遠羅天釜 / 『遠羅天釜』無事禅の戒めと遠くない道
此上猶又怠り給はずは禪門にいはゆる左手を握て中指を咬等の心地も次第に明かなるべし今時往々に道參禪無益なり話頭了じて什麼かせん即心即佛の直指なれば念の起るをも愁ず念の止たるをも喜ばず山賤の白木の合子只生れ付たる自性の儘なるがよきぞ漆つけねば剝色こそ無れとて日々徒に盲龜の空谷に入が如し去て以て足りとす此は是天竺の自然外道の所見なり恁麼にして佛心向上の宗旨なりと稱せば七村裏の土地も亦掌を撫して大笑すべきぞかし何が故ぞこれ總に長沙の謂ゆる識神を認得する底の凝人ならずや楞嚴に賊を認て子となす終に元淨明の體を知事能はずと呵せられしは此等の部類なり殊にしらず如來は四果の聖者の諸漏已盡し我法の眞理に達し神通具足し名稱普く聞へ給ふをさゑ禪を知りとは許可し給はず故に經曰我弟子大阿羅漢不能解此義唯有大菩薩衆應解此義とも說給へるものを見性の功さへなくて妄に自ら尊と稱す是何の心ぞや人は只兎もあれ萬緣を抛擲して唱るに越たる事はなき事なり去ながら題目ばかりの利益なりと偏執し給ふべからず眞言に限らず淨土に限らず何れも優劣あるべからず淨家の人々は專唱稱名の功力に依て是非〱一回唯心の淨土己身の彌陀の妙相を見屆けでや置べきと決烈の大志を憤起し頭然を救ふが如く間もなく唱へ進みたらんに佛も去此不遠と說給ひたる者をなどや七重の寶樹八功德池の有樣を見屆けずやはあるべき眞言の人々は陀羅尼微妙の威力に依て是非とも阿字不生の大日輪を拜し奉るべしと禪門に於て一則の話頭を擧揚するが如く精進勇猛の憤志を震つて繰たらんに高野大師も不轉肉身と唱へ給ひたる者をなどかは彼金剛不壞の正體を磨出さずや有べき何れも死後を待て利益に預んと打延し給ふは不覺油斷の至り覺束なきものぞかし遠き事とな歎給ひぞ八重の潮路を隔てたる唐土天竺の事を見給へ聞給へと云にこそ遠き事とは歎くべけれ自心を以て自心を見る吾瞳を以て吾瞳を見るより近き事には侍らずや深き事とな恐れ給ひそ九淵の潭の底千尋の海の中なる物を見給へ聞給へと云にこそ深き事とは恐るべけれ吾心を以て吾心を見る吾鼻を以て吾鼻を嗅より近き事には侍らずや世は末世なれども法は更々末世ならず末世なりとて打捨顧み給はずば寳の山に入ながら自ら飢凍を苦しむが如し末世には去事は及ばぬ事とな恐れ給ひぞ遠くは惠心院の僧都近くは赤澤の即往山城の圓悉何れも稱名の力に依て右の素懷を遂給ひたるぞかし法然上人も此望は深くおわしけれども先達なき故に翼短ふして長空に翔らざる心地なりと宣ひき
新字:此上猶又怠り給はずは禅門にいはゆる左手を握て中指を咬等の心地も次第に明かなるべし今時往々に道参禅無益なり話頭了じて什麼かせん即心即仏の直指なれば念の起るをも愁ず念の止たるをも喜ばず山賤の白木の合子只生れ付たる自性の儘なるがよきぞ漆つけねば剥色こそ無れとて日々徒に盲亀の空谷に入が如し去て以て足りとす此は是天竺の自然外道の所見なり恁麼にして仏心向上の宗旨なりと称せば七村裏の土地も亦掌を撫して大笑すべきぞかし何が故ぞこれ総に長沙の謂ゆる識神を認得する底の凝人ならずや楞厳に賊を認て子となす終に元浄明の体を知事能はずと呵せられしは此等の部類なり殊にしらず如来は四果の聖者の諸漏已尽し我法の真理に達し神通具足し名称普く聞へ給ふをさゑ禅を知りとは許可し給はず故に経曰我弟子大阿羅漢不能解此義唯有大菩薩衆応解此義とも説給へるものを見性の功さへなくて妄に自ら尊と称す是何の心ぞや人は只兎もあれ万縁を抛擲して唱るに越たる事はなき事なり去ながら題目ばかりの利益なりと偏執し給ふべからず真言に限らず浄土に限らず何れも優劣あるべからず浄家の人々は専唱称名の功力に依て是非〱一回唯心の浄土己身の弥陀の妙相を見届けでや置べきと決烈の大志を憤起し頭然を救ふが如く間もなく唱へ進みたらんに仏も去此不遠と説給ひたる者をなどや七重の宝樹八功徳池の有様を見届けずやはあるべき真言の人々は陀羅尼微妙の威力に依て是非とも阿字不生の大日輪を拝し奉るべしと禅門に於て一則の話頭を挙揚するが如く精進勇猛の憤志を震つて繰たらんに高野大師も不転肉身と唱へ給ひたる者をなどかは彼金剛不壊の正体を磨出さずや有べき何れも死後を待て利益に預んと打延し給ふは不覚油断の至り覚束なきものぞかし遠き事とな嘆給ひぞ八重の潮路を隔てたる唐土天竺の事を見給へ聞給へと云にこそ遠き事とは嘆くべけれ自心を以て自心を見る吾瞳を以て吾瞳を見るより近き事には侍らずや深き事とな恐れ給ひそ九淵の潭の底千尋の海の中なる物を見給へ聞給へと云にこそ深き事とは恐るべけれ吾心を以て吾心を見る吾鼻を以て吾鼻を嗅より近き事には侍らずや世は末世なれども法は更々末世ならず末世なりとて打捨顧み給はずば宝の山に入ながら自ら飢凍を苦しむが如し末世には去事は及ばぬ事とな恐れ給ひぞ遠くは恵心院の僧都近くは赤沢の即往山城の円悉何れも称名の力に依て右の素懐を遂給ひたるぞかし法然上人も此望は深くおわしけれども先達なき故に翼短ふして長空に翔らざる心地なりと宣ひき
書き下し
此上猶又怠り給はずは禪門にいはゆる左手を握て中指を咬等の心地も次第に明かなるべし今時往々に道參禪無益なり話頭了じて什麼かせん即心即佛の直指なれば念の起るをも愁ず念の止たるをも喜ばず山賤の白木の合子只生れ付たる自性の儘なるがよきぞ漆つけねば剝色こそ無れとて日々徒に盲龜の空谷に入が如し去て以て足りとす此は是天竺の自然外道の所見なり恁麼にして佛心向上の宗旨なりと稱せば七村裏の土地も亦掌を撫して大笑すべきぞかし何が故ぞこれ總に長沙の謂ゆる識神を認得する底の凝人ならずや楞嚴に賊を認て子となす終に元淨明の體を知事能はずと呵せられしは此等の部類なり殊にしらず如來は四果の聖者の諸漏已盡し我法の眞理に達し神通具足し名稱普く聞へ給ふをさゑ禪を知りとは許可し給はず故に經曰我弟子大阿羅漢不能解此義唯有大菩薩衆應解此義とも說給へるものを見性の功さへなくて妄に自ら尊と稱す是何の心ぞや人は只兎もあれ萬緣を抛擲して唱るに越たる事はなき事なり去ながら題目ばかりの利益なりと偏執し給ふべからず眞言に限らず淨土に限らず何れも優劣あるべからず淨家の人々は專唱稱名の功力に依て是非〱一回唯心の淨土己身の彌陀の妙相を見屆けでや置べきと決烈の大志を憤起し頭然を救ふが如く間もなく唱へ進みたらんに佛も去此不遠と說給ひたる者をなどや七重の寶樹八功德池の有樣を見屆けずやはあるべき眞言の人々は陀羅尼微妙の威力に依て是非とも阿字不生の大日輪を拜し奉るべしと禪門に於て一則の話頭を擧揚するが如く精進勇猛の憤志を震つて繰たらんに高野大師も不轉肉身と唱へ給ひたる者をなどかは彼金剛不壞の正體を磨出さずや有べき何れも死後を待て利益に預んと打延し給ふは不覺油斷の至り覺束なきものぞかし遠き事とな歎給ひぞ八重の潮路を隔てたる唐土天竺の事を見給へ聞給へと云にこそ遠き事とは歎くべけれ自心を以て自心を見る吾瞳を以て吾瞳を見るより近き事には侍らずや深き事とな恐れ給ひそ九淵の潭の底千尋の海の中なる物を見給へ聞給へと云にこそ深き事とは恐るべけれ吾心を以て吾心を見る吾鼻を以て吾鼻を嗅より近き事には侍らずや世は末世なれども法は更々末世ならず末世なりとて打捨顧み給はずば寳の山に入ながら自ら飢凍を苦しむが如し末世には去事は及ばぬ事とな恐れ給ひぞ遠くは惠心院の僧都近くは赤澤の即往山城の圓悉何れも稱名の力に依て右の素懷を遂給ひたるぞかし法然上人も此望は深くおわしけれども先達なき故に翼短ふして長空に翔らざる心地なりと宣ひき
現代語訳
