかれしと語り給ひき。其の後いくほどなくして、擢でて用ひられ給ひしかば、つひに戸部の家にとゞまりつかへ給ひたりき。戸部の家にして、後には司密の事を命ぜられたりき(當時目付の職といふ)
現代語訳
わが父が若くおられた頃は、戦国の時代を去ってまだ遠くなかった。世の人は侠客のふるまいをもっぱらとし、気概と節操を尊ぶ習わしで、今の時代とは異なることが多く聞こえたものだった。」わが父であった人も、東奔西走して足跡の定まることもなく年を経られた中で、三十一歳の時に民部少輔利直の土屋の家に出て仕えられた初めに、走の侍(当時は歩行侍というものである)で、夜討ちをしたと噂された者が三人いて、召し捕らえては門の櫓の上に押し込めておいたのを、わが父ともう一人に預けられた。このことを承って、あの者どもを私にお預けくださるならば、きっと刀脇差は取り上げられずにおれましょう、と申された。申し出たことをお聞き入れになったので、彼らの刀脇差を、わが父であった人にお与えになった。それを持たせて櫓の上に登り、三人の者に返し与えて、おまえたち、逃げて行こうと思うなら、私の首を切って行け。私一人で、おまえたち三人に敵うはずもない。それならば、自分の刀脇差は不用のものだと言って、三尺手拭で束ね結んで投げ捨て、彼らと同じく起き臥しし、物を食いなどして、日十日ばかり後に、彼らが夜討ちをしたと噂されたのは事実無根であることが確定したが、このような者を召し使うべきではないとして、戸部の家を出された。」その時になって、彼らがわが父に言うには、我らをどれほど言い甲斐のない者とお思いになったので、ただ一人にお預けになったのだろう、思い知らせ申し上げようと思ったが、お前が刀脇差さえ帯びずにいるのを殺したなら、やはり言い甲斐のない者とお思いになることが悔しいので、このまま死ぬのは仕方がない、幸いに命が生きていたなら、その時にこそ恨みを晴らす手立てもあろうと思っていたのに、お前の情けによって、刀脇差を取り上げられずに、再び武士の中に立ち交じれる身ともなった。この情けは忘れてはならないと思えば、今は恨みも晴れた心地がする、と言って別れたと、語られた。その後いくらもなく、抜擢されて用いられなさったので、ついに戸部の家にとどまってお仕えになった。戸部の家では、のちには司密の事を命ぜられた(当時の目付の職という)。
解説

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