古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

遠羅天釜 / 『遠羅天釜』宝珠と色像のたとえ

客曰淨土幻化何物不幻化禪亦幻化與夫如佛者積萬善於曠劫蕩無始遺塵以果報故獲其土清淨不可謂之幻化也借如識禪門爲其所短讃於如來則必有所長予曰果報之土實是幻化也蓋嘗論之大毘盧舍那五智圓明常住本體猶如清淨摩尼寶珠而能現種種色像淨則淨現穢則穢現總是所現物也無現而現故非無雖現不現又非有有既不有則無何據不思議之所致不能容有無於其間而何物不現所以萬有森然弗知其所以來一虛蕭然罔識其所以往以色像能依故離寶珠無色像以寶珠所現故離色像無寶珠寶珠即色像色像即寶珠有人實體如此大寶珠則能現不可說微塵數淨土無不包羅無不含蓄唯是當處湛然與彼繫念一佛國土者奚翅霄壤哉是故至人無往而不寶珠光光映徹主伴無盡愚凡反之是故無往而不色像法法質礙淨穢駁雜是由他契證與否耳如淨土爲中下根假緣微妙色像而感無依珠體者也故以希望爲之媒得見色像斯可寶珠不可得見也如禪家爲上上機直指圓明寶珠不見有依色相者也故以妙悟爲之則寶球亦擊碎何色像之有蓋禪與淨土途軌殊禪者傳佛心印荷擔正法眼藏者也佛心即禪更有何佛正法即是宗更有何經所以調御師付金襴於大龜氏燈燈相續血脈不斷猶瓶水相承實爲法中之王譬之世之帝者天之曆數在爾躬乃能以天下爲已任叡哲欽明遊及萬機理無不統威無不伏是故天下有主則上下位焉萬物安焉若一日失其主則天下壞亂莫甚於此大矣哉爲主也民無得而遁焉

新字:客曰浄土幻化何物不幻化禅亦幻化与夫如仏者積万善於曠劫蕩無始遺塵以果報故獲其土清浄不可謂之幻化也借如識禅門為其所短讃於如来則必有所長予曰果報之土実是幻化也蓋嘗論之大毘盧舎那五智円明常住本体猶如清浄摩尼宝珠而能現種種色像浄則浄現穢則穢現総是所現物也無現而現故非無雖現不現又非有有既不有則無何拠不思議之所致不能容有無於其間而何物不現所以万有森然弗知其所以来一虚蕭然罔識其所以往以色像能依故離宝珠無色像以宝珠所現故離色像無宝珠宝珠即色像色像即宝珠有人実体如此大宝珠則能現不可説微塵数浄土無不包羅無不含蓄唯是当処湛然与彼繋念一仏国土者奚翅霄壤哉是故至人無往而不宝珠光光映徹主伴無尽愚凡反之是故無往而不色像法法質礙浄穢駁雑是由他契証与否耳如浄土為中下根仮縁微妙色像而感無依珠体者也故以希望為之媒得見色像斯可宝珠不可得見也如禅家為上上機直指円明宝珠不見有依色相者也故以妙悟為之則宝球亦撃砕何色像之有蓋禅与浄土途軌殊禅者伝仏心印荷担正法眼蔵者也仏心即禅更有何仏正法即是宗更有何経所以調御師付金襴於大亀氏灯灯相続血脈不断猶瓶水相承実為法中之王譬之世之帝者天之暦数在爾躬乃能以天下為已任叡哲欽明遊及万機理無不統威無不伏是故天下有主則上下位焉万物安焉若一日失其主則天下壊乱莫甚於此大矣哉為主也民無得而遁焉

書き下し

客曰く、「淨土を幻化とせば、何物か幻化ならざる。禪も亦た幻化なり。夫の佛の如きは、萬善を曠劫に積み、無始の遺塵を蕩ひ、果報を以ての故に其の土の清淨を獲。之を幻化と謂ふべからざるなり。借し禪門を其の短とする所と識らば、如來を讃ずるに於て則ち必ず長ずる所有らん」と。予曰く、「果報の土は實に是れ幻化なり。蓋し嘗て之を論ぜん。大毘盧舍那の五智圓明、常住の本體は、猶ほ清淨摩尼寶珠の能く種種の色像を現ずるが如し。淨なれば則ち淨現じ、穢なれば則ち穢現ず。總て是れ所現の物なり。現ずる無くして現ず、故に無に非ず。現ずと雖も現ぜず、又た有に非ず。有既に有ならざれば、則ち無も何に據らん。不思議の致す所、有無を其の間に容るること能はず、而も何物か現ぜざらん。所以に萬有は森然として其の來る所以を知らず、一虛は蕭然として其の往く所以を識る罔し。色像を能依とするを以ての故に、寶珠を離れて色像無く、寶珠の所現なるを以ての故に、色像を離れて寶珠無し。寶珠は即ち色像、色像は即ち寶珠なり。人有りて此の大寶珠を實體すれば、則ち能く不可說微塵數の淨土を現じ、包羅せざる無く含蓄せざる無し。唯だ是れ當處湛然たること、彼の一佛國土に繫念する者と奚ぞ翅だ霄壤のみならんや。是の故に至人は往くとして寶珠ならざる無く、光光映徹して主伴盡くること無し。愚凡は之に反し、是の故に往くとして色像ならざる無く、法法質礙して淨穢駁雜す。是れ他の契證すると否とに由るのみ。淨土の如きは、中下の根の爲に、假に微妙の色像に緣りて、依る無き珠體を感ぜしむる者なり。故に希望を以て之が媒と爲し、色像を見ることを得れば、斯れ可なり。寶珠は見ることを得べからざるなり。禪家の如きは、上上の機の爲に、直ちに圓明の寶珠を指して、色相に依ること有るを見ざる者なり。故に妙悟を以て之を爲せば、則ち寶球も亦た擊碎せん。何の色像か之れ有らん。蓋し禪と淨土とは途軌殊なり。禪は佛心印を傳へ、正法眼藏を荷擔する者なり。佛心は即ち禪、更に何の佛か有らん。正法は即ち是れ宗、更に何の經か有らん。所以に調御師、金襴を大龜氏に付し、燈燈相ひ續ぎ、血脈斷えず、猶ほ瓶水の相ひ承くるがごとし。實に法中の王たり。之を世の帝者に譬ふれば、天の曆數は爾が躬に在り、乃ち能く天下を以て己が任と爲し、叡哲欽明、遊びて萬機に及び、理として統べざる無く、威として伏せざる無し。是の故に天下に主有れば、則ち上下位し、萬物安んず。若し一日其の主を失へば、則ち天下の壞亂、此より甚だしきは莫し。大なるかな、主爲ることや。民は得て遁るる無し。」

