遠羅天釜 / 『遠羅天釜』船頭と磁石と見性の志
見性とは法華眞の面目を見屆る事なり此望なくて種々の事して佛法なりと心得るは船頭もなき大船に幼童多く競ひ乘て何地へ寄べき湊もしらで彼方へ漕が好ぞ此方へ漕が好ぞとて思ひ〱に櫓櫂推たて昨日は東の方へ潮に隨て漕漂ひ今日は西の方へ汐に隨て漕漂ひ終に海中を出る事能ず其船中へ案內しりたる船頭忽ち打乘磁石を見定め楫を把時は一日の內にも思ふ湊へ着事なり船頭とは見性の大志なり磁石とは正法の指南なり楫とは平生の志行なり如何して妙法の湊へは漕入べきぞとならば一切の行人は佛を求め祖を求め涅槃を求め淨土を求めて外へ〱と漕出る風情なり故に轉求れば轉遠く轉尋ぬれば轉遙なり眞正妙法の行者は即ち然らず自己本有の妙法は如何なる物ぞと推究て佛を求めず祖を求めず彼妙法は內に在とやせん外にありとやせん內外中間にありや又靑黃赤白なりや是非〱一回見屆けずは置まじきぞと十二時中一切處に於て間斷なく猛く甲斐〱しき氣槩を推立流石の者が思ひ立たる事を遂ずや置べき仕果ずやあるべきと寢ても覺ても起ても居ても捨をかず晝夜に點檢して或時は打返して恁麼に尋る底是何物ぞ何物ぞと尋る儞は是阿誰と進み入是を獅子人を咬の法と云心の妙法は如何〱とばかり尋ねもて行を韓盧塊を逐と云唯兎にも角にも萬事を放下して無念無心になりて南無妙法蓮經華〱と唱へ給ふべし此外別に有難き法理の老僧が書送るべき事ありと思さば上もなき錯りにてこれあるべく候南無妙法蓮華經延享第四丁卯曆仲冬廿五日沙羅樹下老衲書
新字:見性とは法華真の面目を見届る事なり此望なくて種々の事して仏法なりと心得るは船頭もなき大船に幼童多く競ひ乗て何地へ寄べき湊もしらで彼方へ漕が好ぞ此方へ漕が好ぞとて思ひ〱に櫓櫂推たて昨日は東の方へ潮に随て漕漂ひ今日は西の方へ汐に随て漕漂ひ終に海中を出る事能ず其船中へ案内しりたる船頭忽ち打乗磁石を見定め楫を把時は一日の内にも思ふ湊へ着事なり船頭とは見性の大志なり磁石とは正法の指南なり楫とは平生の志行なり如何して妙法の湊へは漕入べきぞとならば一切の行人は仏を求め祖を求め涅槃を求め浄土を求めて外へ〱と漕出る風情なり故に転求れば転遠く転尋ぬれば転遥なり真正妙法の行者は即ち然らず自己本有の妙法は如何なる物ぞと推究て仏を求めず祖を求めず彼妙法は内に在とやせん外にありとやせん内外中間にありや又青黄赤白なりや是非〱一回見届けずは置まじきぞと十二時中一切処に於て間断なく猛く甲斐〱しき気槩を推立流石の者が思ひ立たる事を遂ずや置べき仕果ずやあるべきと寝ても覚ても起ても居ても捨をかず昼夜に点検して或時は打返して恁麼に尋る底是何物ぞ何物ぞと尋る儞は是阿誰と進み入是を獅子人を咬の法と云心の妙法は如何〱とばかり尋ねもて行を韓盧塊を逐と云唯兎にも角にも万事を放下して無念無心になりて南無妙法蓮経華〱と唱へ給ふべし此外別に有難き法理の老僧が書送るべき事ありと思さば上もなき錯りにてこれあるべく候南無妙法蓮華経延享第四丁卯暦仲冬廿五日沙羅樹下老衲書
書き下し
