折たく柴の記 / 『折たく柴の記』養子正信と土屋昌恒の最期
我が父、戸部の家に來り給ひて、いまだ母にておはせし人をむかへ給はざりしほどに、したしくいひかたらひ給ひし人の二男を、やしなひて子とし給ひ、正信と名のらせ給ひたりき。(幼名一彌)これは、常陸の大塚の家につかへし郡司の何某といひしものゝのちなりと聞えし。かの正信の十六歳の時より、戸部の二男にておはせし人の、陸奥の相馬の家をつがれし時に、めしぐせられて、かしこにぞさぶらはれける。(成人の後には彌一右衞門といふ)我が父の土屋の家をさり給ひし後には、かの人の許より、老やしなひ給ふべきほどの料をばおくられたり。そののち、かの人所領をば、嫡男に譲りあたへて、二人ありし子供をば郡司とぞ名のらせたりける。(正信は髪おろして智法と號せられき)我祿にしたがひしのち、かの人の許よりおくられし所をば辭しぬ。いくほどなくして、その人もうせしに、其の嫡男もまた世をはやくし。二男そのあとをつぎしが、これもまた世をはやくす。今はその二男が子のいとけなかりしが、父につぎしなり。嫡男をば軍治一郎兵衞といひ、二男をば同彌一右衞門といふ。その子は一彌といふなり、いかなるゆゑにか、郡司を改めて軍治としるす。戸部の祖父にておはせし人は、甲斐の武田四郎勝頼の侍大將にて、土屋右衞門尉昌恆といひしなり。其の兄の右衞門尉昌次といふが、戰死せし後に、兄につぎしに、主の家ほろびし時、重代の家人等も、皆々うしろ矢を射しに、此の昌恆一人のみぞ主にはなれずして、つひに一所にて死しける。其の手に屬せし、志水神戸といふつはもの二人、昌恆の妻と子とをともなひて、駿河の國に落ち來る。清見寺の住僧は、神戸がしれる人なりしかば、彼の子息をば、其の僧の弟子にまゐらす。其の六歳なりし時、大御所御覽ありて、土屋が子なるよしを聞し召され、さる者の子なり。給はらむやと仰せありて、めしぐせられ、竹千代君にまゐらせられしより、次第に身を起して、元服の後、敍爵して民部少輔忠直とめさる。これ、後の戸部の親父なり。かの志水が後はいかにかありけむ。神戸が後は、土屋の家には、雙なき譜第の侍なりけり。
新字:我が父、戸部の家に来り給ひて、いまだ母にておはせし人をむかへ給はざりしほどに、したしくいひかたらひ給ひし人の二男を、やしなひて子とし給ひ、正信と名のらせ給ひたりき。(幼名一弥)これは、常陸の大塚の家につかへし郡司の何某といひしものゝのちなりと聞えし。かの正信の十六歳の時より、戸部の二男にておはせし人の、陸奥の相馬の家をつがれし時に、めしぐせられて、かしこにぞさぶらはれける。(成人の後には弥一右衛門といふ)我が父の土屋の家をさり給ひし後には、かの人の許より、老やしなひ給ふべきほどの料をばおくられたり。そののち、かの人所領をば、嫡男に譲りあたへて、二人ありし子供をば郡司とぞ名のらせたりける。(正信は髪おろして智法と号せられき)我禄にしたがひしのち、かの人の許よりおくられし所をば辞しぬ。いくほどなくして、その人もうせしに、其の嫡男もまた世をはやくし。二男そのあとをつぎしが、これもまた世をはやくす。今はその二男が子のいとけなかりしが、父につぎしなり。嫡男をば軍治一郎兵衛といひ、二男をば同弥一右衛門といふ。その子は一弥といふなり、いかなるゆゑにか、郡司を改めて軍治としるす。戸部の祖父にておはせし人は、甲斐の武田四郎勝頼の侍大将にて、土屋右衛門尉昌恒といひしなり。其の兄の右衛門尉昌次といふが、戦死せし後に、兄につぎしに、主の家ほろびし時、重代の家人等も、皆々うしろ矢を射しに、此の昌恒一人のみぞ主にはなれずして、つひに一所にて死しける。其の手に属せし、志水神戸といふつはもの二人、昌恒の妻と子とをともなひて、駿河の国に落ち来る。清見寺の住僧は、神戸がしれる人なりしかば、彼の子息をば、其の僧の弟子にまゐらす。其の六歳なりし時、大御所御覧ありて、土屋が子なるよしを聞し召され、さる者の子なり。給はらむやと仰せありて、めしぐせられ、竹千代君にまゐらせられしより、次第に身を起して、元服の後、叙爵して民部少輔忠直とめさる。これ、後の戸部の親父なり。かの志水が後はいかにかありけむ。神戸が後は、土屋の家には、双なき譜第の侍なりけり。