この上なお怠られなければ、禅門にいわゆる「左手を握って中指を咬む」などの境地も、次第に明らかになるであろう。近ごろ往々にして、「道参禅は無益である。話頭が終わって何になろうか。即心即仏の直指であるから、念の起こるのも愁えず、念の止んだのも喜ばず、山賤の白木の合子のように、ただ生まれつきの自性のままがよい。漆を付けなければ、剥げる色もない」などと言って、日々いたずらに、盲目の亀が空谷に入るような有様である。それで足れりとする。これは天竺の自然外道の所見である。このようなありさまで仏心向上の宗旨であると称するなら、七村裏の土地の神も手を打って大笑いするであろう。なぜか。これはまさに長沙のいわゆる、識神を認得する愚か者ではないか。楞厳経に「賊を認めて子とし、ついに元の浄明の体を知ることができない」と叱られたのは、この類である。ましてや如来は、四果の聖者で諸漏がすでに尽き、我が法の真理に達し、神通具足し、名声が普く聞こえた者でさえ、禅を知るとは許可されなかった。それゆえ経に「我が弟子の大阿羅漢もこの義を解することあたわず、ただ大菩薩衆のみがこの義を解すべし」と説かれているのに、見性の功さえなくて、みだりに自ら尊称するのは何の心であろうか。人はともかく、あらゆる縁を投げうって唱えるに越したことはない。しかしながら、題目だけの利益であると偏執されてはならない。真言に限らず浄土に限らず、いずれも優劣があるはずがない。浄土の人々は、専ら称名を唱える功力によって、是非とも一度は唯心の浄土、己身の弥陀の妙相を見届けずにおくものかと、決烈の大志を奮い起こし、頭に火がついたのを救うように絶え間なく唱え進めたなら、仏も「去ること此を遠からず」と説かれているのだから、どうして七重の宝樹・八功徳池のありさまを見届けずにいようか。真言の人々は、陀羅尼微妙の威力によって、是非とも阿字不生の大日輪を拝し奉ろうと、禅門で一則の話頭を挙げて取り組むように、精進勇猛の憤志を奮って繰り返したなら、高野大師(空海)も「不転肉身」と唱えられているのだから、どうしてあの金剛不壊の正体を磨き出さないことがあろうか。いずれも死後を待って利益に預かろうと先延ばしになさるのは、不覚油断の至りで、心許ないことである。遠いことと歎かれるな。八重の潮路を隔てた唐土・天竺のことを見よ、聞けと言うのであれば、遠いことと歎くのもよい。自心をもって自心を見る、わが瞳をもってわが瞳を見るより、近いことはないではないか。深いことと恐れられるな。九淵の淵の底、千尋の海の中にある物を見よ、聞けと言うのであれば、深いことと恐れるのもよい。わが心をもってわが心を見る、わが鼻をもってわが鼻を嗅ぐより、近いことはないではないか。世は末世であるが、法は決して末世ではない。末世だからといって打ち捨てて顧みなければ、宝の山に入りながら、自ら飢え凍えて苦しむようなものである。末世にはそのようなことは及ばぬことと恐れられるな。遠くは恵心院の僧都(源信)、近くは赤沢の即往、山城の円悉、いずれも称名の力によって右の素懐を遂げられた。法然上人もこの望みは深くおありだったが、先達がなかったため、翼が短くて長空に翔らない心地であると仰せられた。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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遠羅天釜・『遠羅天釜』見性の真偽を試す話頭若人自家見性の眞僞如何ん得力の精麁如何んを知らんと欲せば先づ須らく謹んで傳大士の偈を見るべし何が故ぞ未透底の士は句に參せんより意に參ずべし已透底の士は意に參せんより句に參すべし偈に曰空手把鋤頭步行騎水牛人從橋上過橋流水不流と又曰燈籠跳入露柱佛殿走出山門又懷州牛喫禾益州馬腹脹又張公喫酒李公醉欲知端的北斗向南看寒山子の偈に靑山白浪起井底紅塵颺若人見性分明なる事を得ば此等の言句は吾掌上を見が如けん若然らずんば言事なかれ見性したりと縱ひ又如上の言句に於て逐一分明に見得徹したりとも足りとする事なかれ棄去て者蹤山壽塔の因緣南泉遷化の話乾峰三種の病五祖牛窓櫺の話宗峰大師曰朝結眉夕