遠羅天釜 / 『遠羅天釜』禅と浄土の分担と士農工商の喩え
無量壽尊大慈善巧の專修にして六八の大誓に本づき三四の修心を具す專ら中下の機の爲めに設けて無智昏愚の衆生を利し十惡五逆の罪累を拔く攝取不捨の金言を主として下きが上にも轉下きを要とし易きが上にも轉易きを貴しとす此故に言縱ひ一代の敎を能く能く學したりとも一文不知の愚鈍の身になして只一向に念佛せよと澆季末代五濁亂滿の邊土に一日も缺くべからざる善巧なり禪門は力士の長けを鬪はしむるに等し高きを以て勝れりとす淨家は侏儒の長けを鬪はしむるが如し矮きを以て勝れりとす禪門の高きを惡んで是を廢せば佛心向上の眞風は土を拂つて泯沒せん淨家の矮きを嫌つて是を廢せば昏愚無智の部屬は惡趣を出る事能はじ顧ふにそれ佛は大醫王の如し八萬四千種の方劑を設けて八萬四千種の病根を拔く禪と云ひ敎と云ひ律と云ひ淨と云ふ各々是病に應ずる一方なり譬へば世に士と云ひ農と云ひ工と云ひ商と云ふ此四民あるが如し士は智仁兼備へ韜略並べ全ふして王位を鎭護し逆徒を從がへ天下を泰山の安きに置き君を堯舜の君にし民を堯舜の民にし嗔らざれども民斧鉞よりも畏尤も嚴重なるを貴しとす重んずべきの美器なり商は大店を張り貨財を通じ錦繡綾羅絹帛綿布及び粟米蔗果魚肉をざへに廣きを以て好とす緇素男女老幼尊卑其求めに應ぜずと云ふ事なし士若し商賈の廣きを羨み財利を貪り行ひて商賈の態を作さば大ひに射御を廢し武藝も亦忘れて笑を朋友に惹ん主人も亦大ひに嗔つて此れを擯出せん商も又士の嚴重なるを羨み劍を帶し鞍馬に跨つて戎面して亂りに西東に走らば人それ大ひに笑はん家道も亦廢せん向に謂ゆる禪を得ずんば命終の時淨土に生ぜんと兩端に渉つて修行せん人は魚も得ず熊の掌も亦得ず却て生死の業根に培かい命根截斷囮地一下の歡喜は努々是有べからず
新字:無量寿尊大慈善巧の専修にして六八の大誓に本づき三四の修心を具す専ら中下の機の為めに設けて無智昏愚の衆生を利し十悪五逆の罪累を抜く摂取不捨の金言を主として下きが上にも転下きを要とし易きが上にも転易きを貴しとす此故に言縦ひ一代の教を能く能く学したりとも一文不知の愚鈍の身になして只一向に念仏せよと澆季末代五濁乱満の辺土に一日も欠くべからざる善巧なり禅門は力士の長けを闘はしむるに等し高きを以て勝れりとす浄家は侏儒の長けを闘はしむるが如し矮きを以て勝れりとす禅門の高きを悪んで是を廃せば仏心向上の真風は土を払つて泯没せん浄家の矮きを嫌つて是を廃せば昏愚無智の部属は悪趣を出る事能はじ顧ふにそれ仏は大医王の如し八万四千種の方剤を設けて八万四千種の病根を抜く禅と云ひ教と云ひ律と云ひ浄と云ふ各々是病に応ずる一方なり譬へば世に士と云ひ農と云ひ工と云ひ商と云ふ此四民あるが如し士は智仁兼備へ韜略並べ全ふして王位を鎮護し逆徒を従がへ天下を泰山の安きに置き君を堯舜の君にし民を堯舜の民にし嗔らざれども民斧鉞よりも畏尤も厳重なるを貴しとす重んずべきの美器なり商は大店を張り貨財を通じ錦繍綾羅絹帛綿布及び粟米蔗果魚肉をざへに広きを以て好とす緇素男女老幼尊卑其求めに応ぜずと云ふ事なし士若し商賈の広きを羨み財利を貪り行ひて商賈の態を作さば大ひに射御を廃し武芸も亦忘れて笑を朋友に惹ん主人も亦大ひに嗔つて此れを擯出せん商も又士の厳重なるを羨み剣を帯し鞍馬に跨つて戎面して乱りに西東に走らば人それ大ひに笑はん家道も亦廃せん向に謂ゆる禅を得ずんば命終の時浄土に生ぜんと両端に渉つて修行せん人は魚も得ず熊の掌も亦得ず却て生死の業根に培かい命根截断囮地一下の歓喜は努々是有べからず
