遠羅天釜 / 『遠羅天釜』客の問い 浄土は幻化か
元明禪家流往往偏稱佛此混武夫於明月雜燕石於隋侯也爾來天下叢林擊節相從滔滔乎繼踵宗風陵夷職是之由當此之時非假無畏一聲無由令多少頑皮靸頭腦裂破向也鍋嶋侯馳書致之問師叩兩端而竭焉可謂視針於霧海還珠於合浦者也一日有客謂予曰淨土一門如來勝方便也馬鳴稱之龍樹慕之勝妙國土似實有之然今卻之其他劣機聞之則必斷望淨土予曰噫如事淨土如來不可思議莊嚴海中非無此事只是鏡像幻化而已矣雖然識破幻化之所以爲幻化則無幻化之可爲幻化也但以法身幽微法體難緣且敎念佛觀形以禮讃是無他愚凡障重故也若夫大心衆生那處不是淨土願子之所執者莊嚴有餘等也師之所示者寂光理土也宜哉子之生疑也佛華嚴經曰如來淨土或在如來寶冠或在耳璫或在瓔珞或在衣紋或在毛孔如此毛孔既容世界故的知無方處無涯畔焉蓋如二尊者悲願廣大爲物前驅謂之權著幻化衣願生幻化國乎謂之不起此土之本土而現無生之往生乎要之如來出世本懷祖師應機作用其跡萬端其致一也但欲令一切衆生悟入佛知見也更無餘蘊法華經曰諸佛世尊種種方便種種譬喩種種因緣是法皆爲一佛乘故爲諸衆生演說諸法如是則淨土之設豈非爲一佛乘之助耶吾老師如上丁寧告誡豈有他哉卻其莊飾呈之本色譬如以眞金止啼苟爲黃葉他後有悔又爲元明之間屈辱宗旨者有所激切則是屋裏鳴鼓之攻也豈敢敺驅他信男信女願生之人而粧重自家底者哉有人專修稱名忽然發得三昧則不期然而必然是佛道無二故也子其好思歷然可解
新字:元明禅家流往往偏称仏此混武夫於明月雑燕石於隋侯也爾来天下叢林撃節相従滔滔乎継踵宗風陵夷職是之由当此之時非仮無畏一声無由令多少頑皮靸頭脳裂破向也鍋嶋侯馳書致之問師叩両端而竭焉可謂視針於霧海還珠於合浦者也一日有客謂予曰浄土一門如来勝方便也馬鳴称之竜樹慕之勝妙国土似実有之然今却之其他劣機聞之則必断望浄土予曰噫如事浄土如来不可思議荘厳海中非無此事只是鏡像幻化而已矣雖然識破幻化之所以為幻化則無幻化之可為幻化也但以法身幽微法体難縁且教念仏観形以礼讃是無他愚凡障重故也若夫大心衆生那処不是浄土願子之所執者荘厳有余等也師之所示者寂光理土也宜哉子之生疑也仏華厳経曰如来浄土或在如来宝冠或在耳璫或在瓔珞或在衣紋或在毛孔如此毛孔既容世界故的知無方処無涯畔焉蓋如二尊者悲願広大為物前駆謂之権著幻化衣願生幻化国乎謂之不起此土之本土而現無生之往生乎要之如来出世本懐祖師応機作用其跡万端其致一也但欲令一切衆生悟入仏知見也更無余蘊法華経曰諸仏世尊種種方便種種譬喩種種因縁是法皆為一仏乗故為諸衆生演説諸法如是則浄土之設豈非為一仏乗之助耶吾老師如上丁寧告誡豈有他哉却其荘飾呈之本色譬如以真金止啼苟為黄葉他後有悔又為元明之間屈辱宗旨者有所激切則是屋裏鳴鼓之攻也豈敢敺駆他信男信女願生之人而粧重自家底者哉有人専修称名忽然発得三昧則不期然而必然是仏道無二故也子其好思歴然可解
書き下し
元明の禪家の流、往往にして偏へに佛を稱す。此れ武夫を明月に混じ、燕石を隋侯に雜ふるなり。爾來、天下の叢林、節を擊ちて相ひ從ひ、滔滔乎として踵を繼ぐ。宗風の陵夷は、職として是れに之れ由る。此の時に當たりて、無畏の一聲を假るに非ずんば、多少の頑皮をして、靸頭腦を裂破せしむるに由無し。向者に鍋嶋侯、書を馳せて之を致し、師に問ふ。師、兩端を叩きて竭くせり。針を霧海に視、珠を合浦に還すと謂ふべき者なり。一日、客有りて予に謂ひて曰く、「淨土の一門は如來の勝方便なり。馬鳴之を稱し、龍樹之を慕ふ。勝妙の國土、實に之れ有るに似たり。然るに今之を卻く。其の他の劣機、之を聞かば則ち必ず淨土を斷望せん」と。予曰く、「噫、淨土を事とするが如きは、如來不可思議の莊嚴海の中、此の事無きに非ず。只だ是れ鏡像幻化のみ。然りと雖も、幻化の幻化たる所以を識破すれば、則ち幻化の幻化と爲すべき無きなり。但だ法身は幽微にして法體は緣り難きを以て、且く念佛して形を觀、以て禮讃せしむ。是れ他無し、愚凡の障重きが故なり。若し夫れ大心の衆生は、那の處か是れ淨土ならざる。思ふに子の執する所は莊嚴有餘等なり。師の示す所は寂光理土なり。宜なるかな子の疑ひを生ずること。佛華嚴經に曰く、如來の淨土は、或いは如來の寶冠に在り、或いは耳璫に在り、或いは瓔珞に在り、或いは衣紋に在り、或いは毛孔に在り、と。此くの如き毛孔にも既に世界を容る。故に的かに知る、方處無く涯畔無きことを。蓋し二尊者の如きは、悲願廣大にして物の爲に前驅す。之を權に幻化の衣を著て幻化の國に生ぜんと願ふと謂はんか。之を此の土の本土を起たずして無生の往生を現すと謂はんか。