遠羅天釜 / 『遠羅天釜』真の法華経は無字の経
さて又經とは常と云る字義にて常住佛性の義を顯し給ふ者なり常住佛性とは此心性は佛に在ても增もせず衆生に在ても減じもせず天地と同根萬物と一體にして曠劫以前曠劫以後少しも變易なき處を指て經とは說給ひたるなり然れば妙法は佛心の體蓮華經は佛心の妙法を譬へに設けて讚歎し給ひたるにて畢竟一心の異名なり一實二名餅を歌賃と云た程の事なり然れば眞實の法華經は手にも把れず目にも見へざる者なるを如何にやわ受持すべきぞ如何樣に心得たるを法華經の行者とは云べきぞとならば蓋し三種の根機ありて下根の行者は黄卷赤軸を把ゑて讀誦書寫解說し中根の行者は自心を觀照して此經を受持し上根の行者は眼に此經を見徹し自心の面を見るか如し是故に涅槃經に曰如來目見佛性とは是なり法華經の行持は大乘至極の眞修なれば中々容易の沙汰にし非ず易き事は甚だ易く難き事は甚だ難し去程に本文にも此經難持若暫持者我卽歡喜諸佛亦然と說給ひて至極大切の行持なり天台の智者曰手不執卷常讀是經口無言音遍誦衆典佛不說法恒聞法音心不思惟普照法界とこれ眞正誦經の樣子なり試に問卷を執ずして誦ずる底是那箇の經ぞ自心の妙法に非ずや思惟せずして徧く法界を照すと是何物ぞ眞正の蓮華に非ずや是を無字經と云ふ徒に黄卷赤軸のみを把へて法華經なりと偏執するたぐいは彼藥帖上の記を舐つて藥なりとして病を治せんと計る者の如し大に錯り了れり若人此經を持んと欲せば十二時中胸中一點の缺曇りもなく不思善不思惡の當體を正念工夫の眞修と云去程に拾得子の偈にも欲識無爲理心中不挂絲とかくの如きの正修は三世の如來も一切の智者高僧も此處より大悟得道し給へる事にて萬古不易の大綱なり一念不生前後際斷頓悟成佛の直路なれば如來の此經難持と宣給へるも理り至極ならずや大凡三敎の聖人も實處に到つては大段同じ其進修の淺深精麁に依て得力の高下はあるべけれども最初の一步は趣等し儒門には此處を至善といひ未發を中と云道家には虚無自然といひ神家者は高間が原と相傳す天台には一念三千止觀の大事とす眞言にては阿字不生觀法と云ふ家々の祖師達の坐禪をすゝめ誦經を勸め給ふも誦々唱〱て一心不亂純一無雜の田地に到らしめん方便ならずや
新字:さて又経とは常と云る字義にて常住仏性の義を顕し給ふ者なり常住仏性とは此心性は仏に在ても增もせず衆生に在ても減じもせず天地と同根万物と一体にして曠劫以前曠劫以後少しも変易なき処を指て経とは説給ひたるなり然れば妙法は仏心の体蓮華経は仏心の妙法を譬へに設けて讃嘆し給ひたるにて畢竟一心の異名なり一実二名餅を歌賃と云た程の事なり然れば真実の法華経は手にも把れず目にも見へざる者なるを如何にやわ受持すべきぞ如何様に心得たるを法華経の行者とは云べきぞとならば蓋し三種の根機ありて下根の行者は黄巻赤軸を把ゑて読誦書写解説し中根の行者は自心を観照して此経を受持し上根の行者は眼に此経を見徹し自心の面を見るか如し是故に涅槃経に曰如来目見仏性とは是なり法華経の行持は大乗至極の真修なれば中々容易の沙汰にし非ず易き事は甚だ易く難き事は甚だ難し去程に本文にも此経難持若暫持者我即歓喜諸仏亦然と説給ひて至極大切の行持なり天台の智者曰手不執巻常読是経口無言音遍誦衆典仏不説法恒聞法音心不思惟普照法界とこれ真正誦経の様子なり試に問巻を執ずして誦ずる底是那箇の経ぞ自心の妙法に非ずや思惟せずして遍く法界を照すと是何物ぞ真正の蓮華に非ずや是を無字経と云ふ徒に黄巻赤軸のみを把へて法華経なりと偏執するたぐいは彼薬帖上の記を舐つて薬なりとして病を治せんと計る者の如し大に錯り了れり若人此経を持んと欲せば十二時中胸中一点の欠曇りもなく不思善不思悪の当体を正念工夫の真修と云去程に拾得子の偈にも欲識無為理心中不挂糸とかくの如きの正修は三世の如来も一切の智者高僧も此処より大悟得道し給へる事にて万古不易の大綱なり一念不生前後際断頓悟成仏の直路なれば如来の此経難持と宣給へるも理り至極ならずや大凡三教の聖人も実処に到つては大段同じ其進修の浅深精麁に依て得力の高下はあるべけれども最初の一歩は趣等し儒門には此処を至善といひ未発を中と云道家には虚無自然といひ神家者は高間が原と相伝す天台には一念三千止観の大事とす真言にては阿字不生観法と云ふ家々の祖師達の坐禅をすゝめ誦経を勧め給ふも誦々唱〱て一心不乱純一無雑の田地に到らしめん方便ならずや