書き下し
無量壽尊大慈善巧の專修にして六八の大誓に本づき三四の修心を具す專ら中下の機の爲めに設けて無智昏愚の衆生を利し十惡五逆の罪累を拔く攝取不捨の金言を主として下きが上にも轉下きを要とし易きが上にも轉易きを貴しとす此故に言縱ひ一代の敎を能く能く學したりとも一文不知の愚鈍の身になして只一向に念佛せよと澆季末代五濁亂滿の邊土に一日も缺くべからざる善巧なり禪門は力士の長けを鬪はしむるに等し高きを以て勝れりとす淨家は侏儒の長けを鬪はしむるが如し矮きを以て勝れりとす禪門の高きを惡んで是を廢せば佛心向上の眞風は土を拂つて泯沒せん淨家の矮きを嫌つて是を廢せば昏愚無智の部屬は惡趣を出る事能はじ顧ふにそれ佛は大醫王の如し八萬四千種の方劑を設けて八萬四千種の病根を拔く禪と云ひ敎と云ひ律と云ひ淨と云ふ各々是病に應ずる一方なり譬へば世に士と云ひ農と云ひ工と云ひ商と云ふ此四民あるが如し士は智仁兼備へ韜略並べ全ふして王位を鎭護し逆徒を從がへ天下を泰山の安きに置き君を堯舜の君にし民を堯舜の民にし嗔らざれども民斧鉞よりも畏尤も嚴重なるを貴しとす重んずべきの美器なり商は大店を張り貨財を通じ錦繡綾羅絹帛綿布及び粟米蔗果魚肉をざへに廣きを以て好とす緇素男女老幼尊卑其求めに應ぜずと云ふ事なし士若し商賈の廣きを羨み財利を貪り行ひて商賈の態を作さば大ひに射御を廢し武藝も亦忘れて笑を朋友に惹ん主人も亦大ひに嗔つて此れを擯出せん商も又士の嚴重なるを羨み劍を帶し鞍馬に跨つて戎面して亂りに西東に走らば人それ大ひに笑はん家道も亦廢せん向に謂ゆる禪を得ずんば命終の時淨土に生ぜんと兩端に渉つて修行せん人は魚も得ず熊の掌も亦得ず却て生死の業根に培かい命根截斷囮地一下の歡喜は努々是有べからず
現代語訳
無量寿尊(阿弥陀仏)の大慈と巧みな方便による専修は、四十八の大誓願に基づき、三心・四修の修心を具えている。もっぱら中下の機のために設けられ、無知愚昧の衆生を利益し、十悪五逆の罪の重なりを抜く。摂取不捨の金言を主とし、低い上にもいよいよ低いことを要とし、易しい上にもいよいよ易しいことを貴しとする。だから「たとえ一代の教えをよくよく学んだとしても、一文不知の愚鈍の身になって、ただひたすら念仏せよ」と言う。澆季末代、五濁が乱れ満ちた辺土に、一日も欠くことのできない巧みな方便である。禅門は力士の背丈を競わせるようなもので、高いことをもって優れたものとする。浄家は小人の背丈を競わせるようなもので、低いことをもって優れたものとする。禅門の高きを憎んでこれを廃すれば、仏心向上の真風は地を払って滅びるであろう。浄家の低さを嫌ってこれを廃すれば、無知愚昧の者たちは悪趣を出ることができないであろう。思うに、仏は大医王のようなもので、八万四千種の薬方を設けて八万四千種の病根を抜く。禅といい、教といい、律といい、浄といい、それぞれ病に応じる一つの処方である。たとえば世に士・農・工・商と言う四民があるようなものだ。士は智と仁を兼ね備え、兵法を併せ全うして王位を守り、逆徒を従え、天下を泰山の安きに置き、君を堯舜の君にし、民を堯舜の民にし、怒らなくても民が斧鉞よりも畏れる、最も厳重であることを貴ぶ。重んずべき立派な器である。商は大きな店を構え、貨財を通じ、錦繍、綾羅、絹帛、綿布、および粟米、果物、魚肉までも、広いことをよしとする。出家在家、男女老幼、尊卑、その求めに応じないということがない。