遠羅天釜 / 『遠羅天釜』禅浄兼修を退ける理由
如事淨土者攝取不捨於計我著相之族巧善逗根機蓋逼和法門也自其珠體言之則非幻化而何也是故圓覺經曰不可說恒河沙諸佛世界猶如空華亂起亂滅當知一切世界皆如幻而住是以實敎所明僉以無形爲淨土華嚴曰依眞而往非國土生公亦曰佛有形累託土以居佛是常住法身何須國土當知十方諸佛所有國土悉是幻化而非眞實也由是觀之佛道必不在於茲鑿然矣不知者自謂禪而兼淨土虎而挾翼者也或謂禪而無淨土十人九蹉路然則如彼韓墨楊申之徒謂令帝者習於國人之業乎匪啻不能有其祚必至亡其國焉苟憂其道之不明惟在痛勵密進自全其德而已奚以兼爲華嚴觀云有信不信法界信是邪凡諸經論中具明二行一者無念二者有念而雖皆可成佛道優劣懸殊參禪辨道即無念無相念佛此謂眞如三昧也欣求淨土即存想計名念佛此謂修習淨業但能通達不二便爲眞佛子矣想道夫兼之者蓋二本故也觀經云諸佛如來法界身是心即是三十二相八十隨形好是心作佛是心是佛又曰佛身高六十萬億那由多恒河沙由旬彼佛圓光如百億三千大千世界如來誠諦之語到此顯示內燈其旨甚深名之曰恢廓廣大超勝獨妙建立常然無衰無變之妙土如此妙土不可以形相莊嚴也不可以金珠修飾也所以金剛般若曰若菩薩作是言我當莊嚴佛土是不名菩薩何以故如來說莊嚴佛土者即非莊嚴是名莊嚴又維摩經曰隨其心淨則佛土淨果如此則參禪學道豈非是莊嚴佛土耶彼元明禪者欲自刷其造詣之不精故傅會以文之甚者不過耶鄲之步也陽爲慕之陰與悖之又何取也世之學佛者狐疑莫之能正雷同換難於易則如來正法眼藏復幾乎息矣可不思哉吾師闢之廓如豈好辯哉不得已也
新字:如事浄土者摂取不捨於計我著相之族巧善逗根機蓋逼和法門也自其珠体言之則非幻化而何也是故円覚経曰不可説恒河沙諸仏世界猶如空華乱起乱滅当知一切世界皆如幻而住是以実教所明僉以無形為浄土華厳曰依真而往非国土生公亦曰仏有形累託土以居仏是常住法身何須国土当知十方諸仏所有国土悉是幻化而非真実也由是観之仏道必不在於茲鑿然矣不知者自謂禅而兼浄土虎而挟翼者也或謂禅而無浄土十人九蹉路然則如彼韓墨楊申之徒謂令帝者習於国人之業乎匪啻不能有其祚必至亡其国焉苟憂其道之不明惟在痛励密進自全其徳而已奚以兼為華厳観云有信不信法界信是邪凡諸経論中具明二行一者無念二者有念而雖皆可成仏道優劣懸殊参禅弁道即無念無相念仏此謂真如三昧也欣求浄土即存想計名念仏此謂修習浄業但能通達不二便為真仏子矣想道夫兼之者蓋二本故也観経云諸仏如来法界身是心即是三十二相八十随形好是心作仏是心是仏又曰仏身高六十万億那由多恒河沙由旬彼仏円光如百億三千大千世界如来誠諦之語到此顕示内灯其旨甚深名之曰恢廓広大超勝独妙建立常然無衰無変之妙土如此妙土不可以形相荘厳也不可以金珠修飾也所以金剛般若曰若菩薩作是言我当荘厳仏土是不名菩薩何以故如来説荘厳仏土者即非荘厳是名荘厳又維摩経曰随其心浄則仏土浄果如此則参禅学道豈非是荘厳仏土耶彼元明禅者欲自刷其造詣之不精故傅会以文之甚者不過耶鄲之歩也陽為慕之陰与悖之又何取也世之学仏者狐疑莫之能正雷同換難於易則如来正法眼蔵復幾乎息矣可不思哉吾師闢之廓如豈好弁哉不得已也
書き下し
