遠羅天釜 / 『遠羅天釜』題目を唱え大疑団を起こす
如何して法華眞の面目を徹見すべきぞとならば先須らく大疑團を起すべし何物を指てか法華眞の面目とはするぞ自己本有の妙法の一心なりと聞からに自心を見るにしかず自心とは如何なるものぞ白き物とやせん赤き物とやせん是非〱一囘見得すべきぞと猛く甲斐〱しき志を震つて大誓願を起して晝夜に究め見るべし自心を參究するに行持は樣々多き中に法華經の行者ならば法華三昧の行持に越たる事や侍るべき法華三昧の行持とは今日より思ひ立て憂につけつらきにつけ悲きにつけ嬉きにつけ寐ても覺ても起ても居ても只管に法華の首題を南無妙法蓮華經〱と間もなく唱へらるべし此首題を杖にも力にもして是非とも法華眞の面目を見屆くべしと深く望をかけて唱へらるべし願くば出る息入息を題目にしてほしき事よと隨分親切に斷間もなく唱へらるべし唱へ〱て怠らずんば久しからずして心性たしかに大石などを淘居たる如くにて安住不動如須彌山の心地はほのかに覺へあるべし其時にすて置ず隨分唱へらるべしいつしか聞及し正念工夫の大事に契當して平生の心意識情都て行はれず金剛圈に入が如く瑠璃瓶裏に坐するに似て一點の計較思想なく忽然として大死底の人と異なる事なけん縱かに蘇息し來らば覺へず純一無雜打成一片の眞理現前して立處に法華眞の面目に揷着して忽ち身心を打失し本門壽量久遠實成の如來は目前に分明にして推とも去じ此時に當つて天台の法性寂然寂而常照の寶所に投入し眞言の阿字不生の惠日に照され律宗の諸佛無上の金剛寶戒に冥合し淨土の即心往生極樂報土の素懷を遂水鳥樹林念佛念法念僧の妙莊嚴をまのあたり見届け娑婆即寂光の正眼を開き草木國土悉皆成佛の田地に至らん事毫釐も相違あるべからず然らば則ち人中天上の善果何事かこれにしかんや是即ち三世の諸佛出世の本懷なり一遍の題目は禪門一則の話頭と其功異なる事なし此等の趣き三世十方の賢聖扶桑八萬餘座の神慮もおわする者を老僧が毫髮ばかりもあやぶむ處あらば何しに罪作りにくだ〱しき事を書贈り侍るべきや少しも疑ひ給ふべからず
新字:如何して法華真の面目を徹見すべきぞとならば先須らく大疑団を起すべし何物を指てか法華真の面目とはするぞ自己本有の妙法の一心なりと聞からに自心を見るにしかず自心とは如何なるものぞ白き物とやせん赤き物とやせん是非〱一囘見得すべきぞと猛く甲斐〱しき志を震つて大誓願を起して昼夜に究め見るべし自心を参究するに行持は様々多き中に法華経の行者ならば法華三昧の行持に越たる事や侍るべき法華三昧の行持とは今日より思ひ立て憂につけつらきにつけ悲きにつけ嬉きにつけ寐ても覚ても起ても居ても只管に法華の首題を南無妙法蓮華経〱と間もなく唱へらるべし此首題を杖にも力にもして是非とも法華真の面目を見届くべしと深く望をかけて唱へらるべし願くば出る息入息を題目にしてほしき事よと随分親切に断間もなく唱へらるべし唱へ〱て怠らずんば久しからずして心性たしかに大石などを淘居たる如くにて安住不動如須弥山の心地はほのかに覚へあるべし其時にすて置ず随分唱へらるべしいつしか聞及し正念工夫の大事に契当して平生の心意識情都て行はれず金剛圏に入が如く瑠璃瓶裏に坐するに似て一点の計較思想なく忽然として大死底の人と異なる事なけん縦かに蘇息し来らば覚へず純一無雑打成一片の真理現前して立処に法華真の面目に揷着して忽ち身心を打失し本門寿量久遠実成の如来は目前に分明にして推とも去じ此時に当つて天台の法性寂然寂而常照の宝所に投入し真言の阿字不生の恵日に照され律宗の諸仏無上の金剛宝戒に冥合し浄土の即心往生極楽報土の素懐を遂水鳥樹林念仏念法念僧の妙荘厳をまのあたり見届け娑婆即寂光の正眼を開き草木国土悉皆成仏の田地に至らん事毫釐も相違あるべからず然らば則ち人中天上の善果何事かこれにしかんや是即ち三世の諸仏出世の本懐なり一遍の題目は禅門一則の話頭と其功異なる事なし此等の趣き三世十方の賢聖扶桑八万余座の神慮もおわする者を老僧が毫髪ばかりもあやぶむ処あらば何しに罪作りにくだ〱しき事を書贈り侍るべきや少しも疑ひ給ふべからず