士がもし商人の広さをうらやみ、財利を貪って商人の振る舞いをすれば、射御を廃し武芸も忘れて、友人に笑われ、主人もまた大いに怒ってこれを追い出すだろう。商もまた士の厳重さをうらやみ、剣を帯び、鞍馬にまたがり、武者の姿で乱りに東西に走れば、人は大いに笑うだろう。家業もまた廃れよう。先に述べた、禅を得なければ命終の時に浄土に生まれようと、両方に渡って修行する人は、魚も得ず熊の掌も得ず、かえって生死の業根を培い、命根截断、団地一下の歓喜は決してあるはずがない。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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遠羅天釜・『遠羅天釜』禅浄兼修を退ける理由淨土を事とするが如きは、攝取して捨てず、我を計り相に著する族に於いて、巧みに根機に逗ふ、蓋し逼和の法門なり。其の珠體より之を言へば、則ち幻化に非ずして何ぞや。是の故に圓覺經に曰く、不可說恒河沙の諸佛世界は、猶ほ空華の亂起亂滅するが如し。當に知るべし、一切の世界は皆な幻の如くにして住すと。是を以て實敎の明らかにする所、僉な無形を以て淨土と爲す。華嚴に曰く、眞に依りて往く、國土に非ずと。生公も亦た曰く、佛は有形の累ありて、土に託して以て居る。佛は是れ常住法身なり、何ぞ國土を須ゐん。當に知るべし、十方諸佛の有する所の國土は、悉く是れ幻化にして眞實に非ざることを、と。是に由りて之を觀れば、佛道は必ず茲に在らざること、鑿然たり。知らざる者は自ら謂ふ、禪にして淨土を兼ぬと。虎にして翼を挾む者なり。或いは謂ふ、禪にして淨土無しと。十人に九は路を蹉つ。然らば則ち彼の韓・墨・楊・申の徒の如きは、帝者をして國人の業を習はしめんと謂ふか。啻に其の祚を有つこと能はざるのみならず、必ず其の國を亡ぼすに至らん。苟くも其の道の明らかならざるを憂へば、惟だ痛勵密進して自ら其の德を全うするに在るのみ。奚ぞ兼ぬるを以て爲さん。華嚴觀に云く、有信不信の法界の信、是れ邪なるか、と。凡そ諸經論の中、具さに二行を明かす。一は無念、二は有念なり。皆な佛道を成ずべしと雖も、優劣は懸殊なり。參禪辨道は即ち無念無相の念佛にして、此を眞如三昧と謂ふ。淨土を欣求するは即ち存想計名の念佛にして、此を修習淨業と謂ふ。但だ能く不二に通達すれば、便ち眞の佛子たり。想ふに夫の兼ぬる者は、蓋し二本なるが故なり。觀經に云く、諸佛如來は是れ法界身なり。是の心は即ち是れ三十二相八十隨形好なり。是の心、佛と作り、是の心是れ佛なり、と。又た曰く、佛身の高さ六十萬億那由多恒河沙由旬、彼の佛の圓光は百億の三千大千世界の如し、と。如來誠諦の語、此に到りて內燈を顯示す。其の旨甚だ深し。名づけて恢廓廣大、超勝獨妙、建立常然、衰無く變無きの妙土と曰ふ。此くの如き妙土は、形相を以て莊嚴すべからず、金珠を以て修飾すべからざるなり。所以に金剛般若に曰く、若し菩薩、是の言を作さん、我れ當に佛土を莊嚴すべしと。是れ菩薩と名づけず。何を以ての故に。如來の說く莊嚴佛土とは、即ち莊嚴に非ず、是れを莊嚴と名づく、と。又た維摩經に曰く、其の心の淨きに隨ひて則ち佛土淨し、と。果して此くの如くんば、則ち參禪學道は豈に是れ佛土を莊嚴するに非ずや。彼の元明の禪者、自ら其の造詣の精ならざるを刷がんと欲す。故に傅會して以て之を文る。甚だしき者は邯鄲の步に過ぎざるなり。陽には之を慕ひ、陰には之に悖る。又た何をか取らん。世の佛を學ぶ者、狐疑して之を能く正す莫く、雷同して難を易に換ふ。則ち如來の正法眼藏、復た幾んど息まんとす。思はざるべけんや。吾が師の之を闢くこと廓如たり。豈に辯を好まんや。已むを得ざるなり。