淨土を事とするが如きは、攝取して捨てず、我を計り相に著する族に於いて、巧みに根機に逗ふ、蓋し逼和の法門なり。其の珠體より之を言へば、則ち幻化に非ずして何ぞや。是の故に圓覺經に曰く、不可說恒河沙の諸佛世界は、猶ほ空華の亂起亂滅するが如し。當に知るべし、一切の世界は皆な幻の如くにして住すと。是を以て實敎の明らかにする所、僉な無形を以て淨土と爲す。華嚴に曰く、眞に依りて往く、國土に非ずと。生公も亦た曰く、佛は有形の累ありて、土に託して以て居る。佛は是れ常住法身なり、何ぞ國土を須ゐん。當に知るべし、十方諸佛の有する所の國土は、悉く是れ幻化にして眞實に非ざることを、と。是に由りて之を觀れば、佛道は必ず茲に在らざること、鑿然たり。知らざる者は自ら謂ふ、禪にして淨土を兼ぬと。虎にして翼を挾む者なり。或いは謂ふ、禪にして淨土無しと。十人に九は路を蹉つ。然らば則ち彼の韓・墨・楊・申の徒の如きは、帝者をして國人の業を習はしめんと謂ふか。啻に其の祚を有つこと能はざるのみならず、必ず其の國を亡ぼすに至らん。苟くも其の道の明らかならざるを憂へば、惟だ痛勵密進して自ら其の德を全うするに在るのみ。奚ぞ兼ぬるを以て爲さん。華嚴觀に云く、有信不信の法界の信、是れ邪なるか、と。凡そ諸經論の中、具さに二行を明かす。一は無念、二は有念なり。皆な佛道を成ずべしと雖も、優劣は懸殊なり。參禪辨道は即ち無念無相の念佛にして、此を眞如三昧と謂ふ。淨土を欣求するは即ち存想計名の念佛にして、此を修習淨業と謂ふ。但だ能く不二に通達すれば、便ち眞の佛子たり。想ふに夫の兼ぬる者は、蓋し二本なるが故なり。觀經に云く、諸佛如來は是れ法界身なり。是の心は即ち是れ三十二相八十隨形好なり。是の心、佛と作り、是の心是れ佛なり、と。又た曰く、佛身の高さ六十萬億那由多恒河沙由旬、彼の佛の圓光は百億の三千大千世界の如し、と。如來誠諦の語、此に到りて內燈を顯示す。其の旨甚だ深し。名づけて恢廓廣大、超勝獨妙、建立常然、衰無く變無きの妙土と曰ふ。此くの如き妙土は、形相を以て莊嚴すべからず、金珠を以て修飾すべからざるなり。所以に金剛般若に曰く、若し菩薩、是の言を作さん、我れ當に佛土を莊嚴すべしと。是れ菩薩と名づけず。何を以ての故に。如來の說く莊嚴佛土とは、即ち莊嚴に非ず、是れを莊嚴と名づく、と。又た維摩經に曰く、其の心の淨きに隨ひて則ち佛土淨し、と。果して此くの如くんば、則ち參禪學道は豈に是れ佛土を莊嚴するに非ずや。彼の元明の禪者、自ら其の造詣の精ならざるを刷がんと欲す。故に傅會して以て之を文る。甚だしき者は邯鄲の步に過ぎざるなり。陽には之を慕ひ、陰には之に悖る。又た何をか取らん。世の佛を學ぶ者、狐疑して之を能く正す莫く、雷同して難を易に換ふ。則ち如來の正法眼藏、復た幾んど息まんとす。思はざるべけんや。吾が師の之を闢くこと廓如たり。豈に辯を好まんや。已むを得ざるなり。
現代語訳
浄土に仕えるものは、我に執着し相に囚われる輩を取り込んで捨てず、巧みに機根に合わせるものであり、おそらく和合を通す法門である。その珠体(本体)から言えば、幻化でなくて何であろうか。それゆえ円覚経に「言い表せないほどのガンジス川の砂の数の諸仏の世界は、空中の花が乱れ起こり乱れ滅するようなものである。一切の世界はみな幻のように存在していると知れ」とある。このゆえに、実教が明らかにするところは、みな無形を浄土とする。華厳経に「真に依って往くのであり、国土ではない」とある。生公(竺道生)もまた「仏は有形の累があるので国土に託して居る。仏は常住の法身であるのに、どうして国土が要ろうか。十方諸仏の有する国土は、すべて幻化であって真実ではないと知れ」と言う。これによって見れば、仏道は必ずここ(浄土)にはないことが明らかである。分かっていない者は、自分は禅でありながら浄土も兼ねていると言う。それは虎に翼を添えるようなものである。あるいは禅に浄土は要らないと言う者もいるが、十人のうち九人は道を誤る。