見性とは法華眞の面目を見屆る事なり此望なくて種々の事して佛法なりと心得るは船頭もなき大船に幼童多く競ひ乘て何地へ寄べき湊もしらで彼方へ漕が好ぞ此方へ漕が好ぞとて思ひ〱に櫓櫂推たて昨日は東の方へ潮に隨て漕漂ひ今日は西の方へ汐に隨て漕漂ひ終に海中を出る事能ず其船中へ案內しりたる船頭忽ち打乘磁石を見定め楫を把時は一日の內にも思ふ湊へ着事なり船頭とは見性の大志なり磁石とは正法の指南なり楫とは平生の志行なり如何して妙法の湊へは漕入べきぞとならば一切の行人は佛を求め祖を求め涅槃を求め淨土を求めて外へ〱と漕出る風情なり故に轉求れば轉遠く轉尋ぬれば轉遙なり眞正妙法の行者は即ち然らず自己本有の妙法は如何なる物ぞと推究て佛を求めず祖を求めず彼妙法は內に在とやせん外にありとやせん內外中間にありや又靑黃赤白なりや是非〱一回見屆けずは置まじきぞと十二時中一切處に於て間斷なく猛く甲斐〱しき氣槩を推立流石の者が思ひ立たる事を遂ずや置べき仕果ずやあるべきと寢ても覺ても起ても居ても捨をかず晝夜に點檢して或時は打返して恁麼に尋る底是何物ぞ何物ぞと尋る儞は是阿誰と進み入是を獅子人を咬の法と云心の妙法は如何〱とばかり尋ねもて行を韓盧塊を逐と云唯兎にも角にも萬事を放下して無念無心になりて南無妙法蓮經華〱と唱へ給ふべし此外別に有難き法理の老僧が書送るべき事ありと思さば上もなき錯りにてこれあるべく候南無妙法蓮華經延享第四丁卯曆仲冬廿五日沙羅樹下老衲書
現代語訳
見性とは、法華の真の面目を見届けることである。この望みがなく、様々なことをして仏法だと心得るのは、船頭もいない大船に幼い子供たちが大勢競って乗り、どこへ寄せるべき港かも知らず、あちらへ漕ぐのがよい、こちらへ漕ぐのがよいと、思い思いに櫓や櫂を押し立て、昨日は東の方へ潮に従って漕ぎ漂い、今日は西の方へ潮に従って漕ぎ漂い、ついに海中を出ることができないようなものである。その船へ、案内を知った船頭がたちまち乗り込み、磁石を見定めて楫を取る時は、一日のうちにでも思う港に着くものである。船頭とは見性の大志である。磁石とは正法の指南である。楫とは平生の志と行いである。どのようにして妙法の港へ漕ぎ入るべきかといえば、一切の行人は、仏を求め祖を求め涅槃を求め浄土を求めて、外へ外へと漕ぎ出す風情である。ゆえに、転じて求めれば転じて遠く、転じて尋ねれば転じて遥かである。真正の妙法の行者はそうではない。自己本有の妙法とはどのようなものかと推し究めて、仏を求めず祖を求めず、あの妙法は内にあるとするか、外にあるとするか、内外の中間にあるか、また青黄赤白か、是非とも一回見届けずにはおかないと、十二時中一切処において、間断なく猛く甲斐甲斐しい気概を押し立て、さすがの者が思い立ったことを遂げずにおくか、し果たさずにいようかと、寝ても覚めても起きても居ても捨て置かず、昼夜に点検して、あるいは打ち返して、このように尋ねるものは何物か、何物かと尋ねるおまえは誰かと進み入る。これを獅子人を咬むの法という。心の妙法はいかに、いかにとばかり尋ね行くのを、韓盧塊を逐うという。ただ、とにもかくにも万事を放下して、無念無心になって、南無妙法蓮華経(底本は「南無妙法蓮經華」と誤植)と唱えられよ。このほかに、別に有難い法理を老僧が書き送るべきことがあると思われるなら、このうえない誤りであろう。南無妙法蓮華経。延享四年丁卯の暦、仲冬(旧暦十一月)二十五日、沙羅樹下の老衲が書く。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