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遠羅天釜・『遠羅天釜』客の問い 浄土は幻化か元明の禪家の流、往往にして偏へに佛を稱す。此れ武夫を明月に混じ、燕石を隋侯に雜ふるなり。爾來、天下の叢林、節を擊ちて相ひ從ひ、滔滔乎として踵を繼ぐ。宗風の陵夷は、職として是れに之れ由る。此の時に當たりて、無畏の一聲を假るに非ずんば、多少の頑皮をして、靸頭腦を裂破せしむるに由無し。向者に鍋嶋侯、書を馳せて之を致し、師に問ふ。師、兩端を叩きて竭くせり。針を霧海に視、珠を合浦に還すと謂ふべき者なり。一日、客有りて予に謂ひて曰く、「淨土の一門は如來の勝方便なり。馬鳴之を稱し、龍樹之を慕ふ。勝妙の國土、實に之れ有るに似たり。然るに今之を卻く。其の他の劣機、之を聞かば則ち必ず淨土を斷望せん」と。予曰く、「噫、淨土を事とするが如きは、如來不可思議の莊嚴海の中、此の事無きに非ず。只だ是れ鏡像幻化のみ。然りと雖も、幻化の幻化たる所以を識破すれば、則ち幻化の幻化と爲すべき無きなり。但だ法身は幽微にして法體は緣り難きを以て、且く念佛して形を觀、以て禮讃せしむ。是れ他無し、愚凡の障重きが故なり。若し夫れ大心の衆生は、那の處か是れ淨土ならざる。思ふに子の執する所は莊嚴有餘等なり。師の示す所は寂光理土なり。宜なるかな子の疑ひを生ずること。佛華嚴經に曰く、如來の淨土は、或いは如來の寶冠に在り、或いは耳璫に在り、或いは瓔珞に在り、或いは衣紋に在り、或いは毛孔に在り、と。此くの如き毛孔にも既に世界を容る。故に的かに知る、方處無く涯畔無きことを。蓋し二尊者の如きは、悲願廣大にして物の爲に前驅す。之を權に幻化の衣を著て幻化の國に生ぜんと願ふと謂はんか。之を此の土の本土を起たずして無生の往生を現すと謂はんか。之を要するに、如來出世の本懷、祖師應機の作用、其の跡は萬端なれども、其の致は一なり。但だ一切衆生をして佛知見に悟入せしめんと欲するなり。更に餘蘊無し。法華經に曰く、諸佛世尊は種種の方便、種種の譬喩、種種の因緣もて、是の法は皆な一佛乘の爲の故なり、と。諸の衆生の爲に諸法を演說す。是くの如くんば、則ち淨土の設けは、豈に一佛乘の助けと爲すに非ずや。吾が老師、上の如く丁寧に告誡す。豈に他有らんや。其の莊飾を卻けて、之に本色を呈す。譬へば眞金を以て啼を止むるが如し。苟くも黃葉と爲さば、他後に悔い有らん。又た元明の間、宗旨を屈辱する者の爲に激切する所有るは、則ち是れ屋裏に鼓を鳴らすの攻めなり。豈に敢へて他の信男信女の願生の人を敺驅して、自家の底を粧重する者ならんや。人有りて專ら稱名を修め、忽然として三昧を發得すれば、則ち期せずして然り、必ず然り。是れ佛道二つ無きが故なり。子其れ好く思へ。歷然として解すべし。」