書き下し
さて又經とは常と云る字義にて常住佛性の義を顯し給ふ者なり常住佛性とは此心性は佛に在ても增もせず衆生に在ても減じもせず天地と同根萬物と一體にして曠劫以前曠劫以後少しも變易なき處を指て經とは說給ひたるなり然れば妙法は佛心の體蓮華經は佛心の妙法を譬へに設けて讚歎し給ひたるにて畢竟一心の異名なり一實二名餅を歌賃と云た程の事なり然れば眞實の法華經は手にも把れず目にも見へざる者なるを如何にやわ受持すべきぞ如何樣に心得たるを法華經の行者とは云べきぞとならば蓋し三種の根機ありて下根の行者は黄卷赤軸を把ゑて讀誦書寫解說し中根の行者は自心を觀照して此經を受持し上根の行者は眼に此經を見徹し自心の面を見るか如し是故に涅槃經に曰如來目見佛性とは是なり法華經の行持は大乘至極の眞修なれば中々容易の沙汰にし非ず易き事は甚だ易く難き事は甚だ難し去程に本文にも此經難持若暫持者我卽歡喜諸佛亦然と說給ひて至極大切の行持なり天台の智者曰手不執卷常讀是經口無言音遍誦衆典佛不說法恒聞法音心不思惟普照法界とこれ眞正誦經の樣子なり試に問卷を執ずして誦ずる底是那箇の經ぞ自心の妙法に非ずや思惟せずして徧く法界を照すと是何物ぞ眞正の蓮華に非ずや是を無字經と云ふ徒に黄卷赤軸のみを把へて法華經なりと偏執するたぐいは彼藥帖上の記を舐つて藥なりとして病を治せんと計る者の如し大に錯り了れり若人此經を持んと欲せば十二時中胸中一點の缺曇りもなく不思善不思惡の當體を正念工夫の眞修と云去程に拾得子の偈にも欲識無爲理心中不挂絲とかくの如きの正修は三世の如來も一切の智者高僧も此處より大悟得道し給へる事にて萬古不易の大綱なり一念不生前後際斷頓悟成佛の直路なれば如來の此經難持と宣給へるも理り至極ならずや大凡三敎の聖人も實處に到つては大段同じ其進修の淺深精麁に依て得力の高下はあるべけれども最初の一步は趣等し儒門には此處を至善といひ未發を中と云道家には虚無自然といひ神家者は高間が原と相傳す天台には一念三千止觀の大事とす眞言にては阿字不生觀法と云ふ家々の祖師達の坐禪をすゝめ誦經を勸め給ふも誦々唱〱て一心不亂純一無雜の田地に到らしめん方便ならずや
現代語訳
さて、経とは常という字義であって、常住仏性の意味を顕されたものである。常住仏性とは、この心性が仏にあっても増さず、衆生にあっても減らず、天地と同根、万物と一体であって、曠劫以前も曠劫以後も少しも変易しないところを指して、経と説かれたのである。そうであれば、妙法は仏心の本体、蓮華経は仏心の妙法を譬えをもって設けて讃歎されたものであり、結局は一心の異名である。一つの実体に二つの名があるというのは、餅を歌賃(歌の報酬)と言ったほどのことである。ところで、真実の法華経は手に取ることも目に見ることもできないものであるのに、どのように受持すべきか、どのように心得ているのを法華経の行者と言うべきかといえば、思うに三種の根機があって、下根の行者は黄巻赤軸(経巻)を手に取って読誦・書写・解説し、中根の行者は自心を観照してこの経を受持し、上根の行者は眼にこの経を見徹し、自分の心の顔を見るようである。それゆえ涅槃経に「如来は目に仏性を見る」とあるのがこれである。法華経の行持は大乗至極の真修であるから、決して容易なことではない。易いことは甚だ易く、難いことは甚だ難い。それゆえ本文にも「この経は持ち難し。もし暫くも持つ者があれば、我は即ち歓喜す。諸仏もまた然り」と説かれ、至極大切な行持である。天台の智者は「手に巻を執らずして常にこの経を読み、口に言音なくして遍く衆典を誦し、仏は法を説かないが恒に法音を聞き、心に思惟せず普く法界を照らす」と言った。これが真正に経を誦する様子である。試みに問う。巻を執らずに誦するという、その経とはいったいどの経か。自心の妙法ではないか。思惟せずして遍く法界を照らすとは何物か。真正の蓮華ではないか。これを無字経という。