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遠羅天釜・『遠羅天釜』題目を唱え大疑団を起こす如何して法華眞の面目を徹見すべきぞとならば先須らく大疑團を起すべし何物を指てか法華眞の面目とはするぞ自己本有の妙法の一心なりと聞からに自心を見るにしかず自心とは如何なるものぞ白き物とやせん赤き物とやせん是非〱一囘見得すべきぞと猛く甲斐〱しき志を震つて大誓願を起して晝夜に究め見るべし自心を參究するに行持は樣々多き中に法華經の行者ならば法華三昧の行持に越たる事や侍るべき法華三昧の行持とは今日より思ひ立て憂につけつらきにつけ悲きにつけ嬉きにつけ寐ても覺ても起ても居ても只管に法華の首題を南無妙法蓮華經〱と間もなく唱へらるべし此首題を杖にも力にもして是非とも法華眞の面目を見屆くべしと深く望をかけて唱へらるべし願くば出る息入息を題目にしてほしき事よと隨分親切に斷間もなく唱へらるべし唱へ〱て怠らずんば久しからずして心性たしかに大石などを淘居たる如くにて安住不動如須彌山の心地はほのかに覺へあるべし其時にすて置ず隨分唱へらるべしいつしか聞及し正念工夫の大事に契當して平生の心意識情都て行はれず金剛圈に入が如く瑠璃瓶裏に坐するに似て一點の計較思想なく忽然として大死底の人と異なる事なけん縱かに蘇息し來らば覺へず純一無雜打成一片の眞理現前して立處に法華眞の面目に揷着して忽ち身心を打失し本門壽量久遠實成の如來は目前に分明にして推とも去じ此時に當つて天台の法性寂然寂而常照の寶所に投入し眞言の阿字不生の惠日に照され律宗の諸佛無上の金剛寶戒に冥合し淨土の即心往生極樂報土の素懷を遂水鳥樹林念佛念法念僧の妙莊嚴をまのあたり見届け娑婆即寂光の正眼を開き草木國土悉皆成佛の田地に至らん事毫釐も相違あるべからず然らば則ち人中天上の善果何事かこれにしかんや是即ち三世の諸佛出世の本懷なり一遍の題目は禪門一則の話頭と其功異なる事なし此等の趣き三世十方の賢聖扶桑八萬餘座の神慮もおわする者を老僧が毫髮ばかりもあやぶむ處あらば何しに罪作りにくだ〱しき事を書贈り侍るべきや少しも疑ひ給ふべからず
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遠羅天釜・『遠羅天釜』旅人の喩えと大船の纜云ふ事なかれ話頭是にして稱名不是なりと行人若し勇鋭の志し無くんば稱名も話頭も瞽者の眼鏡法師の櫛貯はへ果たして是何の用ぞ茲に數百人あらんに帝都へ行ん事を願ふて各々糧を包んで出づ先達好らずして錯つて遠境邊土虎狼充滿の廣野に留つて徒に日々杖の短長を爭そひ行裝の可否を論じ路費の多少を計つて杖々とのみ唱ふるあり路費路費とのみ叫ぶあり終に一步をも進むる事を知らず空しく歲月を送つて歲衰へ體疲れて果は虎狼の爲に獲られ遠路邊境の閑神野鬼と成り果るに似たり終に帝都に到る事得ず只肝心は杖子を擇ばず行裝を論せず一氣に進んで退かず速かに京師に到るを以て賢なりとす若し今時に効つて生前に佛力を賴んで死後に西方に往んとならば一生三昧發得往生決定する事能はじ况んや眞正見性の大事に於てをや去る程に眞珠庵主の歌に行く水に數かくよりも墓なきは佛を賴む人の行末へ、