書き下し
我が父、戸部の家に來り給ひて、いまだ母にておはせし人をむかへ給はざりしほどに、したしくいひかたらひ給ひし人の二男を、やしなひて子とし給ひ、正信と名のらせ給ひたりき。(幼名一彌)これは、常陸の大塚の家につかへし郡司の何某といひしものゝのちなりと聞えし。かの正信の十六歳の時より、戸部の二男にておはせし人の、陸奥の相馬の家をつがれし時に、めしぐせられて、かしこにぞさぶらはれける。(成人の後には彌一右衞門といふ)我が父の土屋の家をさり給ひし後には、かの人の許より、老やしなひ給ふべきほどの料をばおくられたり。そののち、かの人所領をば、嫡男に譲りあたへて、二人ありし子供をば郡司とぞ名のらせたりける。(正信は髪おろして智法と號せられき)我祿にしたがひしのち、かの人の許よりおくられし所をば辭しぬ。いくほどなくして、その人もうせしに、其の嫡男もまた世をはやくし。二男そのあとをつぎしが、これもまた世をはやくす。今はその二男が子のいとけなかりしが、父につぎしなり。嫡男をば軍治一郎兵衞といひ、二男をば同彌一右衞門といふ。その子は一彌といふなり、いかなるゆゑにか、郡司を改めて軍治としるす。戸部の祖父にておはせし人は、甲斐の武田四郎勝頼の侍大將にて、土屋右衞門尉昌恆といひしなり。其の兄の右衞門尉昌次といふが、戰死せし後に、兄につぎしに、主の家ほろびし時、重代の家人等も、皆々うしろ矢を射しに、此の昌恆一人のみぞ主にはなれずして、つひに一所にて死しける。其の手に屬せし、志水神戸といふつはもの二人、昌恆の妻と子とをともなひて、駿河の國に落ち來る。清見寺の住僧は、神戸がしれる人なりしかば、彼の子息をば、其の僧の弟子にまゐらす。其の六歳なりし時、大御所御覽ありて、土屋が子なるよしを聞し召され、さる者の子なり。給はらむやと仰せありて、めしぐせられ、竹千代君にまゐらせられしより、次第に身を起して、元服の後、敍爵して民部少輔忠直とめさる。これ、後の戸部の親父なり。かの志水が後はいかにかありけむ。神戸が後は、土屋の家には、雙なき譜第の侍なりけり。
現代語訳
我が父が戸部の家に来られて、まだ母君を迎えられなかったころ、親しく語り合っていた人の二男を養って子とされ、正信と名のらせた。(幼名は一彌)これは、常陸の大塚の家に仕えた郡司の何某という者の子孫と聞いている。この正信は十六歳のときから、戸部の二男であった方が陸奥の相馬の家を継がれたときに召し連れられ、かの地にお仕えした。(成人の後には彌一右衞門という)我が父が土屋の家を去られた後には、その方のもとから、老いを養うのに足りるほどの費用が送られた。そののち、その方は所領を嫡男に譲り与え、二人いた子供には郡司と名のらせた。(正信は髪をおろして智法と号された)自分が禄に従うようになってのち、その方のもとから送られていた分は辞退した。いくらもたたずにその人も亡くなり、その嫡男もまた早世した。二男がその跡を継いだが、これもまた早世した。今はその二男の幼かった子が父の跡を継いでいる。嫡男を軍治一郎兵衞といい、二男を同彌一右衞門という。その子は一彌という。どういう理由でか、郡司を改めて軍治と記す。戸部の祖父であった人は、甲斐の武田四郎勝頼の侍大将で、土屋右衞門尉昌恆といった。その兄の右衞門尉昌次が戦死した後に、兄の跡を継いだが、主家が滅んだとき、代々仕えた家臣たちも皆うしろ矢を射かけたのに、この昌恆ひとりだけが主君から離れず、ついに同じ所で死んだ。その配下にいた志水神戸という兵二人が、昌恆の妻と子を連れて駿河の国に落ちてきた。清見寺の住職は神戸の知り合いだったので、その子息をその僧の弟子として預けた。その子が六歳のとき、大御所がご覧になり、土屋の子であると聞かれて、そのような者の子か。私にくれまいかと仰せになり、召し連れられて竹千代君にさし上げられたときから、だんだんと身を起こし、元服の後、叙爵して民部少輔忠直と名のることを許された。これが、のちの戸部の父である。あの志水の後はどうなったのだろう。神戸の子孫は、土屋の家では並ぶ者のない譜代の侍であった。
解説

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