いたずらに黄巻赤軸だけを手に取って法華経だと偏執する輩は、あの薬の処方の書き付けをなめて薬だと思い、病を治そうとする者のようで、大きな誤りである。もし人がこの経を持とうと思うなら、十二時中、胸中に一点の曇りもなく、善も思わず悪も思わないそのままのあり方を、正念工夫の真修という。それゆえ拾得子の偈にも「無為の理を識らんと欲せば、心中に一糸も掛けず」とある。このような正しい修行は、三世の如来も一切の智者高僧も、ここから大悟得道されたことで、万古不易の大綱である。一念不生、前後際断は頓悟成仏の直路であるから、如来がこの経は持ち難いと仰せられたのも、道理の至極ではないか。そもそも三教の聖人も、実際の境地に至ってはおおむね同じで、その進み修める深さ浅さ、精しさ粗さによって力の得方の高下はあろうが、最初の一歩は趣を同じくする。儒門ではここを至善といい、未発を中といい、道家では虚無自然といい、神道家は高間が原と相伝し、天台には一念三千止観の大事とし、真言では阿字不生観法という。各家の祖師たちが坐禅をすすめ、誦経を勧められたのも、誦じ唱えて一心不乱・純一無雑の境地に至らせるための方便ではないか。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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遠羅天釜・『遠羅天釜』妙法と蓮華の喩え子細は大凡手蹟にもせよ畫圖にもせよ誰々は琴の妙を得たり誰々は琵琶の妙を得たりと云れんずる人も其妙とは如何なる場所を申す事に侍るぞと問れたらん時に如何なる辯才利口の人にても中々言葉に演る事は叶はざる事なり去程に父子不傳の妙とて吾大切なる一子にさへ敎る事は能はず妙處に到つては吾とても覺ゑず知ぬ處より働き出る事なり人々具足の妙法の心性も左の如し只今此文を披覽し或ひは笑ひ或ひは談じ緒環の絲繰出す如く果しもなく五人に逢ても十人に逢ても少しも間違もなく働きもて行事不思議なる有樣ならずや然るに何物が斯の如く自由には働く事ぞと内に向ひて尋ね求むるに聲もなく臭もなし然ば一向に頑空無記なる物にして木石の如くなりやと思へば例の通り千變萬化自由自在にして有と云んとすれば有に非ず無と云んとすれば無に非ず言語道斷脫洒自在なる處を假に且く妙法とは名付給ひたる事なり蓮華とは蓮の泥土の底に有ても少しも泥土に汚されず妙なる色香を具足して失はず時を得て麗しく咲出るは此妙法の佛心の衆生に在ても穢れず減らず佛に在ても淨からず增ず佛も凡夫にて在し時は一切衆生に少しも違はせ給はで五欲の泥土に汚され給ふは左ながら、蓮の泥中に在が如し其後靈山に於て本具の心性を發明し給ひて希有なる哉一切衆生如來の智慧德相を具すと高聲に唱へ給ひて頓漸半滿の諸經を說宣三界の大導師と成給ひて梵天帝釋に尊信せられ給へば蓮の泥中を出て麗しく發けたるが如し蓮の泥中に屹度具足して居たりし色香を水上に咲出すが如く佛も無量恒沙の法を宣給へども外より持來り給ふに非ず凡夫にてをはせし時屹度具足し給ひし佛性の有樣を其儘に宣給ふ者なり衆生にてをはせし時も成佛の本懷を遂給ひて後も一心の妙法は少しも添減なきが如く蓮の泥中にありし時も咲亂れたる夏も少しも變遷なきに等し故に假用ひて且く一心の妙法に譬へ給ひたる者なり是即ち人々具足の佛心を妙法蓮華經と名づけ給ひたる慥なる證據ならずや
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法華経・法師品第十(3)若し仏道に住して、自然智を成就せんと欲せば、常に当に勤めて、法華を受持する者を供養すべし。其れ疾く一切種智慧を得んと欲すること有らば、当に是の経を受持し、並びに持者を供養すべし。 若し能く、妙法華経を受持する者有らば、当に知るべし、仏の所使にして、諸の衆生を愍念すと。諸有る能く妙法華経を受持する者は、清浄の土を捨てて、衆を愍れむが故に此に生ず。 当に知るべし、是の如き人は、自在に生ぜんと欲する所にして、能く此の悪世に於いて、広く無上の法を説く。