と蓋し斯言へばとて淨業を嫌ひ稱名を狹するにし非ず正念工夫相續不斷見性了義の扶けにとならば稱名はさて置き粉挽歌にても唱へ玉ふべし相構へて見性の秘訣を捨て置き專唱の功勳に酬へて佛にならんと計り玉ふべからず其子細は譬へば茲に萬石の大船あらんに思ふ儘に艤いし順風を七合に受て舟歌を張り櫓拍子を揃へて水主楫取心を合せて千尋の浪を押し切り八重の鹽路を漕拔んと毎日勇み進むと云へども纜を切て放たざらん限りは中々浩波を涉る事能はず徒らに日々氣力を勞すといへども元の湊に在らくのみ顧ふに纜の金緒なれども大船を留むるに至て萬夫も及ぶべからず
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遠羅天釜・『遠羅天釜』妙法と蓮華の喩え子細は大凡手蹟にもせよ畫圖にもせよ誰々は琴の妙を得たり誰々は琵琶の妙を得たりと云れんずる人も其妙とは如何なる場所を申す事に侍るぞと問れたらん時に如何なる辯才利口の人にても中々言葉に演る事は叶はざる事なり去程に父子不傳の妙とて吾大切なる一子にさへ敎る事は能はず妙處に到つては吾とても覺ゑず知ぬ處より働き出る事なり人々具足の妙法の心性も左の如し只今此文を披覽し或ひは笑ひ或ひは談じ緒環の絲繰出す如く果しもなく五人に逢ても十人に逢ても少しも間違もなく働きもて行事不思議なる有樣ならずや然るに何物が斯の如く自由には働く事ぞと内に向ひて尋ね求むるに聲もなく臭もなし然ば一向に頑空無記なる物にして木石の如くなりやと思へば例の通り千變萬化自由自在にして有と云んとすれば有に非ず無と云んとすれば無に非ず言語道斷脫洒自在なる處を假に且く妙法とは名付給ひたる事なり蓮華とは蓮の泥土の底に有ても少しも泥土に汚されず妙なる色香を具足して失はず時を得て麗しく咲出るは此妙法の佛心の衆生に在ても穢れず減らず佛に在ても淨からず增ず佛も凡夫にて在し時は一切衆生に少しも違はせ給はで五欲の泥土に汚され給ふは左ながら、蓮の泥中に在が如し其後靈山に於て本具の心性を發明し給ひて希有なる哉一切衆生如來の智慧德相を具すと高聲に唱へ給ひて頓漸半滿の諸經を說宣三界の大導師と成給ひて梵天帝釋に尊信せられ給へば蓮の泥中を出て麗しく發けたるが如し蓮の泥中に屹度具足して居たりし色香を水上に咲出すが如く佛も無量恒沙の法を宣給へども外より持來り給ふに非ず凡夫にてをはせし時屹度具足し給ひし佛性の有樣を其儘に宣給ふ者なり衆生にてをはせし時も成佛の本懷を遂給ひて後も一心の妙法は少しも添減なきが如く蓮の泥中にありし時も咲亂れたる夏も少しも變遷なきに等し故に假用ひて且く一心の妙法に譬へ給ひたる者なり是即ち人々具足の佛心を妙法蓮華經と名づけ給ひたる慥なる證據ならずや
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遠羅天釜・『遠羅天釜』白隠の自述と二兎を追う戒め大凡世尊一代五千餘卷の金文有つて頓漸秘密不定の妙義を說き演べ玉ひたれども畢竟此の見性の大事を出ず故へに經に曰く唯此一事實餘二卽非眞と去る程に三世古今の間に見性せざるの佛祖なく見性せざるの賢聖は必定決定無き事なり山野七八歲より心を佛理に傾け十五歲の時出家十九歲にして行脚廿四歲にして初めて此の見性の大事に搔著す