交肩我何似又本有圓成國師曰栢樹子話有賊之機此等の話頭毫釐も疑ひ無事を得ば須らく知るべし見處佛祖と同一模範なる事を參玄の上士と稱して何の愧る處かあらん何が故ぞ參禪は各誓つて佛祖の心を明めん事を要す若夫佛祖の心を明らめ得ば豈に夫佛祖の語話を明らめざらんや若夫未だ佛祖の語話を明らめ得ずんば須らく知るべし未だ曾て佛祖の心を明らめ得ざる事を此故に七賢女經曰佛言我弟子大阿羅漢不能解此義唯有大菩薩衆應解此義と此義とは何ぞや西天此土祖々相傳し來る底の向上の秘訣なり此義を了知せしめんが爲に此難透の話頭を留む此故に眞珠菴主有偈曰天台五百阿羅漢身着法衣出入間神通妙用可還儞佛祖不傳妙難々菴主は即ち息耕東海七世の孫にして其知見斯の如く痛快なり貴ぶべし此時眞風尙未だ落ざりし事を今時奴郎辨せず玉石分たざる底の無眼禿奴の部屬往々に言ふ自心即ち是佛け話頭了じて何かせん心淨ければ淨土淨し語錄を閲して何の用ぞと此等の類を未得謂得未證謂證無慚昏愚の外道とす竊かに彼が心と稱する所以の者を見れば八識賴耶愚癡無明の闇窟なり錯々賊を認て子となし錯を以て錯に傳へて祖々傳來の妙道なりとして人の參禪學道艱辛淸苦するを見ては彼と彼とは圓頓の直指を知らず二乘の根性なりそれとそれとは向上の禪を曾せず聲聞の部類なりと彼が謂ゆる圓頓の直指點檢し見來れば楞嚴に呵し給ふ無明の元本なり彼二乘聲聞の人々には霄壤遙かに劣れり而して逮得己利の賢聖を捉て妄りに輕賤す寔に笑ふべし
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遠羅天釜・『遠羅天釜』易きを取るか難きを取るか蓋し佛道も上古は大ひに難く今時は大ひに易しとするか且羅蔔を煨し芋栗を煮るが如く初めは硬く後には輭かなるものとするが今時の易きが是ならば古への難きは非ならん古への難きが是ならば今時の易きは非ならん古への難きは苦吟する事は甚だ苦吟す纔かに發轉する時は忽ち賢聖佛祖たり那邊を透過し今時を透過して毫釐も觸着すれば電轉じ星飛ぶ今時の易きは殊勝なる事は甚だ殊勝なり望み見る時は畫圖の賢聖僧の如し纔かに發轉する時は依然として困魚箔に止り跛鼈甕裏に落つ今時を透らず那邊を透らず拶着すれば瞎驢氷稜に上る今時の易きを取んか古への難きを取んか如何に末世なればとていひ甲斐もなき有樣なり古人も末々は禪法も正體もなく成果べきを知給ひけるにや妙心を瘡紙に求め正法を口談に付すとは兼て悲み云置れたるなるべし此事もし紙授口傳にて濟べくは神光の臂を斷ち玄沙の足を傷ひ法心は頭腫法燈の淚を落す事はこれあるべからず人は兎もあれ角もあれ我は是非〱晝夜に間もなく首題を唱へて眞の法華のあり樣を見届くべきぞと親切にさへ唱へ給はゞ雪山には入ず頭は腫ずとも決定必定自性の妙法蓮華は麗しく開け侍るべしたゞ肝要は自心の妙法を見屆けずば置まじきぞと望み深き程貴き事は無事なり如來世尊も自心の妙法を見屆け給はざりし間は流轉常沒の凡夫に少しも違ましまさで生死徃來し給ひき末後雪山に於て自心の妙法を見付給ひて初めて正覺を成就し給ふ事なり瓦を磨くとは八識賴耶の無分別識を認て本來の面目なりと合點して妄念さへ無れば其迹は鏡の如くなる佛心ぞ只鏡の萬境を寫して鴉は黒く鷺は白く柳は綠に花は紅に少しも錯らす照せども毫釐も迹を留ぬ如く時々に勤めて拂拭せよと敎へられて晝夜に妄念を拂ふは瓦を磨き粟稗の鳥を逐に同じ是を識神を認むと云ふ山河大地を照破する光明の發する事はなき事なり此類の修行は昔より大唐にも聞多き事なり南嶽大師の馬祖の菴前にて瓦を磨き給ふも馬祖に此意を知しめん爲なり去るに依て長沙大師の偈に曰學道之人不識眞只爲從前認識神無量劫來生死本癡人喚作本來人と是故に慈明眞淨息耕大慧等の祖師齒を切つて觝排して親切を盡されし事なり其外の諸師の有樣は逐一擧するに及ばず大凡三世十方の間に見性せざるの佛祖なく見性せざるの賢聖はなき事なり是萬古不易の大綱なり