書き下し
如何して法華眞の面目を徹見すべきぞとならば先須らく大疑團を起すべし何物を指てか法華眞の面目とはするぞ自己本有の妙法の一心なりと聞からに自心を見るにしかず自心とは如何なるものぞ白き物とやせん赤き物とやせん是非〱一囘見得すべきぞと猛く甲斐〱しき志を震つて大誓願を起して晝夜に究め見るべし自心を參究するに行持は樣々多き中に法華經の行者ならば法華三昧の行持に越たる事や侍るべき法華三昧の行持とは今日より思ひ立て憂につけつらきにつけ悲きにつけ嬉きにつけ寐ても覺ても起ても居ても只管に法華の首題を南無妙法蓮華經〱と間もなく唱へらるべし此首題を杖にも力にもして是非とも法華眞の面目を見屆くべしと深く望をかけて唱へらるべし願くば出る息入息を題目にしてほしき事よと隨分親切に斷間もなく唱へらるべし唱へ〱て怠らずんば久しからずして心性たしかに大石などを淘居たる如くにて安住不動如須彌山の心地はほのかに覺へあるべし其時にすて置ず隨分唱へらるべしいつしか聞及し正念工夫の大事に契當して平生の心意識情都て行はれず金剛圈に入が如く瑠璃瓶裏に坐するに似て一點の計較思想なく忽然として大死底の人と異なる事なけん縱かに蘇息し來らば覺へず純一無雜打成一片の眞理現前して立處に法華眞の面目に揷着して忽ち身心を打失し本門壽量久遠實成の如來は目前に分明にして推とも去じ此時に當つて天台の法性寂然寂而常照の寶所に投入し眞言の阿字不生の惠日に照され律宗の諸佛無上の金剛寶戒に冥合し淨土の即心往生極樂報土の素懷を遂水鳥樹林念佛念法念僧の妙莊嚴をまのあたり見届け娑婆即寂光の正眼を開き草木國土悉皆成佛の田地に至らん事毫釐も相違あるべからず然らば則ち人中天上の善果何事かこれにしかんや是即ち三世の諸佛出世の本懷なり一遍の題目は禪門一則の話頭と其功異なる事なし此等の趣き三世十方の賢聖扶桑八萬餘座の神慮もおわする者を老僧が毫髮ばかりもあやぶむ處あらば何しに罪作りにくだ〱しき事を書贈り侍るべきや少しも疑ひ給ふべからず
現代語訳
どのようにして法華の真の面目を徹見すべきかといえば、まず大疑団を起こすべきである。何物を指して法華の真の面目とするのか。自己本有の妙法の一心であると聞いたからには、自心を見るに越したことはない。自心とはどのようなものか。白い物とするか、赤い物とするか。是非とも一度は見て取ろうと、猛く甲斐甲斐しい志を奮い、大誓願を起こして、昼夜に究め見るべきである。自心を参究するのに、行持は様々多い中で、法華経の行者であるなら、法華三昧の行持に越えるものがあろうか。法華三昧の行持とは、今日から思い立って、憂いにつけ辛きにつけ、悲しきにつけ嬉しきにつけ、寝ても覚めても、起きても居ても、ひたすら法華の首題を、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、絶え間なく唱えられることである。この首題を杖にも力にもして、是非とも法華の真の面目を見届けようと深く望みをかけて唱えられよ。願わくは出る息入る息を題目にしてほしいものだと、随分親切に絶え間なく唱えられよ。