其後叢林を經普ねく諸善知識の門閫に跨がり博く諸經論を窺がひ略三敎の經典を探り及び諸子百家をさへに若し一法の自性の法門に超過せる有らば莊老列の道といへども必らず信受し推し弘めんと誓ひ侍りき今年六十五歲に到つて終ひに見性の大事に過たる法理を見ず左も侍らずば何しに妄りに紙墨を費やして覺へも無き事を書付け高覽に入れ侍るべきや只返す返すも見性の助けに便りよく侍へらば絶へずりも無く唱へ進みて一心不亂の田地に到り玉はば必定大歡喜の眉を開き玉ふべし若しそれ無の字を打捨て佛名を唱る事は專唱稱名の力らに依て見性分明に直に佛祖の骨髓に徹底する事を得ば是可なり縱ひ見性明白なる事を得ずとも稱名の功力に依て死後には必らず極樂に往生せん是一擧兩得萬全の良策なりとの底意ならば早速稱名の修行を放下し純一に無の字を擧揚し玉ふべし何が故ぞ斯れは是二百年來禪苑を荒廢し眞風を蠹害するの惡風俗杜撰の禪徒鄙俗下賤の邪見解なり夫れ禪宗は抓危が上へにも轉孤危ならん事を要し祖庭は嶮峻が上にも轉嶮峻なるを貴しとす常に要津を把定して凡聖を通ぜす一言を出す則ば三賢魂蕩し四果眼眩す一句を吐く則ば閑神恐れ走り野鬼悲しみ哭す木人の腸たを割き石女の髓を敲く棟梁の質あつて神俊の才を具する底の英伶の學者を見る則んば難透難解難信難入底の話頭を放つて正法眼藏を瞎却し涅槃妙心を攙奪す學者も亦蠱毒の鄕を過るが如く水も亦他の一滴をうけず堅に咬み橫に參じて情量の窟宅を破り智解の窠臼を拔き理盡き詞ば窮まり心死し意消して忽然として凡に非ず聖にあらず佛にあらず魔に非ざる底の奇怪の鈍瞎漢を放出して以て佛祖の深恩を報答す斯の如きの手段を法窟の爪牙と名け奪命の神符と云ふ大ひに上々根機の人に利あり中下の機は閣ひて顧みず淨家は却つて是に反す是れ又敬しつべきの一門なり
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遠羅天釜・『遠羅天釜』真の法華経は無字の経さて又經とは常と云る字義にて常住佛性の義を顯し給ふ者なり常住佛性とは此心性は佛に在ても增もせず衆生に在ても減じもせず天地と同根萬物と一體にして曠劫以前曠劫以後少しも變易なき處を指て經とは說給ひたるなり然れば妙法は佛心の體蓮華經は佛心の妙法を譬へに設けて讚歎し給ひたるにて畢竟一心の異名なり一實二名餅を歌賃と云た程の事なり然れば眞實の法華經は手にも把れず目にも見へざる者なるを如何にやわ受持すべきぞ如何樣に心得たるを法華經の行者とは云べきぞとならば蓋し三種の根機ありて下根の行者は黄卷赤軸を把ゑて讀誦書寫解說し中根の行者は自心を觀照して此經を受持し上根の行者は眼に此經を見徹し自心の面を見るか如し是故に涅槃經に曰如來目見佛性とは是なり法華經の行持は大乘至極の眞修なれば中々容易の沙汰にし非ず易き事は甚だ易く難き事は甚だ難し去程に本文にも此經難持若暫持者我卽歡喜諸佛亦然と說給ひて至極大切の行持なり天台の智者曰手不執卷常讀是經口無言音遍誦衆典佛不說法恒聞法音心不思惟普照法界とこれ眞正誦經の樣子なり試に問卷を執ずして誦ずる底是那箇の經ぞ自心の妙法に非ずや思惟せずして徧く法界を照すと是何物ぞ眞正の蓮華に非ずや是を無字經と云ふ徒に黄卷赤軸のみを把へて法華經なりと偏執するたぐいは彼藥帖上の記を舐つて