応に天の華香、及び天の宝衣服、天上の妙宝聚を以て、説法者を供養すべし。 吾が滅後の悪世に、能く是の経を持つ者をば、当に合掌して礼敬すること、世尊を供養するが如くすべし。上饌・衆の甘美、及び種種の衣服をもて、是の仏子を供養し、冀わくは須臾も聞くことを得ん。 若し能く後世に、是の経を受持せん者は、我、遣わして人中に在りて、如来の事を行ぜしむ。若し一劫の中に、常に不善の心を懐き、色を作して仏を罵らば、無量の重罪を獲ん。 其れ是の法華経を読誦し持つこと有らん者を、須臾も悪言を加えば、其の罪、復た彼に過ぎん。人有りて仏道を求め、而も一劫の中に、合掌して我が前に在り、無数の偈を以て讃えんに、 是の仏を讃うるに由るが故に、無量の功徳を得ん。持経者を歎美せば、其の福、復た彼に過ぎん。八十億劫に於いて、最妙の色・声、及び香・味・触を以て、持経者を供養せんに、 是の如く供養し已って、若し須臾も聞くことを得ば、則ち応に自ら欣慶すべし、我、今、大利を獲たりと。藥王、今汝に告ぐ、我が説く所の諸経の中に於いて、此の経の中に、法華最も第一なり。 爾の時、仏、復た藥王菩薩摩訶薩に告げたまわく、「我が説く所の経典は、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経は、最も難信難解なり。藥王、此の経は是れ諸仏の秘要の蔵なり。分布して、妄りに人に授与すべからず。諸仏世尊の守護したもう所にして、昔より已来、未だ曽て顕説せず。而も此の経は、如来の現在すら、猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや。」
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遠羅天釜・『遠羅天釜』易きを取るか難きを取るか蓋し佛道も上古は大ひに難く今時は大ひに易しとするか且羅蔔を煨し芋栗を煮るが如く初めは硬く後には輭かなるものとするが今時の易きが是ならば古への難きは非ならん古への難きが是ならば今時の易きは非ならん古への難きは苦吟する事は甚だ苦吟す纔かに發轉する時は忽ち賢聖佛祖たり那邊を透過し今時を透過して毫釐も觸着すれば電轉じ星飛ぶ今時の易きは殊勝なる事は甚だ殊勝なり望み見る時は畫圖の賢聖僧の如し纔かに發轉する時は依然として困魚箔に止り跛鼈甕裏に落つ今時を透らず那邊を透らず拶着すれば瞎驢氷稜に上る今時の易きを取んか古への難きを取んか如何に末世なればとていひ甲斐もなき有樣なり古人も末々は禪法も正體もなく成果べきを知給ひけるにや妙心を瘡紙に求め正法を口談に付すとは兼て悲み云置れたるなるべし此事もし紙授口傳にて濟べくは神光の臂を斷ち玄沙の足を傷ひ法心は頭腫法燈の淚を落す事はこれあるべからず人は兎もあれ角もあれ我は是非〱晝夜に間もなく首題を唱へて眞の法華のあり樣を見届くべきぞと親切にさへ唱へ給はゞ雪山には入ず頭は腫ずとも決定必定自性の妙法蓮華は麗しく開け侍るべしたゞ肝要は自心の妙法を見屆けずば置まじきぞと望み深き程貴き事は無事なり如來世尊も自心の妙法を見屆け給はざりし間は流轉常沒の凡夫に少しも違ましまさで生死徃來し給ひき末後雪山に於て自心の妙法を見付給ひて初めて正覺を成就し給ふ事なり瓦を磨くとは八識賴耶の無分別識を認て本來の面目なりと合點して妄念さへ無れば其迹は鏡の如くなる佛心ぞ只鏡の萬境を寫して鴉は黒く鷺は白く柳は綠に花は紅に少しも錯らす照せども毫釐も迹を留ぬ如く時々に勤めて拂拭せよと敎へられて晝夜に妄念を拂ふは瓦を磨き粟稗の鳥を逐に同じ是を識神を認むと云ふ山河大地を照破する光明の發する事はなき事なり此類の修行は昔より大唐にも聞多き事なり南嶽大師の馬祖の菴前にて瓦を磨き給ふも馬祖に此意を知しめん爲なり去るに依て長沙大師の偈に曰學道之人不識眞只爲從前認識神無量劫來生死本癡人喚作本來人と是故に慈明眞淨息耕大慧等の祖師齒を切つて觝排して親切を盡されし事なり其外の諸師の有樣は逐一擧するに及ばず大凡三世十方の間に見性せざるの佛祖なく見性せざるの賢聖はなき事なり是萬古不易の大綱なり