之を要するに、如來出世の本懷、祖師應機の作用、其の跡は萬端なれども、其の致は一なり。但だ一切衆生をして佛知見に悟入せしめんと欲するなり。更に餘蘊無し。法華經に曰く、諸佛世尊は種種の方便、種種の譬喩、種種の因緣もて、是の法は皆な一佛乘の爲の故なり、と。諸の衆生の爲に諸法を演說す。是くの如くんば、則ち淨土の設けは、豈に一佛乘の助けと爲すに非ずや。吾が老師、上の如く丁寧に告誡す。豈に他有らんや。其の莊飾を卻けて、之に本色を呈す。譬へば眞金を以て啼を止むるが如し。苟くも黃葉と爲さば、他後に悔い有らん。又た元明の間、宗旨を屈辱する者の爲に激切する所有るは、則ち是れ屋裏に鼓を鳴らすの攻めなり。豈に敢へて他の信男信女の願生の人を敺驅して、自家の底を粧重する者ならんや。人有りて專ら稱名を修め、忽然として三昧を發得すれば、則ち期せずして然り、必ず然り。是れ佛道二つ無きが故なり。子其れ好く思へ。歷然として解すべし。」
現代語訳
元・明の禅家の流れは、往々にしてひたすら仏(念仏)を称える。これは、玉に似た石(武夫)を明月の珠に混ぜ、燕石(偽の宝石)を隋侯の珠に雑えるようなものである。それ以来、天下の叢林(禅寺)は拍子を打って従い、とうとうと踵を接して続いている。宗風が衰えたのは、まさにこれによる。このときにあたって、無畏の一声を借りるのでなければ、多くの頑固な者たちの頭脳を打ち砕いて目覚めさせる手立てはない。先ごろ鍋島侯が書状を送ってこの件を寄せ、師(白隠)に問うた。師は両端を叩き尽くして答えた。それは、霧の海に針を見つけ、合浦に珠を還すようなものというべきである。ある日、客があって私に言った。「浄土の一門は如来の優れた方便である。馬鳴もこれを称え、龍樹もこれを慕った。勝れて妙なる国土は、実際にあるように思われる。それなのに今これを退けている。他の劣った機根の者がこれを聞けば、必ず浄土への望みを断つであろう。」私は言った。「ああ、浄土を事とするのは、如来の不可思議な荘厳の海の中に、この事がないわけではない。ただ、鏡に映った像のような幻化にすぎない。しかしながら、幻化が幻化であるゆえんを見破れば、幻化として扱うべきものはなくなる。ただ、法身は幽微で、法の本体は縁じ難いので、しばらく念仏させて形を観じさせ、礼拝讃歎させるのである。これは他でもなく、愚かな凡夫の障りが重いからである。もし大心の衆生であれば、どこが浄土でないことがあろうか。思うに、あなたが執着するのは荘厳有余などの浄土であり、師が示すのは寂光の理土である。あなたが疑いを生じるのももっともである。仏華厳経に「如来の浄土は、あるいは如来の宝冠にあり、あるいは耳飾りにあり、あるいは瓔珞にあり、あるいは衣の紋にあり、あるいは毛孔にある」という。このような毛孔にもすでに世界を容れている。したがって、方処もなく涯もないことが明らかに知られる。思うに、二尊者(馬鳴と龍樹)のような方は、悲願が広大で、衆生のために先駆けとなられた。これを、方便として幻化の衣を着て幻化の国に生まれようと願うのだと言うべきか。この土の本土を離れずに、無生の往生を現すのだと言うべきか。要するに、如来が世に出られた本懐、祖師が機に応じた作用は、その跡は様々でも、その趣旨は一つである。ただ一切衆生に仏知見を悟り入らせようとするのである。それ以外に余すところはない。法華経に「諸仏世尊は種々の方便、種々の譬喩、種々の因縁をもって、この法はみな一仏乗のためである」と説き、衆生のために諸法を演説する。こうであれば、浄土の設けは、一仏乗の助けとならないことがあろうか。わが老師は、このように丁寧に告げ戒められたのであり、他意があるはずがない。その飾りを除いて、本来の姿を示したのである。たとえば、真の金を示して子供の泣くのを止めるようなものである。もしこれをただの黄葉と見なせば、後に悔いることになる。また、元・明の間に宗旨を屈辱した者のために厳しく言うのは、家の中で鼓を鳴らして攻めるようなもの(身内への攻撃)である。どうして、他の信男信女の往生を願う人々を追いたてて、自家の底を飾り重ねる者であろうか。もし人が専ら称名を修めて、忽然として三昧を得たなら、期せずして必ずそうなる。これは仏道に二つがないからである。あなたはよく考えよ。はっきりと理解できるはずである。」
解説

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