それでは、あの韓非・墨子・楊朱・申不害の徒のように、帝王に民の業を習わせようとするのか。その帝位を保てないばかりか、必ずその国を滅ぼすに至る。もしその道が明らかでないことを憂えるなら、ただ痛烈に励み、密かに進み、自らその徳を全うするだけである。なぜ兼ねる必要があろうか。華厳観に「信ずることがあっても信じないことがあっても、法界の信は邪であろうか」という。およそ諸経論の中には、二つの行が詳しく明らかにされている。一つは無念、二つは有念である。どちらも仏道を成就できるが、優劣は大きく隔たる。参禅弁道は無念無相の念仏であり、これを真如三昧という。浄土を欣び求めるのは、想いを存し名を数える念仏であり、これを浄業を修習するという。ただ不二に通達できれば、そのまま真の仏子である。思うに、あの兼ねる者は、本が二つだからである。観経に「諸仏如来は法界身である。この心はすなわち三十二相八十随形好である。この心が仏を作り、この心が仏である」とあり、また「仏身の高さは六十万億那由多恒河沙由旬、その仏の円光は百億の三千大千世界のようである」という。如来の誠諦の言葉は、ここに至って内なる灯を顕し示す。その趣旨は甚だ深い。名づけて、恢廓広大、超勝独妙、建立常然、衰えも変わりもない妙土という。このような妙土は、形や相で飾ってはならず、金や珠で飾ってはならない。ゆえに金剛般若経に「もし菩薩が、私は仏土を荘厳しようと言うなら、その者は菩薩とは呼ばない。なぜなら、如来が説く荘厳仏土とは、荘厳ではなく、これを荘厳と名づけるからである」とある。また維摩経に「その心が浄ければ仏土も浄い」とある。もしそうであるなら、参禅学道はそのまま仏土を荘厳することではないか。あの元・明の禅者は、自らの造詣の精しくないのを雪ごうとして、こじつけて飾った。甚だしい者は邯鄲の歩(人真似をして本来の歩き方を失うこと)にすぎない。表向きは慕い、裏ではそむく。何を取るところがあろうか。世の仏を学ぶ者は、疑い迷って正すことができず、付和雷同して難を易に取り換えている。それでは如来の正法眼蔵は、またほとんど絶えようとしている。思わずにいられようか。わが師がこれを開き示すことは、広大である。どうして弁論を好んでのことであろうか。やむを得ないのである。
解説

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遠羅天釜・『遠羅天釜』客の問い 浄土は幻化か元明の禪家の流、往往にして偏へに佛を稱す。此れ武夫を明月に混じ、燕石を隋侯に雜ふるなり。爾來、天下の叢林、節を擊ちて相ひ從ひ、滔滔乎として踵を繼ぐ。宗風の陵夷は、職として是れに之れ由る。此の時に當たりて、無畏の一聲を假るに非ずんば、多少の頑皮をして、靸頭腦を裂破せしむるに由無し。向者に鍋嶋侯、書を馳せて之を致し、師に問ふ。師、兩端を叩きて竭くせり。針を霧海に視、珠を合浦に還すと謂ふべき者なり。一日、客有りて予に謂ひて曰く、「淨土の一門は如來の勝方便なり。馬鳴之を稱し、龍樹之を慕ふ。勝妙の國土、實に之れ有るに似たり。然るに今之を卻く。其の他の劣機、之を聞かば則ち必ず淨土を斷望せん」と。予曰く、「噫、淨土を事とするが如きは、如來不可思議の莊嚴海の中、此の事無きに非ず。只だ是れ鏡像幻化のみ。然りと雖も、幻化の幻化たる所以を識破すれば、則ち幻化の幻化と爲すべき無きなり。但だ法身は幽微にして法體は緣り難きを以て、且く念佛して形を觀、以て禮讃せしむ。是れ他無し、愚凡の障重きが故なり。