唱えに唱えて怠らなければ、久しからずして、心性が確かに大石などを据え置いたようで、安住不動、須弥山のような心地がほのかに覚えられるであろう。その時に捨て置かず、随分と唱えられよ。いつしか、聞き及んだ正念工夫の大事にぴたりと合って、平生の心意識情はすべて行われず、金剛圏に入るようで、瑠璃瓶の中に坐するに似て、一点の計らいも思想もなく、忽然として死に切った人と異ならないであろう。たまたま蘇息してくれば、覚えず純一無雑、打成一片の真理が現前して、立ち処に法華の真の面目に突き当たり、たちまち身心を打ち失い、本門寿量久遠実成の如来は目前に明らかで、押しても去らない。この時に当たって、天台の法性寂然、寂にして常に照らす宝所に投入し、真言の阿字不生の恵みの日に照らされ、律宗の諸仏無上の金剛宝戒に冥合し、浄土の即心往生・極楽報土の素懐を遂げ、水鳥・樹林が念仏・念法・念僧を唱える妙荘厳を目のあたりに見届け、娑婆即寂光の正眼を開き、草木国土悉皆成仏の境地に至ることは、毫釐も相違あるまい。そうであれば、人中・天上の善果も何事がこれに及ぼうか。これこそ三世の諸仏が世に出られた本懐である。一遍の題目は、禅門の一則の話頭と、その功は異なることがない。これらの趣旨は、三世十方の賢者聖者、日本の八万余座の神々の御心にもかなうことであるのに、老僧が毫髪ほどでも危ぶむところがあれば、どうして罪作りにくだくだしいことを書き贈るはずがあろうか。少しも疑われてはならない。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
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遠羅天釜・『遠羅天釜』真の法華経は無字の経さて又經とは常と云る字義にて常住佛性の義を顯し給ふ者なり常住佛性とは此心性は佛に在ても增もせず衆生に在ても減じもせず天地と同根萬物と一體にして曠劫以前曠劫以後少しも變易なき處を指て經とは說給ひたるなり然れば妙法は佛心の體蓮華經は佛心の妙法を譬へに設けて讚歎し給ひたるにて畢竟一心の異名なり一實二名餅を歌賃と云た程の事なり然れば眞實の法華經は手にも把れず目にも見へざる者なるを如何にやわ受持すべきぞ如何樣に心得たるを法華經の行者とは云べきぞとならば蓋し三種の根機ありて下根の行者は黄卷赤軸を把ゑて讀誦書寫解說し中根の行者は自心を觀照して此經を受持し上根の行者は眼に此經を見徹し自心の面を見るか如し是故に涅槃經に曰如來目見佛性とは是なり法華經の行持は大乘至極の眞修なれば中々容易の沙汰にし非ず易き事は甚だ易く難き事は甚だ難し去程に本文にも此經難持若暫持者我卽歡喜諸佛亦然と說給ひて至極大切の行持なり天台の智者曰手不執卷常讀是經口無言音遍誦衆典佛不說法恒聞法音心不思惟普照法界とこれ眞正誦經の樣子なり試に問卷を執ずして誦ずる底是那箇の經ぞ自心の妙法に非ずや思惟せずして徧く法界を照すと是何物ぞ眞正の蓮華に非ずや是を無字經と云ふ徒に黄卷赤軸のみを把へて法華經なりと偏執するたぐいは彼藥帖上の記を舐つて藥なりとして病を治せんと計る者の如し大に錯り了れり若人此經を持んと欲せば十二時中胸中一點の缺曇りもなく不思善不思惡の當體を正念工夫の眞修と云去程に拾得子の偈にも欲識無爲理心中不挂絲とかくの如きの正修は三世の如來も一切の智者高僧も此處より大悟得道し給へる事にて萬古不易の大綱なり一念不生前後際斷頓悟成佛の直路なれば如來の此經難持と宣給へるも理り至極ならずや大凡三敎の聖人も實處に到つては大段同じ其進修の淺深精麁に依て得力の高下はあるべけれども最初の一步は趣等し儒門には此處を至善といひ未發を中と云道家には虚無自然といひ神家者は高間が原と相傳す天台には一念三千止觀の大事とす眞言にては阿字不生觀法と云ふ家々の祖師達の坐禪をすゝめ誦經を勸め給ふも誦々唱〱て一心不亂純一無雜の田地に到らしめん方便ならずや