藥なりとして病を治せんと計る者の如し大に錯り了れり若人此經を持んと欲せば十二時中胸中一點の缺曇りもなく不思善不思惡の當體を正念工夫の眞修と云去程に拾得子の偈にも欲識無爲理心中不挂絲とかくの如きの正修は三世の如來も一切の智者高僧も此處より大悟得道し給へる事にて萬古不易の大綱なり一念不生前後際斷頓悟成佛の直路なれば如來の此經難持と宣給へるも理り至極ならずや大凡三敎の聖人も實處に到つては大段同じ其進修の淺深精麁に依て得力の高下はあるべけれども最初の一步は趣等し儒門には此處を至善といひ未發を中と云道家には虚無自然といひ神家者は高間が原と相傳す天台には一念三千止觀の大事とす眞言にては阿字不生觀法と云ふ家々の祖師達の坐禪をすゝめ誦經を勸め給ふも誦々唱〱て一心不亂純一無雜の田地に到らしめん方便ならずや
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遠羅天釜・『遠羅天釜』開仏知見と大福長者の子問敎への如くとは如何なる敎へをか指や四安樂の法門か五種の法師の行持か曰然ず方便品に謂ゆる開佛知見道故出現於世の本文經中の眼目なり番々出世の如來無量恒沙の法を說給へども何れも一切衆生に佛知見を開かしめん爲なり然らば佛知見の望なくて如何なる法を行じたりとも諸佛の本懷に契事は努々これ有べからず開佛知見とは一心の妙法を發明する事なり悲みても悲むべきは今末世澆季の世の中なれば一心の妙法の沙汰はすたれ果て思ひ〱の有樣なりたま〱有に似たるも此頃は皆々敎へ事になりて云甲斐もなき風情なり大日經にも如實知自心と說給ひたるものを顧る人さゑなけれ法華經の敎に隨はず妙法は何地に有もしらでうろ〱として西ぞ東ぞとて混さわぎに騷廻りて佛道なりとて月日を送るは譬へば此に大福長者あらんに初め多少の艱難を經て限りもなき田地を切開きて儞等も此田地を耕して我如く大福長者になれとて大勢の子供に優劣もなく過分の田地を譲與へたりしに父の敎へに隨はずして何れも他國に流浪し人の門戶に傍乞食するもあり我は鏡とぎなりとて瓦を把て磨行もあり粟稗の鳥を追てすくみ居もあり長者の子なりとて自身は乞食非人の體にて亂りに人を輕しむるもあり田畑の帳面ばかり每日繰かへして田畑の有處も知ぬもあり帳面さねあれば恐るゝ事はなきぞとて恣に惡行を行ずるもあり我は長者の作法を知たりとて飢渴て作法ばかりを行ずるもあり田畑の有處もしらで晝夜に田畑と叫もあり田地の廣大なるを少し許り見付て大驕慢して婬酒食肉心に任せて亂行なるもありて長者の心に契たる子は一人もなきが如し田地とは一心の妙法を指なり帳面とは諸經論を云なり人の門戶に傍て乞食するとはかの開佛知見の大事は自身艱難刻苦して冷暖自知する事なるを末世になりては人の敎へを受て正體もなき事を聞覺へて是を大悟とする事なりこれは法華經の中の窮子ならずや方等部にては四果の聖者をさへ二乘凡夫と呵責し給ひしものを人々の敎へ給ふ通りの埒もなくたわいもなく繩にもかづらにもかゝらぬ事ならば何しに佛は六年まで雪山に閉籠て皮骨連立し絲を以て瓦を編立たる如く瘦衰へ蘆すゝきの膝を突貫て臂まで穿ち拔たるをも覺へ給はず目のあたり雷の落て牛馬を打殺したるをも御覺へましまさぬ程苦吟し給ひて初めて佛知見を開き給ひたるは如何なる事ぞや