折たく柴の記 / 『折たく柴の記』養家での十三歳と江戸への出奔
かくてうせ給ひし後に、兄にてありし人々のはからひにて、ある人のもとにやしなはれぬ。その我をやじなひし人は、我が父のごとくにはあらで、いかにも家富みて、めしつかふ人も多くて、弓鐵砲長槍なども多くたくはへ置きたり。我をいつくしむ事淺からず。十三歳の時に至りて、我ともだちと、いひあらそふ事のありしに、おのが家の子の子としらぬものゝ、何事をわきまふべきといふ。心得ぬ事に思ひたれど、人にとふべきよしなければ、かの我をいだきそだてし老婢のもとにゆきて、其の事をとふに、それらの事共心にかけ給ふべからずといふ。いよ〳〵覺束なくなりて、頼りにとふほどに、涙を流してなく〳〵父上の御事も、今の親とたのみ給ひし人々のごとき、むかしをしのび參らせてければ、しづかに身をも終り給ひたるなり。今は家もとみさかえし人の、いかなる人の子を子とせむも心のまゝたるべし。それに御ことを養ひ參らせて、まことの子よりなほいとほしみふかきも、主の御子とおもふによれる也。あひかまへて孝行の御こゝろざし淺かるまじといふ。」此の事を聞きしより、兄にておはせし人々に、恨深くなりて、手習ふとて、つねにゆきかよひし師の坊にこうて、青銅百疋をかり得て、小袖袴やうの物ども、柿紙につゝみて刀にかけ、青銅をば腰に纒ひて立ち出でたり。道のほど二三里もゆきしと覺えしほどに、水戸より江戸にゆく脚力二人にゆきあうて、江戸にゆくべき道とひしに、をさきものゝたゞひとりゆかむには、盜賊のおそれありぬべし。我々にしたがひて來れかしといふ。さもありぬと思ひて、うちつれてゆく。いづれの所、いかなる人の子、江戸にしては、いかなる人の許にゆくらむと問ふに、はじめのほどは、こたふる事もなかりしかど、かれらなさけありて、つかれぬれば馬にのせなどしてゆくほどに、さのみつゝみてもよしなしと思ひて、ありし事ども語りしかば、あはれがりて、江戸につれ來りて、とかくはからひしほどに、我が身をよすべきかたも出で來たりき。」
新字:かくてうせ給ひし後に、兄にてありし人々のはからひにて、ある人のもとにやしなはれぬ。その我をやじなひし人は、我が父のごとくにはあらで、いかにも家富みて、めしつかふ人も多くて、弓鉄砲長槍なども多くたくはへ置きたり。我をいつくしむ事浅からず。十三歳の時に至りて、我ともだちと、いひあらそふ事のありしに、おのが家の子の子としらぬものゝ、何事をわきまふべきといふ。心得ぬ事に思ひたれど、人にとふべきよしなければ、かの我をいだきそだてし老婢のもとにゆきて、其の事をとふに、それらの事共心にかけ給ふべからずといふ。いよ〳〵覚束なくなりて、頼りにとふほどに、涙を流してなく〳〵父上の御事も、今の親とたのみ給ひし人々のごとき、むかしをしのび参らせてければ、しづかに身をも終り給ひたるなり。今は家もとみさかえし人の、いかなる人の子を子とせむも心のまゝたるべし。それに御ことを養ひ参らせて、まことの子よりなほいとほしみふかきも、主の御子とおもふによれる也。あひかまへて孝行の御こゝろざし浅かるまじといふ。」此の事を聞きしより、兄にておはせし人々に、恨深くなりて、手習ふとて、つねにゆきかよひし師の坊にこうて、青銅百疋をかり得て、小袖袴やうの物ども、柿紙につゝみて刀にかけ、青銅をば腰に纒ひて立ち出でたり。道のほど二三里もゆきしと覚えしほどに、水戸より江戸にゆく脚力二人にゆきあうて、江戸にゆくべき道とひしに、をさきものゝたゞひとりゆかむには、盗賊のおそれありぬべし。我々にしたがひて来れかしといふ。さもありぬと思ひて、うちつれてゆく。いづれの所、いかなる人の子、江戸にしては、いかなる人の許にゆくらむと問ふに、はじめのほどは、こたふる事もなかりしかど、かれらなさけありて、つかれぬれば馬にのせなどしてゆくほどに、さのみつゝみてもよしなしと思ひて、ありし事ども語りしかば、あはれがりて、江戸につれ来りて、とかくはからひしほどに、我が身をよすべきかたも出で来たりき。」
書き下し