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遠羅天釜・『遠羅天釜』心の外に法華経なし老夫當秋より法華講演の刻み心の外に法華經なく法華經の外に心無と申し談じたりしを聞及ばれ怪き事に思して書通を以てなりとも右の道理を申し越し其外にも有難き事どもこれあらば書付遣し候樣にとの御事これによつて大略の趣書付進じ候間何遍も繰かへし披覽致され能々得心これあるべく候成程我等常々申し談じ候通り心の外に華法經なく法華經の外に心なく心の外に十界なく十界の外に法華經なし是即ち决定至極の法理にて愚老に限ず三世の如來も十方の賢聖も極處に到つては皆々かくの如く說給ふ事にて法華本文の大意は大段此等の趣を宣給ひたる事にて此外にも八萬四千の法門を設け給ひたれども皆權敎の說にして方便の間を出ず至極に到りては一切衆生と三世十方の如來と山河大地と法華經と悉く不二同體なる法理を諸法實相と說給ひたる是即ち佛道の大綱なり大凡世尊一代頓漸秘密不定の法門有て無量の妙義をのべ給ひて五千四十八卷の諸經あれども其中の至極の旨は法華一部八卷の中に促り法華一部六萬四千三百六十餘字の極意は妙法蓮華經の五字に促り妙法蓮華經の五字は妙法の二字に促り妙法の二字は心の一字に歸す心の一字は却て何の處にか歸すとならば兎角龜毛過別山畢竟如何欲知無限傷春意盡在停針不語時さる程に妙法の一心は屈る則んば十方法界を含容し收る則んは無念無心の自性に歸す此故に心外無法とも說給ひ三界唯心とも諸法實相とも說給ひぬ其極處に到つては法華經と云ひ無量壽佛と云ひ禪門には本來の面目と云ひ眞言には阿字不生の日輪と云ひ律家には根本無作の戒體と云ふ皆是一心の異名なりと覺悟致さるべし然るに妙法蓮華經の五字一心の源を指とは如何なる證據かあるとならば取も直さず直に此妙法蓮華經の五字よきたしかなる證據にて侍り如何となれば妙法蓮華經とは一心不思議の德を讚歎したる題號にて一心本具の性德を指顯したる言葉なり
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遠羅天釜・『遠羅天釜』一椀の水と江湖の水永平の開祖も行持あらん一日は貴ぶべきの一日なり行持なからん百年は恨むべきの百年なりと宣ひき窓にたま〱受難き人身をうけながら何の行持の心もなくて逢難き一生をやみ〱と犬猫などの何の覺悟もなくて朽果る如く苦しかりし三塗の舊里へ懲もなく立歸らんずる事口惜く淺猿しき境界かなと涙を落すべき事なり然るに難きことは甚だ難しとは我得て疑ふ事なし易き事は甚だ易しとは如何なる故ぞとならば若人此經を手を放ちて行住坐臥にやすく〱と持んとならば誓つて一囘法華眞の面目を見屆くべしと願ひ給ふべし法華眞の面目を一見したらん上は咳唾掉臂動靜云爲草木瓦石有情非情悉く皆妙法蓮華經と現成する故に十二時中此經と冥合す何ぞ別に持つ事を用んや眞の法華を一見せずして法華經を持たんと擬するは譬ばこゝに一人あらんに手に一椀の水を擎て零さじ動かさじと晝夜に愼み守りて養ひ增んと願ふが如し縱ひ一生擎げ守つて十成なるも養ひ增す事は存じもよらず自家の飢渴も亦救ふ事能はず彼二利の願行に於ては望を其間に絕ものなり何の用を作にか堪んや若又眞の法華を一見して此經を持つ人