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遠羅天釜・『遠羅天釜』無事禅の戒めと遠くない道此上猶又怠り給はずは禪門にいはゆる左手を握て中指を咬等の心地も次第に明かなるべし今時往々に道參禪無益なり話頭了じて什麼かせん即心即佛の直指なれば念の起るをも愁ず念の止たるをも喜ばず山賤の白木の合子只生れ付たる自性の儘なるがよきぞ漆つけねば剝色こそ無れとて日々徒に盲龜の空谷に入が如し去て以て足りとす此は是天竺の自然外道の所見なり恁麼にして佛心向上の宗旨なりと稱せば七村裏の土地も亦掌を撫して大笑すべきぞかし何が故ぞこれ總に長沙の謂ゆる識神を認得する底の凝人ならずや楞嚴に賊を認て子となす終に元淨明の體を知事能はずと呵せられしは此等の部類なり殊にしらず如來は四果の聖者の諸漏已盡し我法の眞理に達し神通具足し名稱普く聞へ給ふをさゑ禪を知りとは許可し給はず故に經曰我弟子大阿羅漢不能解此義唯有大菩薩衆應解此義とも說給へるものを見性の功さへなくて妄に自ら尊と稱す是何の心ぞや人は只兎もあれ萬緣を抛擲して唱るに越たる事はなき事なり去ながら題目ばかりの利益なりと偏執し給ふべからず眞言に限らず淨土に限らず何れも優劣あるべからず淨家の人々は專唱稱名の功力に依て是非〱一回唯心の淨土己身の彌陀の妙相を見屆けでや置べきと決烈の大志を憤起し頭然を救ふが如く間もなく唱へ進みたらんに佛も去此不遠と說給ひたる者をなどや七重の寶樹八功德池の有樣を見屆けずやはあるべき眞言の人々は陀羅尼微妙の威力に依て是非とも阿字不生の大日輪を拜し奉るべしと禪門に於て一則の話頭を擧揚するが如く精進勇猛の憤志を震つて繰たらんに高野大師も不轉肉身と唱へ給ひたる者をなどかは彼金剛不壞の正體を磨出さずや有べき何れも死後を待て利益に預んと打延し給ふは不覺油斷の至り覺束なきものぞかし遠き事とな歎給ひぞ八重の潮路を隔てたる唐土天竺の事を見給へ聞給へと云にこそ遠き事とは歎くべけれ自心を以て自心を見る吾瞳を以て吾瞳を見るより近き事には侍らずや深き事とな恐れ給ひそ九淵の潭の底千尋の海の中なる物を見給へ聞給へと云にこそ深き事とは恐るべけれ吾心を以て吾心を見る吾鼻を以て吾鼻を嗅より近き事には侍らずや世は末世なれども法は更々末世ならず末世なりとて打捨顧み給はずば寳の山に入ながら自ら飢凍を苦しむが如し末世には去事は及ばぬ事とな恐れ給ひぞ遠くは惠心院の僧都近くは赤澤の即往山城の圓悉何れも稱名の力に依て右の素懷を遂給ひたるぞかし法然上人も此望は深くおわしけれども先達なき故に翼短ふして長空に翔らざる心地なりと宣ひき
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遠羅天釜・『遠羅天釜』宝珠と色像のたとえ客曰く、「淨土を幻化とせば、何物か幻化ならざる。禪も亦た幻化なり。夫の佛の如きは、萬善を曠劫に積み、無始の遺塵を蕩ひ、果報を以ての故に其の土の清淨を獲。之を幻化と謂ふべからざるなり。借し禪門を其の短とする所と識らば、如來を讃ずるに於て則ち必ず長ずる所有らん」と。予曰く、「果報の土は實に是れ幻化なり。蓋し嘗て之を論ぜん。大毘盧舍那の五智圓明、常住の本體は、猶ほ清淨摩尼寶珠の能く種種の色像を現ずるが如し。淨なれば則ち淨現じ、穢なれば則ち穢現ず。總て是れ所現の物なり。現ずる無くして現ず、故に無に非ず。現ずと雖も現ぜず、又た有に非ず。有既に有ならざれば、則ち無も何に據らん。不思議の致す所、有無を其の間に容るること能はず、而も何物か現ぜざらん。所以に萬有は森然として其の來る所以を知らず、一虛は蕭然として其の往く所以を識る罔し。色像を能依とするを以ての故に、寶珠を離れて色像無く、寶珠の所現なるを以ての故に、色像を離れて寶珠無し。寶珠は即ち色像、色像は即ち寶珠なり。人有りて此の大寶珠を實體すれば、則ち能く不可說微塵數の淨土を現じ、包羅せざる無く含蓄せざる無し。