現代語訳

客が言った。「浄土を幻化というなら、何が幻化でないのか。禅もまた幻化である。まして仏のような方は、万善を無限の時にわたって積み、無始以来の塵を洗い、果報によってその国土の清浄を得た。これを幻化と言うべきではない。たとえ禅門にも短所があると知るなら、如来を讃える道にも必ず長所があるはずだ。」私は言った。「果報の土は実のところ幻化である。思うに、かつてこれを論じたことがある。大毘盧遮那仏の五智が円明であり常住である本体は、清浄な摩尼宝珠が種々の色や形を現すようなものである。清浄ならば清浄が現れ、穢れていれば穢れが現れる。すべて現れた物である。現れることなく現れるので無ではなく、現れていても現れていないので有でもない。有がすでに有でなければ、無もまた何に拠ろうか。不思議の致すところで、有無をその間に容れることはできず、しかも何物も現れないことはない。それゆえ万有は整然と並びながらその来るところを知らず、ひとつの虚空はひっそりとして去るところを知らない。色や形が珠に依るものであるから、宝珠を離れて色像はなく、宝珠の現したものであるから、色像を離れて宝珠はない。宝珠はそのまま色像であり、色像はそのまま宝珠である。人がこの大宝珠を体得すれば、不可説微塵数の浄土を現し、包み込まないものも蓄えないものもない。ただ、その場がそのまま澄み切っていることは、あの一つの仏国土に念を繫ぐ者とは、天と地ほどの差があるだけではない。ゆえに至人は、どこへ行っても宝珠でないところはなく、光が互いに映じ合って主も伴も尽きることがない。愚かな凡夫はその反対で、どこへ行っても色像ばかりで、一つひとつの法に妨げがあり、浄と穢が入り混じる。これはただ、他に契い証するか否かによるだけである。浄土のようなものは、中根・下根の者のために、仮に微妙な色像に縁って、依りどころのない珠の本体を感じさせるものである。それゆえ希望を媒として色像を見ることができればよく、宝珠は見ることができない。禅家は、上々の機根のために、直ちに円明の宝珠を指し示し、色相に依るものがあるとは見ないものである。それゆえ妙悟をもってこれを行えば、宝珠もまた撃ち砕かれ、どこに色像があろうか。思うに、禅と浄土とは道筋が異なる。禅は仏心印を伝え、正法眼蔵を荷う者である。仏心はすなわち禅であり、これ以外にどんな仏があろうか。正法はすなわち宗であり、これ以外にどんな経があろうか。ゆえに調御師(釈尊)は金襴を大迦葉に付し、灯が灯を継いで血脈が絶えないのは、瓶の水を次の瓶へ移し継ぐようなものである。実に法の中の王である。これを世の帝王にたとえれば、天の暦数(定め)がその身にあり、そうして天下を自分の任とし、聡明で慎み深く、万機に及んで、統べない理はなく、服させない威はない。それゆえ天下に主がいれば上下の位が定まり、万物が安らぐ。もし一日でもその主を失えば、天下の壊乱はこれより甚だしいものはない。主であることの何と大きいことか。民はこれから逃れることができない。」

解説

客の幻化論に対し、白隠は大きな宝珠が色や形を映すという喩えで答えます。浄土も禅も宝珠に映る色像と宝珠そのものの関係であり、宝珠をつかめば色像に執われないとします。中下根の者は色像である浄土を通して宝珠に近づき、上々の機根は直ちに宝珠を指すと分けます。禅は仏心を伝える中心の働きだとも述べます。仕事に引き寄せれば、現れた形や制度は本体の映りであり、形に執われず、その根にある働きを見る視点を示す箇所です。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る

この章句が説くこと

摩尼宝珠色像中下根上上機正法眼蔵幻化

関連する章句

本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円本を見る