は彼一椀の水を江湖に投ずるが如し忽ち三萬六千頃の烟波と混合し德澤を大湖と共にして飛者走る者翔る者蠢く者同く共に行て呑んに盡る事なし眞の法華を見ざる人は一椀の水を擎る人の如し他を利する事能はざるのみに非ず自己も亦利する事能はじ眞の法華を一見する人は彼一椀の水を江湖に投ずるが如し覺へず諸佛の大寂滅海に投入して諸佛の眞法身戒定智慧と冥合して忽ち賴耶の暗窟を擊碎し大圓鏡光を放出して塵沙劫を經て大法施を行せんに終に乏き事なし一見法華の功德の廣大なる事上下四維等匹なし人あり一切諸經論を熟讀せんよりは須らく眞の法華を一見すべし無量の寶塔を修造せんよりは須らく眞の法華を一見すべし百千の佛を造立せんよりは須らく眞の法華を一見すべし三界の秘密を學得せんよりは須らく眞の法華を一見すべし彼黄卷赤軸のみを把ゑて法華經なりと偏執せんよりは須らく眞の法華を一見すべし口に百千萬部の法華經を讀誦せんよりは須らく眼に一囘眞の法華を見るべし是實に成實不壞の高談なり
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遠羅天釜・『遠羅天釜』船頭と磁石と見性の志見性とは法華眞の面目を見屆る事なり此望なくて種々の事して佛法なりと心得るは船頭もなき大船に幼童多く競ひ乘て何地へ寄べき湊もしらで彼方へ漕が好ぞ此方へ漕が好ぞとて思ひ〱に櫓櫂推たて昨日は東の方へ潮に隨て漕漂ひ今日は西の方へ汐に隨て漕漂ひ終に海中を出る事能ず其船中へ案內しりたる船頭忽ち打乘磁石を見定め楫を把時は一日の內にも思ふ湊へ着事なり船頭とは見性の大志なり磁石とは正法の指南なり楫とは平生の志行なり如何して妙法の湊へは漕入べきぞとならば一切の行人は佛を求め祖を求め涅槃を求め淨土を求めて外へ〱と漕出る風情なり故に轉求れば轉遠く轉尋ぬれば轉遙なり眞正妙法の行者は即ち然らず自己本有の妙法は如何なる物ぞと推究て佛を求めず祖を求めず彼妙法は內に在とやせん外にありとやせん內外中間にありや又靑黃赤白なりや是非〱一回見屆けずは置まじきぞと十二時中一切處に於て間斷なく猛く甲斐〱しき氣槩を推立流石の者が思ひ立たる事を遂ずや置べき仕果ずやあるべきと寢ても覺ても起ても居ても捨をかず晝夜に點檢して或時は打返して恁麼に尋る底是何物ぞ何物ぞと尋る儞は是阿誰と進み入是を獅子人を咬の法と云心の妙法は如何〱とばかり尋ねもて行を韓盧塊を逐と云唯兎にも角にも萬事を放下して無念無心になりて南無妙法蓮經華〱と唱へ給ふべし此外別に有難き法理の老僧が書送るべき事ありと思さば上もなき錯りにてこれあるべく候南無妙法蓮華經延享第四丁卯曆仲冬廿五日沙羅樹下老衲書
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遠羅天釜・『遠羅天釜』妙法と蓮華の喩え子細は大凡手蹟にもせよ畫圖にもせよ誰々は琴の妙を得たり誰々は琵琶の妙を得たりと云れんずる人も其妙とは如何なる場所を申す事に侍るぞと問れたらん時に如何なる辯才利口の人にても中々言葉に演る事は叶はざる事なり去程に父子不傳の妙とて吾大切なる一子にさへ敎る事は能はず妙處に到つては吾とても覺ゑず知ぬ處より働き出る事なり人々具足の妙法の心性も左の如し只今此文を披覽し或ひは笑ひ或ひは談じ緒環の絲繰出す如く果しもなく五人に逢ても十人に逢ても少しも間違もなく働きもて行事不思議なる有樣ならずや然るに何物が斯の如く自由には働く事ぞと内に向ひて尋ね求むるに聲もなく臭もなし然ば一向に頑空無記なる物にして木石の如くなりやと思へば例の通り千變萬化自由自在にして有と