若し夫れ大心の衆生は、那の處か是れ淨土ならざる。思ふに子の執する所は莊嚴有餘等なり。師の示す所は寂光理土なり。宜なるかな子の疑ひを生ずること。佛華嚴經に曰く、如來の淨土は、或いは如來の寶冠に在り、或いは耳璫に在り、或いは瓔珞に在り、或いは衣紋に在り、或いは毛孔に在り、と。此くの如き毛孔にも既に世界を容る。故に的かに知る、方處無く涯畔無きことを。蓋し二尊者の如きは、悲願廣大にして物の爲に前驅す。之を權に幻化の衣を著て幻化の國に生ぜんと願ふと謂はんか。之を此の土の本土を起たずして無生の往生を現すと謂はんか。之を要するに、如來出世の本懷、祖師應機の作用、其の跡は萬端なれども、其の致は一なり。但だ一切衆生をして佛知見に悟入せしめんと欲するなり。更に餘蘊無し。法華經に曰く、諸佛世尊は種種の方便、種種の譬喩、種種の因緣もて、是の法は皆な一佛乘の爲の故なり、と。諸の衆生の爲に諸法を演說す。是くの如くんば、則ち淨土の設けは、豈に一佛乘の助けと爲すに非ずや。吾が老師、上の如く丁寧に告誡す。豈に他有らんや。其の莊飾を卻けて、之に本色を呈す。譬へば眞金を以て啼を止むるが如し。苟くも黃葉と爲さば、他後に悔い有らん。又た元明の間、宗旨を屈辱する者の爲に激切する所有るは、則ち是れ屋裏に鼓を鳴らすの攻めなり。豈に敢へて他の信男信女の願生の人を敺驅して、自家の底を粧重する者ならんや。人有りて專ら稱名を修め、忽然として三昧を發得すれば、則ち期せずして然り、必ず然り。是れ佛道二つ無きが故なり。子其れ好く思へ。歷然として解すべし。」
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遠羅天釜・『遠羅天釜』疑団は羽翼、禅門に称名なき古如上の大疑現前純一無雜の體裁を聞き及ばれては怪しく恐ろしく氣味わろき事に思し召さるべけれども無量劫來生死の重關を蹈破し十方の如來本覺の內證に徹底する程の目出度き大事なるものを左ばかりの艱辛はあらではあるべきと覺悟是あるべし熟願ふに無の字を參究して大疑現前し大死一番して大歡喜を得る底は數限りも無く是あり名號を唱へて少分の力らを得る底は兩三箇ならでは聞き及ばずなん侍り惠心院の僧都も智德と云ひ信心力と云ひ無の字か麻三斤の話など參究し玉びたらんには自身眞如なる程の事は一月二月乃至一年半年程の中には發明し玉ふべきものを名號誦經の功によりて四十年の精彩を盡し玉ひたるなるべし是唯疑團のをはするとをはせざるとに依れり須らく知るべし疑團は道に進む羽翼なる事を法然上人の如き道德仁義精進勇猛暗中に聖敎を披覽し玉ふに眼の光りを用ひ玉ひける程なれば少し疑團だに在したらんには立地に大事了畢し往生決定し玉ふべきものを豈に索短ふして深泉を汲まざるなど悲歎し玉ふに及ばんや去る程に楊岐黃龍眞淨息耕佛鑑妙喜の諸老をざへに大凡百千億の諸佛名あり百千億の諸神咒あり授與すべく擧揚すべき法門は不足も無き中に特り此無の字を與へて擧揚せしむ豈に長處なからんや願ふに無の字は疑團起り易く名號は疑團起り難き故なるべし然るに禪門に於て專唱稱名往生を希望する事は古へ禪苑凋枯せず眞風未だ地に墜ざりし日は一向に無き事也西天の四七唐土の二三傳燈歷代の祖師南嶽靑原馬祖石頭百丈黃檗南泉長沙臨濟興化南院風穴首山汾陽慈明黃龍眞淨晦堂息耕妙喜及び五家七宗の諸老をざへに梁陳隋唐宋元の間六朝の大宗匠各々孤危の宗風を立して臂に奪命の神符を繫け口に法窟の爪牙を咬鳴して只宗風の地に墜ん事を恐れて晝夜に願輪に答つて屹々として怠る事無し破口にも往生淨土の事を論ぜず悲哉時乎命乎大雅枯て桑間湧き古曲啞して鄭衞震ふ流へて大明の末に至つて雲棲の殊宏なる者あり參玄力ら足らず見道眼暗ふして進むに寂滅の樂みなく退くに生死の恐れあり悲嘆押さへ難く終に遠公蓮社の遺韻を慕つて祖庭孤危の眞修を捨て自ら蓮池大師と稱して彌陀經の疏鈔を造り大ひに主張して後學を引く皷山の元賢永覺大師淨慈要語造つて擊節して輔け佐く此に於て漢土に普く扶桑に溢れて終に救ふ事無きに至る