唯だ是れ當處湛然たること、彼の一佛國土に繫念する者と奚ぞ翅だ霄壤のみならんや。是の故に至人は往くとして寶珠ならざる無く、光光映徹して主伴盡くること無し。愚凡は之に反し、是の故に往くとして色像ならざる無く、法法質礙して淨穢駁雜す。是れ他の契證すると否とに由るのみ。淨土の如きは、中下の根の爲に、假に微妙の色像に緣りて、依る無き珠體を感ぜしむる者なり。故に希望を以て之が媒と爲し、色像を見ることを得れば、斯れ可なり。寶珠は見ることを得べからざるなり。禪家の如きは、上上の機の爲に、直ちに圓明の寶珠を指して、色相に依ること有るを見ざる者なり。故に妙悟を以て之を爲せば、則ち寶球も亦た擊碎せん。何の色像か之れ有らん。蓋し禪と淨土とは途軌殊なり。禪は佛心印を傳へ、正法眼藏を荷擔する者なり。佛心は即ち禪、更に何の佛か有らん。正法は即ち是れ宗、更に何の經か有らん。所以に調御師、金襴を大龜氏に付し、燈燈相ひ續ぎ、血脈斷えず、猶ほ瓶水の相ひ承くるがごとし。實に法中の王たり。之を世の帝者に譬ふれば、天の曆數は爾が躬に在り、乃ち能く天下を以て己が任と爲し、叡哲欽明、遊びて萬機に及び、理として統べざる無く、威として伏せざる無し。是の故に天下に主有れば、則ち上下位し、萬物安んず。若し一日其の主を失へば、則ち天下の壞亂、此より甚だしきは莫し。大なるかな、主爲ることや。民は得て遁るる無し。」
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遠羅天釜・『遠羅天釜』宗派の争いと杖の喩え須らく知へし話頭も稱名も總に是開佛知見道の助因なる事を開佛知見は諸佛出世の本志なり後來且く方便を設けて往生と名つけ見性と云豈にそれ兩般有んや是等の意を見徹せざる故に禪者は淨業の行者を見ては無智昏愚の凡夫見性の大事有る事を知らず妄りに唱へて白畫に十萬億の刹土を飛過して極樂國土に往んとす恰かも跛鼈の身づくろいして唐土へ飛んとするが如し殊に知らず十萬億土は十惡八邪佛智開明の曉き十惡八邪乍ち氷消して當處即ち極樂國土なる事を知らずと云て輕賤す淨業の行人は禪門の諸子を見ては如來他力の大誓を信せず自力貢高の我慢を主張し大悟して生死を生んとす片腹痛き風情ならずや末代下根の我々が及ぶべき事かは左ながら家鵞の朝鮮へ翔つて鷹と羽節を較べんと羽づくろいするに似たりと慢り狹す法華經の行者は乃ち曰く吾が經の如きは三世の諸佛出世の本懷一切の如來成道の直路なる醍醐上味の妙經を指し置き稱名參禪何の用ぞ剩さへ妙經轉讀の法師を見ては唯有一乘の圓解を發せず諸法實相の知見を開かず只毎日わわさのみ叫びて偏へに春の蛙の畔にわめくに似たりなど舌長き雜言如阿梨樹枝の金文も顧りみざる愚人皆是邪魔外道の所行なりと嗔り恨む殊に知らず法華は阿含方等四味の階漸を籍過し開佛知見の至要を演此故に本文に曰く開佛知見道故出現於世と正に知るべし圓解の煥發を以て出世の本懷とする事を然らば則ち參禪も念佛も及び看經誦經をさへに盡く是見道の輔助にして行路の人の杖の如くなる事を杖に藜杖あり竹杖あり藜竹品な異なりといへども其行を扶くるに至つては一なり言事なかれ藜は可にして竹は不可なりと若其れ行客心屈し體疲れて起事能はずば藜杖竹杖何の用を成にか堪んや參禪も亦然り只肝心は行者勇猛精進の一念子に在らくのみ
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