云んとすれば有に非ず無と云んとすれば無に非ず言語道斷脫洒自在なる處を假に且く妙法とは名付給ひたる事なり蓮華とは蓮の泥土の底に有ても少しも泥土に汚されず妙なる色香を具足して失はず時を得て麗しく咲出るは此妙法の佛心の衆生に在ても穢れず減らず佛に在ても淨からず增ず佛も凡夫にて在し時は一切衆生に少しも違はせ給はで五欲の泥土に汚され給ふは左ながら、蓮の泥中に在が如し其後靈山に於て本具の心性を發明し給ひて希有なる哉一切衆生如來の智慧德相を具すと高聲に唱へ給ひて頓漸半滿の諸經を說宣三界の大導師と成給ひて梵天帝釋に尊信せられ給へば蓮の泥中を出て麗しく發けたるが如し蓮の泥中に屹度具足して居たりし色香を水上に咲出すが如く佛も無量恒沙の法を宣給へども外より持來り給ふに非ず凡夫にてをはせし時屹度具足し給ひし佛性の有樣を其儘に宣給ふ者なり衆生にてをはせし時も成佛の本懷を遂給ひて後も一心の妙法は少しも添減なきが如く蓮の泥中にありし時も咲亂れたる夏も少しも變遷なきに等し故に假用ひて且く一心の妙法に譬へ給ひたる者なり是即ち人々具足の佛心を妙法蓮華經と名づけ給ひたる慥なる證據ならずや
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遠羅天釜・『遠羅天釜』開仏知見と大福長者の子問敎への如くとは如何なる敎へをか指や四安樂の法門か五種の法師の行持か曰然ず方便品に謂ゆる開佛知見道故出現於世の本文經中の眼目なり番々出世の如來無量恒沙の法を說給へども何れも一切衆生に佛知見を開かしめん爲なり然らば佛知見の望なくて如何なる法を行じたりとも諸佛の本懷に契事は努々これ有べからず開佛知見とは一心の妙法を發明する事なり悲みても悲むべきは今末世澆季の世の中なれば一心の妙法の沙汰はすたれ果て思ひ〱の有樣なりたま〱有に似たるも此頃は皆々敎へ事になりて云甲斐もなき風情なり大日經にも如實知自心と說給ひたるものを顧る人さゑなけれ法華經の敎に隨はず妙法は何地に有もしらでうろ〱として西ぞ東ぞとて混さわぎに騷廻りて佛道なりとて月日を送るは譬へば此に大福長者あらんに初め多少の艱難を經て限りもなき田地を切開きて儞等も此田地を耕して我如く大福長者になれとて大勢の子供に優劣もなく過分の田地を譲與へたりしに父の敎へに隨はずして何れも他國に流浪し人の門戶に傍乞食するもあり我は鏡とぎなりとて瓦を把て磨行もあり粟稗の鳥を追てすくみ居もあり長者の子なりとて自身は乞食非人の體にて亂りに人を輕しむるもあり田畑の帳面ばかり每日繰かへして田畑の有處も知ぬもあり帳面さねあれば恐るゝ事はなきぞとて恣に惡行を行ずるもあり我は長者の作法を知たりとて飢渴て作法ばかりを行ずるもあり田畑の有處もしらで晝夜に田畑と叫もあり田地の廣大なるを少し許り見付て大驕慢して婬酒食肉心に任せて亂行なるもありて長者の心に契たる子は一人もなきが如し田地とは一心の妙法を指なり帳面とは諸經論を云なり人の門戶に傍て乞食するとはかの開佛知見の大事は自身艱難刻苦して冷暖自知する事なるを末世になりては人の敎へを受て正體もなき事を聞覺へて是を大悟とする事なりこれは法華經の中の窮子ならずや方等部にては四果の聖者をさへ二乘凡夫と呵責し給ひしものを人々の敎へ給ふ通りの埒もなくたわいもなく繩にもかづらにもかゝらぬ事ならば何しに佛は六年まで雪山に閉籠て皮骨連立し絲を以て瓦を編立たる如く瘦衰へ蘆すゝきの膝を突貫て臂まで穿ち拔たるをも覺へ給はず目のあたり雷の落て牛馬を打殺したるをも御覺へましまさぬ程苦吟し給ひて初めて佛知見を開き給ひたるは如何なる事ぞや