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遠羅天釜・『遠羅天釜』不断坐禅と枯坐黙照の弊吾正受老人常に云く不斷坐禪を學ばん人は殺害刀杖の巷號哭悲泣の室相撲掉戲の場管絃歌舞の席に入りても安排を加へず計較を添へず束ねて一則の話頭と作て一氣に進んで退かず譬へば阿修羅大力鬼に肘臂を捉られて三千大千世界を遶る事千囘百匝すと云へども正念工夫片時モ打失せず相續不斷なる是を名て眞正參禪の衲子とす十二時中只而皮を冷却し眼睛を瞠却して毫釐も人情を交へざれど寔に貴ぶべし兵法にも亦云はずや且戰且耕是萬全之良策也と參學もまた爾り工夫は且戰ふの眞修內觀は且耕の至要鳥の雙翼の如く車の兩輪の如し內觀の秘訣は予向に江湖參玄の衲子の爲に夜船閑話に書し了れり予常に此等の趣きを以て衲子の禪病を救ふ事幾人と云數を知らず中に就て重症必死に向とする者八九を治す學者必ず內觀と參學と共に合せ並べ貯はへて以て生平の本志を成ぜよ學道の人縱ひ參じて五派七流の大事を究得るとも若夫れ短壽ならば何の用を成すに堪んや縱ひ又內觀の力に依て彭祖が八百の歲時を閱すと云ふとも若夫れ見性の眼無んば唯是一箇老大の守屍鬼何の好事かあらん若又枯坐默照を以て足れりとせは枉て一生を錯り大ひに佛道に違せん只佛道に違するのみに非ず大に世諦もまた癈ぜん何が故ぞ若夫諸侯大夫は朝覲を怠り國務を廢して枯坐默照し武夫は射御を踈にし武術を忘れて枯坐默照し商賈は戶店を鎖し算盤を碎て枯坐默照し農夫は犂鋤を擲ち耕耘を止て枯坐默照し工匠は繩墨を捨て斧斤を拋て枯坐默照せば國衰へ民疲れ賊盜頻りに起つて國それ危からんか然らば則ち衆民瞋り恨みて必ず云はん禪は窮て不祥の大兆なりと殊に知らず古へ禪林の盛なりし時南嶽馬祖百丈黃檗臨濟歸宗麻谷興化盤山九峯地藏等の諸聖挽石搬土水薪柴蔬作務普請の鼓を鳴して專ら動中の得力を求む此故に百丈大師曰く一日不作一日不食是を動中の工夫不斷坐禪と云此風近代地を拂つて盡蓋し斯いへばとて坐禪を嫌ひ靜慮を謗るにし非ず大凡一切の賢聖古今の智者禪定に依らずして佛道を成就する底半箇も亦無し夫戒定慧の三要は佛道萬古の大綱なり誰か敢て輕忽せんや然るに向に謂ゆる禪門の諸聖の如きは超宗越格眞正無上の大禪定擬議するときは則ち電轉じ星飛ぶ羝羊の眼狐狸の智如何ぞ敢て窺知る事を得ん縱ひ又默照枯坐して立地に成佛し立地に大光明を放つ底の好事ありとも諸侯大夫士庶民家萬般の公務千般の家事ある何の暇あつてか片時も打坐する事を得んや此に於て病と稱して公務を遁れ家業を廢して三五七日一室を閉戶牖を鎖して幾枚の團蒲を重ね一枝の香を挾んで坐すと云へども平生の塵務に疲れて一寸坐すれば一次睡り三合の坐禪には千萬解の妄想を集む既にして眼を瞠り牙を咬み拳を握り梁骨を堅起して坐すれば萬般の邪境頭を競つて生ず越て額を攢め眉を皺めて覺へず悲泣して曰官途道業を妨げ仕路禪定を障ふしかじ官を辭し印を解て水邊林下寂寞無人の處に在て恣に禪觀を修し永劫の苦輪を遁んと大に錯り畢り