遠羅天釜 / 『遠羅天釜』長書の結びと題目を唱える勧め
右管々布長書披覽も六箇布侍るべけれども此れを序でに菴居の人々も一覽せらるべければ法施にもなれがしの心にて書續けたるにて候至極の旨は自心の妙法を是非〱見屆くべしと思して絕間もなく首題を唱へ給へとの心にて候
新字:右管々布長書披覧も六箇布侍るべけれども此れを序でに菴居の人々も一覧せらるべければ法施にもなれがしの心にて書続けたるにて候至極の旨は自心の妙法を是非〱見届くべしと思して絶間もなく首題を唱へ給へとの心にて候
書き下し
右管々布長書披覽も六箇布侍るべけれども此れを序でに菴居の人々も一覽せらるべければ法施にもなれがしの心にて書續けたるにて候至極の旨は自心の妙法を是非〱見屆くべしと思して絕間もなく首題を唱へ給へとの心にて候
現代語訳
以上のくだくだしい長い手紙は、読まれるのも煩わしかろうが、この機会に庵に住む人々も一覧されるだろうから、法施にもなればという心で書き続けたものである。肝心の趣旨は、自心の妙法を必ず見届けるべきだと思って、絶え間なく題目を唱えてくださいという心である。
解説
長い書簡の結びとして、庵に住む人々にも読まれるように、法施、つまり教えを施す心で書き継いだと断っています。要点は、自心の妙法を必ず見届けること、そのために題目を絶え間なく唱えることだと明かされます。ここから書状は仮名の文から漢文に移り、法華の真面目をめぐる問答へ入ります。相手の信仰の拠り所である題目を否定せず、その中身を見届けよと促す姿勢は、相手の土台を尊重して導く伝え方の手本です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
法施自心の妙法題目首題庵居長書
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