かくてうせ給ひし後に、兄にてありし人々のはからひにて、ある人のもとにやしなはれぬ。その我をやじなひし人は、我が父のごとくにはあらで、いかにも家富みて、めしつかふ人も多くて、弓鐵砲長槍なども多くたくはへ置きたり。我をいつくしむ事淺からず。十三歳の時に至りて、我ともだちと、いひあらそふ事のありしに、おのが家の子の子としらぬものゝ、何事をわきまふべきといふ。心得ぬ事に思ひたれど、人にとふべきよしなければ、かの我をいだきそだてし老婢のもとにゆきて、其の事をとふに、それらの事共心にかけ給ふべからずといふ。いよ〳〵覺束なくなりて、頼りにとふほどに、涙を流してなく〳〵父上の御事も、今の親とたのみ給ひし人々のごとき、むかしをしのび參らせてければ、しづかに身をも終り給ひたるなり。今は家もとみさかえし人の、いかなる人の子を子とせむも心のまゝたるべし。それに御ことを養ひ參らせて、まことの子よりなほいとほしみふかきも、主の御子とおもふによれる也。あひかまへて孝行の御こゝろざし淺かるまじといふ。」此の事を聞きしより、兄にておはせし人々に、恨深くなりて、手習ふとて、つねにゆきかよひし師の坊にこうて、青銅百疋をかり得て、小袖袴やうの物ども、柿紙につゝみて刀にかけ、青銅をば腰に纒ひて立ち出でたり。道のほど二三里もゆきしと覺えしほどに、水戸より江戸にゆく脚力二人にゆきあうて、江戸にゆくべき道とひしに、をさきものゝたゞひとりゆかむには、盜賊のおそれありぬべし。我々にしたがひて來れかしといふ。さもありぬと思ひて、うちつれてゆく。いづれの所、いかなる人の子、江戸にしては、いかなる人の許にゆくらむと問ふに、はじめのほどは、こたふる事もなかりしかど、かれらなさけありて、つかれぬれば馬にのせなどしてゆくほどに、さのみつゝみてもよしなしと思ひて、ありし事ども語りしかば、あはれがりて、江戸につれ來りて、とかくはからひしほどに、我が身をよすべきかたも出で來たりき。」
現代語訳
こうして祖父が亡くなられた後、兄であった人々の取り計らいで、ある人の家に養われることになった。私を養ったその人は、わが父のようではなく、たいへん家が富み、召し使う人も多くて、弓・鉄砲・長槍なども多く蓄えていた。私を慈しむことは並々でなかった。十三歳の時になって、友と言い争うことがあり、おまえは、うちの家の子の子とも知らない者が、何をわきまえているというのか、と言う。納得できないことに思ったが、人に尋ねるすべもないので、あの私を抱き育てた老婢のところへ行って、そのことを尋ねると、そういうことはお気にかけなさいますな、と言う。ますます気がかりになって、しきりに尋ねるうちに、涙を流して泣く泣く、父上のことも、今の親とお頼みの方々のような人が、昔を偲び申し上げてくださったので、静かにお亡くなりになったのです。今は家が富み栄えた人が、どのような人の子を子にしようとも心のままでしょう。それなのにあなたを養い申し上げて、実の子よりなお慈しみ深いのは、主の御子と思うからなのです。必ず孝行の志が浅くならないようになさい、と言う。」このことを聞いてから、兄であった人々に恨みが深くなって、手習いに通っていた師の坊に頼んで、青銅(銭)百疋を借り受け、小袖や袴などの物を柿渋の紙に包んで刀にかけ、銭は腰に巻いて出発した。道のり二三里ほども行ったと思うころ、水戸から江戸へ行く飛脚二人に行き会って、江戸へ行く道を尋ねると、幼い者がただ一人で行くのは、盗賊の恐れがあるだろう。我々に従って来なさいと言う。それもそうだと思って、連れ立って行く。どこの所の、どのような人の子で、江戸ではどういう人の許へ行くのかと尋ねるので、初めのうちは答えもしなかったが、彼らは情けがあって、疲れれば馬に乗せなどして行くうちに、あまり隠してもしかたがないと思って、あった事どもを語ったところ、気の毒がって、江戸に連れて来て、あれこれ取り計らううちに、身を寄せるところも出来たのだった。」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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