折たく柴の記 / 『折たく柴の記』故郷の兄姉と祖父母の没年
かくて父にておはせし人のうせ給ひし廿五年にあたれる年に、むなしきあとをもとひまらせばやと思ひて、ふるさとに歸りしに、三人までおはせし兄は、皆々うせ給ひ、あねにてありし人のみ、ひとりながらへておはしたり。二郎にあたりし兄は、我がゆくかたのしれざりし事をふかく歎きて、年毎に江戸に來りて、こゝかしこたづねめぐりては歸り〳〵し給ひしに、つひにはかなくなり給ひしと、あね君の語り給ひしぞかし。これもいくほどなくて、うせ給ひしときこえければ、そのゝちは、ふるさとに事とふべき人もなしと仰せられき。」我が祖母のうせ給ひし事は、慶長九年甲辰三月三日にて、祖父は慶長十四年己酉八月廿七日にうせ給ひしなり。さらば、我が父にてありし人は、慶長六年辛丑に生れ給ひて、その國をさり給ひしは、慶長十八年癸丑の事なり。高德寺の前住了也の語りしは、我が幼けなかりし比ほひ、我が前住の代に新井筒齋といひし人の、此の寺に來りしを足下の父にておはせし人に告げやりぬれば、來り對して日を終ふる迄おはしたりき。その人年毎に來る事もあり。また年を隔てゝ來る事もありき。從弟にておはすると聞えしが、いかにかありけむ。又いづこより來れる人といふ事もしらざりしといふ。これらの事は、我が母にておはせし人も、しり給ひしとも聞えず。まして我に語り給ひし事もあらず。むかし人は、いかにかくおはしたりけむ。此の了也も我が父うせ給ひて、三十餘年の後に、はじめてかくは語りたりき。
新字:かくて父にておはせし人のうせ給ひし廿五年にあたれる年に、むなしきあとをもとひまらせばやと思ひて、ふるさとに帰りしに、三人までおはせし兄は、皆々うせ給ひ、あねにてありし人のみ、ひとりながらへておはしたり。二郎にあたりし兄は、我がゆくかたのしれざりし事をふかく嘆きて、年毎に江戸に来りて、こゝかしこたづねめぐりては帰り〳〵し給ひしに、つひにはかなくなり給ひしと、あね君の語り給ひしぞかし。これもいくほどなくて、うせ給ひしときこえければ、そのゝちは、ふるさとに事とふべき人もなしと仰せられき。」我が祖母のうせ給ひし事は、慶長九年甲辰三月三日にて、祖父は慶長十四年己酉八月廿七日にうせ給ひしなり。さらば、我が父にてありし人は、慶長六年辛丑に生れ給ひて、その国をさり給ひしは、慶長十八年癸丑の事なり。高徳寺の前住了也の語りしは、我が幼けなかりし比ほひ、我が前住の代に新井筒斎といひし人の、此の寺に来りしを足下の父にておはせし人に告げやりぬれば、来り対して日を終ふる迄おはしたりき。その人年毎に来る事もあり。また年を隔てゝ来る事もありき。従弟にておはすると聞えしが、いかにかありけむ。又いづこより来れる人といふ事もしらざりしといふ。これらの事は、我が母にておはせし人も、しり給ひしとも聞えず。まして我に語り給ひし事もあらず。むかし人は、いかにかくおはしたりけむ。此の了也も我が父うせ給ひて、三十余年の後に、はじめてかくは語りたりき。
書き下し
かくて父にておはせし人のうせ給ひし廿五年にあたれる年に、むなしきあとをもとひまらせばやと思ひて、ふるさとに歸りしに、三人までおはせし兄は、皆々うせ給ひ、あねにてありし人のみ、ひとりながらへておはしたり。二郎にあたりし兄は、我がゆくかたのしれざりし事をふかく歎きて、年毎に江戸に來りて、こゝかしこたづねめぐりては歸り〳〵し給ひしに、つひにはかなくなり給ひしと、あね君の語り給ひしぞかし。これもいくほどなくて、うせ給ひしときこえければ、そのゝちは、ふるさとに事とふべき人もなしと仰せられき。」我が祖母のうせ給ひし事は、慶長九年甲辰三月三日にて、祖父は慶長十四年己酉八月廿七日にうせ給ひしなり。さらば、我が父にてありし人は、慶長六年辛丑に生れ給ひて、その國をさり給ひしは、慶長十八年癸丑の事なり。高德寺の前住了也の語りしは、我が幼けなかりし比ほひ、我が前住の代に新井筒齋といひし人の、此の寺に來りしを足下の父にておはせし人に告げやりぬれば、來り對して日を終ふる迄おはしたりき。その人年毎に來る事もあり。また年を隔てゝ來る事もありき。從弟にておはすると聞えしが、いかにかありけむ。又いづこより來れる人といふ事もしらざりしといふ。これらの事は、我が母にておはせし人も、しり給ひしとも聞えず。まして我に語り給ひし事もあらず。むかし人は、いかにかくおはしたりけむ。此の了也も我が父うせ給ひて、三十餘年の後に、はじめてかくは語りたりき。
現代語訳
さて、父であった人が、自分の父の亡くなって二十五年にあたる年に、亡き跡を弔いたいと思って故郷に帰ったところ、三人までおられた兄はみな亡くなり、姉であった人だけが一人生き長らえておられた。次男にあたる兄は、私の行方が知れなかったことを深く嘆いて、毎年江戸に来ては、あちこち尋ね回って帰ることを繰り返しておられたが、ついにお亡くなりになったと、姉君が語られたのだった。この姉もいくらもたたずに亡くなられたと聞こえたので、それ以後は、故郷に事を尋ねるべき人もいないとおっしゃった。」私の祖母が亡くなったのは、慶長九年甲辰三月三日で、祖父は慶長十四年己酉八月二十七日に亡くなられたのである。そうすると、わが父であった人は慶長六年辛丑に生まれ、その国を去られたのは慶長十八年癸丑のことである。高徳寺の前住職の了也が語ったのは、私が幼かった頃、私の前の住職の代に新井筒斎という人がこの寺に来たので、あなたの父であった人に告げ知らせたところ、来て対面し、日の暮れるまでおられた。その人は毎年来ることもあり、また年を隔てて来ることもあった。従弟であるとのことだったが、さてどうであったか。またどこから来た人ということも知らなかった、という。これらのことは、わが母であった人も知っておられたとも聞こえない。まして私に語られたこともない。昔の人は、どのようにこうしておられたのだろう。この了也も、わが父が亡くなって三十余年の後に、初めてこのように語ったのだった。
解説

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